生命体エナジー浄化の会ブログ

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棟方志功 芸術の本質と霊的エナジー(1)

≪ 棟方志功 ≫
芸術の本質と霊的エナジー(その1)
 
彫刻に命を捧げた男
 
 2015年4月9日にメルボルンの博物館(入場無料)で、 棟方志功の作品を目にしました。
 
その中のひとつの作品に目が釘付けとなったのです。
 
● 神が表現されている・・・ 神と一体となっている・・・・
 
と、感応したからです。
 イメージ 1
文殊観音の棚」という作品です。 画像の左側の作品です。
 
棟方志功の作品は、この博物館では12枚が展示されていました。
その中の ひとつが、燦然と輝いていたのです。
 
他の作品には それほどの「神的」なエナジーは、感知されませんでした。
 
この時に興味を持ったことから、帰国して棟方志功について 調べてみました。
 
その簡単な生涯を、ネットから検索して 以下に要約して紹介します。
 
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棟方志功は、1903年に15人兄弟の三男坊として、青森県の刀鍛冶屋の息子として生まれました。
 
17歳で母親が病没して、父親も刀鍛冶屋を廃業して、中学にも行けずに、裁判所弁護士控え所の給仕となりました。
 
その頃から絵を描き始めており、18歳のときに 友人から文芸誌『白樺』の挿絵となっていたヴィンセント・ファン・ゴッホの『ひまわり』を 目にします。
 
棟方志功は そのゴッホに出会い、彼の人生が決定づけられた―――というのです。
 
あまりにも強烈なゴッホの挿絵に引き付けられて、棟方志功が『白樺』を手放そうとせずに、抱え込んでいるのを目撃した友人は、 棟方志功に 「君にあげる」と言ったのです。
 
棟方志功は狂喜して、踊り上がって喜んだ、といいます。
 
ゴッホによって、「自分はゴッホになる」と誓い、油絵の道にのめり込むことになります。そして―――
 
21歳のときに上京して、油絵を描き続け、展覧会に出品しても落選の日々が続きます。
周囲の仲間も家族も、有名画家に弟子入りして 画家を続けるようにアドバイスしますが、
 
「師匠についたら、師匠以上のものは作れない。 あのゴッホも独学で絵を学んでいたのだから、私は決して師匠について、弟子入りしない。」
 
当時の日本の画壇において、頂点に君臨していた安井曾太郎梅原龍三郎でさえ 油絵の世界では西洋人の弟子に過ぎませんでした。
 
彼は自伝で
「私は日本から生まれる仕事をしたい。 私は、私から始まる仕事をしたいものだ、と生意気に考えていました」と、語っています。
 
そして―――
棟方志功は あのゴッホが憧れていて、彼の生涯の夢は 日本に来て浮世絵の『版画』を見ることにあった、ということに気付いたのです。
 
ゴッホは 浮世絵の収集家でもありました。
 
ゴッホなど印象派の西洋画家が、こぞって賛美を惜しまなかった『版画』の世界―――葛飾北斎安藤広重など江戸時代の浮世絵の中にこそ、西洋の油絵では現わすことのできない世界がある、と思い至ったのです。
 
『版画』でなくては生まれてこない、あふれてこない命が確実に存在する・・・・はずだ
と、このように気付いたのです。
 
そして―――
 
上京から12年目の33歳のときに、初めて自分の作品が売れたのです。
それ以降、棟方志功の進撃は続きます。
 
35歳で、帝展で版画界初の「特選」に選ばれました。
 
39歳のときに、『版画』という版を重ねて作品とするのではなく、「板の命を削り出すことを目的とした芸術を、『板画』とすることを宣言しています。
 
『版画』を『板画』と書くのは―――木の魂に彫るということなので、板という文字を使うほうがしっくりくるのだといいます。
 
板の声を聞き、木の中にひそむ詩を掘り出すのだというのです。
 

「驚いてもオドロキきれない
 喜んでもヨロコビきれない 
 悲しんでもカナシミきれない
 愛してもアイシきれない
  それが板画です  」

40歳で、ベートーヴェンに心酔する。
 
ブツブツいいながら、ベートーヴェンの喜びの歌を歌いながら一心に彫っていたといいます。
 

49歳 ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。
52歳、サンパウロビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。
53歳(1956年)、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタに。

 
「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました。」(当時会場で働いていた人の証言)

57歳 左目を失明
66歳、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画『大世界の柵』を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。
 
次のものは青森県庁にある棟方志功お作品です。
イメージ 2
この作品には、棟方志功自身が一体化しているようなエナジーが感じられます。
 
棟方志功の作品には 『○○の棚』と名付けられたものが多いです。
この柵とは
 
「四国の巡礼の方がたが寺々を廻られるとき、首に下げる、寺々へ納める廻礼、あの意味です。 
 
1柵ずつ、一生の間 生涯の道標を1つずつ、そこへ置いていく。 作品に念願をかけておいていく、柵を打っていく」 と終わりのない芸術作品に願いを込めて語っています。 粘り強い東北人の魂に触れる想いが伝わってきます。

この作品「緞帳(どんちょう)」は、弘前市民会館のものです。
この作品は 高波動です。
イメージ 3
「緞帳」の原画は「御鷹揚ゲノ妃々達(おんたかあげのひひたち)」(弘前市立博物館所蔵)です。

大きさは8メートル、横16メートル、重さ約800キログラムです。
 
棟方は「ねぶた」が好きで、青森市第一号の名誉市民としても 祭りに頻繁に参加しています。
 
棟方は目を板にくっつくように必死の形相で憑かれたように彫ります。
右目は半分くらいしか見えないが、彫りだすと見えるようになるといいます。
イメージ 4
次のものは 友人の草野心平の詩「わだばゴッホになる」の一節です。
 

「 鍛冶屋の息子は
相槌の火花を散らしながら

わだばゴッホになる

裁判所の給仕をやり
貉の仲間と徒党を組んで

わだばゴッホになる

とわめいた

ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし
ゴッホにはならずに
世界の
Munakataになった

古稀の彼は
つないだ和紙で鉢巻きをし
板にすれすれの独眼の
そして近視の眼鏡をぎらつかせ
彫る
棟方志功を彫りつける 」
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世界中のあらゆる国際展で日本人が受賞するのは版画だけです。
 
それは―――棟方志功がいっていたように、
「油絵を 志しても それは西洋のものまねに過ぎないのではないか」
 
「ならば、その師となる西洋画家には 本質的に太刀打ちできないのではないか、」
 
「ならば、日本独自のものは版画ではないか、浮世絵にこそ日本独自の芸術があるのではないか、」
 
あのごゴッホでさえ 日本の版画(浮世絵)に心酔していたではないか、と版画家を志した棟方志功は、その一心で 世界のMUNAKATAになったと思うのです。

1969年に青森市初代名誉市民を授与される。翌年、67歳の1970年に 文化勲章を受章。
そのときのコメントは――― 

「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。
 片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。

70歳、板画と肉筆画を融合させていく。
1975年72歳で永眠。同日付で贈従三位を受ける。
 
自ら板極道を名乗った男は―――
「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。 他には何もなくていい」  という遺言を残しています。
 
棟方志功は、生涯敬愛してやまなかったヴィンセント・ファン・ゴッホと 全く同じ形の「静眠碑」と名付けられた墓に眠っています。
 
                           2015年6月18日記