≪ 伊藤若冲(じゃくちゅう)の絵画の謎に迫る ≫
公認ドラスティックセラピストの武井宇史氏から、
「若冲のNHK放送見ましたか?」「その絵は生きていますか?」
とのメールが送られてきました。
それまで伊藤若冲(じゃくちゅう)など、名前も聞いたこともないし、まったく知りませんでした。
そこで ネットで調べてみました。
もし・・・・歴史に残る人物であれば、名前ぐらいは 過去に聞いたことがあったかもしれませんが、初めて耳にする人物でした。
当然ですが―――
「生きている」という作品を残すには、その名声も歴史の中で輝いているはずです。
そんじょそこらに「生きている」と反応する絵画はありません。
即効で 「若冲の絵は・・・・生きていません」と、武井氏に返信しました。
すると―――
(「サムハラ大神」や「熊山遺跡」のブログで紹介したように、)
「これもある特定の条件を発動させると・・・・とは、いかないでしょうか?」
との返信がありました。
そこで、改めて「伊藤若冲」の描く世界に踏み込んでみたのです。
このような作品は、現代と違い、江戸時代中期に描かれたものです。
シュールなユーモアがあって、とてもその時代のものとは思われません。
ですが―――この作品は 「生きている」という反応は示さないのです。
ですが―――ある条件のもので、この作品と向かい合うと、がらりとその状況が一変してしまうのです。
なぜ今 伊藤若冲なのか?
以下、ネットからの情報です。
若冲自画像
ただし、この時はあくまで変わり者、日本美術界での風変わりな「傍流」としての扱いでした。
この前後にいくつか散発的に若冲研究が進み、徐々に認知・再評価が進んでいきました。
ネットの口コミ等で、じわじわ人気が広がり、予想外の人気を博した結果でした。「えっ、日本にこんな画家いたの?!」と騒然となりました。
以来、「若冲」の名を冠する美術展やその作品が紹介される展示会は、どれも好調な動員数を稼いでいます。
若冲没後、約300年ぶりにその人気が再燃した理由は、いくつか挙げられていますが、有力な説としては―――
桝目描き技法に代表されるデジタルと親和性の高い描画技術と、パソコン上でも拡大鑑賞に耐えうる超緻密な画風が、現在のパソコン文化にフィットしたからではないか?と言われているようです。
以下、ウキペディアからの引用です。
生い立ち
正徳6年(1716年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。
問屋の仕事は小売りではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。
桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという。
23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。
30代半ばから名乗った「若冲」の号は―――
『老子』にある「大盈は冲しきが若きも、其の用は窮まらず」(満ち足りているものは空虚なように見えても、その役目は尽きることがない)を出典にして、禅の師であった相国寺の名僧・大典和尚から与えられたものです。
意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」である。
そんな若冲は、斗米庵、米斗翁とも号し、「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されていたように、芸事にも酒にも女遊びにも、世間の雑事、商売にも関心を向けず、にいた。
大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。
商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。
ただし、この逸話は後述する錦市場に起こった事件と共通する記述が多いことから、事件を元に後世に作り変えられた話だと考えられる。
隠居、絵師として自立
隠居後の若冲は、作画三昧の日々を送っていた と見るのが長年の定説であった。
容量の関係で そのまま「つづき」ます。