《 出羽三山を巡る旅 1 》
2021年8月15、16日と、東北の「出羽三山を巡る旅」に出かけました。本ブログで紹介した「恐山を巡る旅」よりも、前のことです。
お盆休暇の時で、突然「行かないか?」の話が持ち上がり、急遽出発となりました。
なによりも生きたまま「ミイラ」となる「即身仏」で有名なところです。
その昔、私が山形県の国体のためのスポーツ指導者をしていたときに、地元のスポーツ関係者の案内で、「羽黒山」を見学させて頂いたことがあります。
歩いて登るものと思っていたのが、クルマで上まで行けたので、少し驚いた経験がありました。
そのときは、関係者のご案内で「観た」だけでしたので、もう一度、自分のペースでじっくりと見て、観て、視て、診てみたい―――と思ったことが、大きな動機となりました。
庄内空港に降り立ち、すぐにレンタカーに乗り込み、まず、「羽黒山」を目指しました。
今回行く羽黒山―月山―湯殿山の三山が、全て揃って開山したのが丑年で、2021年は12年に一度の丑年に当たるために、12年分のご利益があるといわれる年でした。
行者が行き交う「修行の場」として、開山されました。
今から1400年も前のことです。
「羽黒山は、現在」、「月山は、過去」、「湯殿山は、未来」に見立てられています。
この三山を巡ることは、現生の幸せを祈りながら、新しい魂を生まれ変わらせる「旅」として、江戸時代の庶民の間で広がった・・・・といいます。
出羽三山は、それぞれの山頂に神社があります。
昔から―――
「西の伊勢参り。東の奥参り」という言葉があります。
昔から、西の伊勢神宮にお参りしたら、東の出羽三山をお参りする―――というものです。
そういわれるほど、実際に参拝者が多くいるのです。
本来は、下から2446段の石段を登って、山頂にある神社、三神合祭殿をお参りしますが、我々は、まず山頂までクルマで行きました。
「羽黒山ご案内」版です。
本来は、麓にクルマを止めて、出羽三山神社社務所を通り、「瑞神門」⇒「五十の塔」⇒「一の坂」「二の坂」「三の坂」を上り、「三神合祭殿」に至るというコースです。
「羽黒山」―「月山」―「湯殿山」と、三山の全体の位置が表示されています。
天宥社です。
このような建造物がありました。
特に何も感じないところでした。
末社が並んでいます。
判りづらいかもしれませんが、左から
「大雷神社」「健角身神社」「稲荷神社」「大山祗神社」「白山神社」「思兼神社」「八坂神社」
我々は、この中で自分に最も適合した神社を選び、そこに持参のブレスレットを置いて、同調させました。
「三神合祭殿」の入り口の鳥居です。
「丑年御縁年」との幟がひらめいています。
「三神合祭殿」の案内図があります。
境内は、このように樹木に囲まれています。
とても清々しい雰囲気です。
ここは、それほどの波動ではないので、素通りしました。
「三神合祭殿」です。
社殿は、古修験道独自のもので、杉材で建造されていて、内部は総朱塗りの萱葺きの豪壮な建物です。
この合祭殿は、文政元年(1818年)に完成したもので、その当時には莫大な建造費をかけて、職人5万人以上、手伝い人足3万7千人にも達したといいます。
平成12年に、国の重要文化財に指定されています。
「鏡池」です。
「鏡池」のそばに、このような塔(?)が2本建っていました。
何だかよくわかりません。行きませんでした。
そして―――「三神合祭殿」に入ります。
羽黒山の山頂にあります。
ここは、出羽三山の開祖である蜂子皇子が、難行苦行の末に、羽黒大神を拝して、羽黒山寂光寺を建立したところです。
さらに「月山神」「湯殿山神」を勧請して、羽黒三所大権現と称して奉仕したと伝わります。
まず、「過去」に関わる「月山神社」です。
多くの方が、「お賽銭箱」にこのような貼り紙を残しています。
この影響で、この空間には、少し邪気が漂います。
どこでも、ベタベタとこのように貼り付けることが少なくありませんが、ここでは、あまりにも過剰なので、画像に収めました。
「月山神社(過去)」の左隣に、「湯殿山神社(未来)」があります。
右側に「出羽神社(現在)」があります。
中に入ると・・・・そこそこの波動です。
「過去」の月山神社を中心に、「未来」の湯殿山神社(左)、「現在」の出羽神社(右)が一堂にそろいます。
「三神合祭殿」の扁額です。
この中のそれぞれの祭殿は、正直それほどの高波動ではありませんでした。
悪くはないのですが、かなり期待していましたので、もっと引き付けられるエナジーがある、と思っていました。
「蜂子社」(手前)です。
この奥は、「厳島神社」です。
「祭神 蜂子命(はちこのみこと)」とあります。
ここに「第32代崇俊天皇の皇子で、出羽三山の開祖である」と書かれています。
蜂子皇子とは―――
聖徳太子は「このまま宮中にいては、蜂子皇子の身も危ない」と、逃げるように勧めましたので、宮中を後にしました。
北上して、佐渡に渡り、現在の鶴岡の由良の浦に辿りつきました。
そこから修験者として修業を重ねて、この地(羽黒山)を拓いたと伝わります。
これが「蜂子社」です。
ここで、我々は初めて強烈な波動に遭遇しました。
中に入ると、もの凄い波動を感知します。
全身が、高波動に包み込まれるように感じて、身体がゾクゾクします。
凄い波動です。
中では、「祭神 蜂子命(はちこのみこと)」の波動は感知しません。
天狗界系の「大権現(大天狗)」のエナジーと思われます。
さっそく、全員の持参のブレスレットを置いて、この空間にある高波動を吸引しました。
今回の参加者全員で、心の底から感謝を申し上げて、この波動に触れられたことに、幾度ものお礼を繰り返しました。
この建造物には、「蜂子命社」とされています。
出羽三山開祖である蜂子皇子は、「出羽大権現(大天狗)」のエナジーと同調しているのだろう、と思いました。
何やら「井戸」のようなものがありました。
詳しいことは分かりません。
この鳥居から先は、2446段の石段が続く参道になります。
我々は、直接クルマで山頂まで来ましたので、この有名な「一の坂」「二の坂」「三の坂」は通ってきていないのです。
「厳島神社」です。
ここに祭神として―――
宗像三神(むなかたさんじん)
多紀理比売神(たきりつひめがみ)
市寸島比売神(いちきしまひめがみ)
多岐津比売神(たぎつひめがみ)
津速魂神(つはやむすびのかみ)
が祀られています。
「厳島神社」です。
良好な波動です。
ここには、宗像三神の「多岐津比売神(たぎつひめがみ)」のエナジーが反応を示しました。
津速魂神(つはやむすびのかみ)は、反応を示しませんでした。
中に入ると―――
このようになっています。
この空間は、「多岐津比売神(たぎつひめがみ)」のエナジーで覆われています。
我々は、感謝を捧げて、ここを後にしました。
ここは、「能除太子御座石」とあります。
また、「月山遥拝所」でもあります。
隣の「月山」を遥拝するところです。
樹木がなければ、「月山」を展望することが出来ると思われます。
次に我々は、「羽黒山霊祭殿」に行きます。
「霊祭殿」の案内場には―――
「祖霊安鎮の山として先祖の御霊を祭る。
天井画の「天女と龍」は・・・天女の住む天上界は8000年もの長寿が得られる世界とされ、龍神に守護された世界に祖霊が昇天することを願う意味が込めっれている」
このように書かれています。
これが「霊祭殿」です。
中は開いていませんでした。
次に、「東照社」に行きます。
寛永18年(1641年)、徳川幕府の宗教顧問であった天海僧正の弟子となった羽黒山の第50代天宥別当は、修験道から天台宗に改宗することを条件に、「東照大権現(徳川家康)」の「東照宮」を勧請することを申し出ました。
明治時代に「東照宮」は「東照社」と改められて、1980年に解体・復元したものです。
これが「東照社」です。
今でこそ、徳川260年続く徳川幕府を開いた徳川家康は、稀代の英雄の一人とされていますが、
私が子供の頃の印象は、「狸おやじ」と一般的にはよく思われていませんでした。
真田十勇士などの漫画などでは、常に悪役でした。
豊臣秀吉が亡くなると、様々な手法で因縁をつけて、豊臣家に喧嘩を仕掛けて天下を獲るなどの経緯から、悪知恵があり、ほとんどの日本人は、徳川家康を悪役の代表のように思っていたと思います。
ところが、山岡荘八の『徳川家康』の長編小説が世に出ると、「忍耐の人」「我慢の人」がクローズアップされて、世の中の見方が変わったように思います。
このように、時代小説などで取り上げられることで、世間の評価は変わります。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、大河ドラマでも取り上げられて、いまだに幕末の風雲児として世間の関心が高いですが、昔はほとんど知られていませんでした。
長崎のグラバー邸は観光地ですが、このイギリス人の手足になって動いていたことは、司馬遼太郎の小説にも出てきません。
薩長の中を取り持った英雄として描かれていますが、その背後にはフリーメースンのグラバーがいて、英国が直接手を下すより、内部分裂で幕府と薩長土佐などを争わせた方がよい、との策略がありました。
ともあれ、幕府に大政奉還を行わせた背後の一人に、竜馬が存在したことは確かです。
江戸幕府を開いた徳川家康を「神」として祀る「東照社」は、開いていませんでした。
つづく
2022年12月13日記