生命体エナジー浄化の会ブログ

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ヴィンセント・ファン・ゴッホ 芸術の本質と霊的エナジー(その2)

芸術の本質と霊的エナジー(その2)
 
 ヴィンセント・ファン・ゴッホは、板画の棟方志功が「わだ(私は) ゴッホになる」と 生涯を通して心酔していた人物です。
 
このゴッホに焦点を当てようと思います。
 
国外ツアーの楽しみのひとつに、美術館に立ち寄ることがあります。
このような美術館には、肖像画が多く展示されています。
 
昔は写真がないので、当時の貴族は自画像を何枚も画家に描かせています。
 
優秀な画家であっても、自分が本当に描きたいのは、「写真の代用」としての人物画ではないから、貴族から発注された『宗教画』や『人物画』には、それほど注目すべきものがない、というのが実態のようなのです。
 
その画家が、人の評価を意識して、仕事として描いた作品よりも、本人の純粋な意思で描き込んだ作品(第三者の評価を無視した作品)にこそ、感銘を受けることが多いようなのです。
 
私事で恐縮ですが―――自分が小学生の時に、ゴッホ展が上野で開催されて、なぜか非常に感銘を受けた記憶があります。
 
その時の作品集の本を購入して、自分の作品を展覧会に出品していた学生時代頃までは、暇さえあれば それを見ていたものです。
 
ヴィンセント・ファン・ゴッホは、生涯で「たった1枚しか絵は売れなかった画家」です。
 
生前は、全く評価されなかったのです。
自分が描きたかった作品しか残していないからなのでしょうか・・・・。
 
人が気にいるであろうという絵画は、一切描いていないのです。
 
彼の死後、58億円で『ひまわり』を日本人が購入することになろうなどとは、生前には予想もできなかったであろうと思われます(他に124億円で落札された作品もあります)。
 
彼は37歳で精神病により自殺していますが、精神を病んでいくほどに、「うねり」や「渦巻き」が大きくなっていったといわれているのです。
 
その中でも、私はこのうねりの大きな『星月夜』が好きです。
イメージ 1ゴッホの『星月夜』
 
ゴッホは、売らんがための絵画を描いていません。
 
人に媚びることがなかったので、自分の精神状態をその絵画に込めていたといわれますが、自分の耳を切り落とし、精神病院にも入院しているので、確かに精神は病んでいたのであろう。
 
だが、病んだ精神が正常になった状態―――おそらく降臨した状態で、この絵は描かれたと推察されます。
 
この『星月夜』の絵は、「うつ病」や「自律神経失調症」のような状態にある方を、癒してくれる効果がある―――と、思われます。
 
そのような状態にある人を、この絵画の中に注入すると、総ての邪気が抜け落ちてしまうようなのです。
 
だから、邪気で霊体が歪みやすい方は、この絵のレプリカを飾っておくことをお薦めします。
 
部屋に飾っておけば、邪気を吸収してくれる力が、この絵にはある―――と思われるからです。
 
次のものは、有名です。
「糸杉と星の見える道」です。
イメージ 2糸杉と星の見える道

この絵も高波動です。
邪気っている方を、この絵の中にダイブさせると、正常化します。
 
「マイナス思考が強い方」「頭痛」「耳鳴り」などに悩まされている方も、この絵は手助けになると 思われます。
 
次のものも お薦めです。
ローヌ川の星月夜」です。
イメージ 3

この絵も高波動です。
 
「糖尿病」の疾患を抱えている方は、この絵の中に毎日ダイブすると、良好な結果が導かれるのではないか―――と、思われます。
 
「糖尿病」は もはや国民病といわれるほど、多くの方がその影響を受けています。 血管がベタベタの血で覆われて、様々な疾患の温床となってしまいます。
 
その成人病の根源ともなり得る「血管」を、良好な状態に導くほどの力を秘めている絵画だと―――思われます。
 
 
ゴッホの魂の視点で、その略歴を視てみますと―――
 
オランダのプロテスタントの牧師の息子として、生まれています。

そのためなのか、ゴッホ自身も信仰心が厚かったといわれています。

成長すると、伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていました。

当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱う仕事です。しかし、経営者の叔父にも また仕事にも幻滅して、7年後、23歳でこの仕事は辞めています。

その後イギリスへ渡り、学校で教えることになりました。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていきます。

オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で 聖職者になるための教育を受けましたが、実際の試験勉強では宗教と何の関わりもないことであり、アカデミックなことを勉強しなくてはならないものでした。

落胆したゴッホは その学校を辞めて、ブリュッセルの副音伝道学校へ入ります。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒されるほどのものであったといいます。

3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣されました。

ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとします。
 

そのあまりにも行き過ぎた熱意のため、解任させられます。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのです。

ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたいと思っていましたが、結局ゴッホは、副音伝道学校の幹部と決裂し、ハーグに出て画家を目指すことになったのです。

ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまいます。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのです。

キリスト教による救済を断念したゴッホは、政治的な運動家ではなかったのですが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていったのです。

 

実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であったことも その背景にありました。

パリに出ると特に、社会主義アナキズムの賛同者が 画家仲間でも多くいたのです。

大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、攻撃的写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていたようです。

オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性とともに描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していたといいます。

そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だったといいます。

 

宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからです。
イメージ 4ミレー「落穂拾い」
1886
年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居しました。

 

初めてモネ、ルノワールドガピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌したのです。

1888
年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていきました。

1890
7月、オヴェールで自殺。

生前に売れた絵は1点だけだったのですが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られるようになり、評価され始めた時期であったといいます。
 
最後に 私が 子供の頃に最も好きだった作品を紹介します。
「アルルの跳ね橋」です。
イメージ 5
 
弟テオに宛てた手紙に―――
 
小さな馬車が通っている跳橋で、青い空にその側面が浮んでいて、同じように青い川と、草がオレンジ色の土手にキャラコを着た いろんな色の帽子をかぶった洗濯女がかたまっているところだ。」  と書き送っています。
 
この作品も高波動です。
 
心臓疾患のある方は、この絵画のレプリカを室内に飾っているといいのではないかと思われます。
 
「冠状動脈系」というよりも「心筋系」に有効に働きかけるようです。
 
心筋梗塞」などの疾患に悩まされている方は、この絵画をペンダントにして、首からぶら下げて、胸の位置に触れるようにするといいかもしれません。
 
                           2015年6月26日記