生命体エナジー浄化の会ブログ

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浅草七福神巡り その4

《 浅草七福神巡り その4 》

今戸神社待乳山聖天

 

 浅草七福神巡りも、残りがあと2か所となりました。

 

次ぎに向かったのは、「今戸神社」です。

「福禄寿」(ふくろくじゅ)をお祀りしています。

 

今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が、奥州討伐のときに、京都の石清水八幡宮を、当地に勧進して祈願したのが始まりです。

その後、関東大震災東京大空襲などで、数々の戦乱や火災に見舞われましたが、その都度再建されてきました。

 

現在の社殿は、昭和46年(1971年)に再建されたものです。

昭和12年(1937年)には、隣接していた白山神社を合祀して「今戸八幡」と呼ばれていたのが、「今戸神社」となっています。

 

現在は、浅草七福神のひとつ「福禄寿」を祀って、現在の賑わいを見せています(「福禄寿」は、浅草七福神に後から加わったものです)。

 

画像で見るように、参拝には「列」ができていました(多くの参拝者がいました)。

 

この神社のしたたかさは、それだけではありません。

この今戸神社が「招き猫発祥の地」と名乗っています。

つまり、「招き猫発祥の地」と名乗って、「縁結び」を強く打ち出しています。

 

そもそも古文献には、今戸神社と「招き猫」に関わるものはない、とされています。

 

今戸神社の「招き猫」の由来は、

「浅草に住んでした老婆が、貧しさのあまりに飼っていた猫を手放しましたが、

夢枕にその猫が現れて、『自分の姿を人形にしたら、福徳を授かる』というのです。

 

その猫の姿を焼き物(今戸焼)にして売ったところ、大評判となった・・・というのです」

これが―――今戸神社の招き猫の発祥の由来です。

 

この由来は、浅草寺浅草神社に由来する記録が残っていて、今戸神社には何ら関係がない、とされています。

つまり―――「招き猫」と「縁結びパワースポット」の、平成なってからのブームに便乗したものとされています。

 

 

今戸神社」とあります。

 

戦前合祀された白山神社の祭神に、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」の夫婦の神を祀っていて、近年になって「縁結びにゆかり」があるとアピールされています。

 残念ながら、有難い波動は何ら反応を示しません。

 

 

これが「福禄寿」です。

かなりの邪気を吸い込んでいます。

 

いろいろな事象を宣伝に使っているのですから、せめて浅草七福神の「福禄寿」だけでも良好な波動を保てるようにしていただきたいものです。

 

ついでに―――

当神社は、新選組の「沖田総司臨終の地」とも主張しています。

 

私は司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んで、大きな感銘を受けたことがあります。

主人公の新選組副隊長だった土方歳三が、最後を迎えるシーンで、沖田総司が語りかけてきて回想する場面があります。

 

読後1週間ぐらいは、「燃えよ剣」の感動に酔っていました。

その中で、沖田総司千駄ヶ谷の植木屋で亡くなったとありました(諸説ありますが、これが定説です)。

 

ですが今戸神社は、当時結核を患っていた沖田を診ていた松本良順が、当時今戸神社を仮の住まいとしていた、とすることからきているだけなのです。

それを、沖田総司臨終の地」と主張するのですから、この神社の品格が疑われます(沖田総司の墓まであります)。

 

 

さて―――次に行くのは、私の好きな「聖天」様を祀るお寺です。

御朱印色紙の最後に頂くのが、その色紙の真ん中に入ります。

 

それで、最後に「聖天」様を入れていただきたいので、待乳山聖天(まつちやましょうてん)が、最後の浅草七福神巡りの地としたいと主張して、皆の同意を頂きました。

 

私は、守護神の一つである「聖天」様への思い入れが強いのです。

しかし、考えてみれば、「聖天」は「七福神」の中には入っていません。

 

待乳山聖天(まつちやましょうてん)では、「毘沙門天」をお祀りしています。

したがって、御朱印色紙の真ん中には、「毘沙門天」が入ることになりました。

 

なぜ、「聖天」に思い入れが強いのか?

これについては、本ブログでも書いていますが、もう一度書いておきます。

 

以前福岡の講習会で福岡市に行ったときに、東長寺に案内されたことがあります。

この東長寺は、全体に「結界」が張られていて、近隣の寺院とは明らかに霊格が違っていました。

 

ここの「旧堂」に、「聖天」様が本尊として祀られていました。

「聖天」は個人で祀ることは、ほとんど無理で、よほど霊格の高い寺院でないとできない、と云われています。

 

「触らぬ神に祟りなし」との言葉がありますが、この「神」とは聖天をさす言葉です。

聖天は、穢れを嫌います。

ですから、いい加減な対応では、その祀った本人にも災いをもたらすことになる―――と云われているのです。

 

そのために、通常の寺院でも「聖天」様を祀るのは、避けたいし嫌がられると云われています。

聖天は、「子孫七代の福を、一代でとる」と云われています。

 

紀伊国屋文左衛門パナソニック創業者の松下幸之助などは、「聖天信仰者」でした。

 

一説では、徳川家康も「聖天信仰者」で、あまりに霊力が強いので、「聖天は恐ろしい!」との噂を流して、世間に浸透するのを妨げたともいわれています。

 

真剣に拝んで、誠意を尽くすと、七代先の栄華も一代でもたらすと云われるほど、その霊力は強いとされていますが、聖天は、歓喜天とも呼ばれます。

 

これには、「歓喜天秘法」という七代の運を一代に集める秘術があるといいます。

聖天(歓喜天)の像に油を注ぐなどの秘法で、一般の人ではまず無理なのです。

 

そのために、福岡の東長寺に初めて訪れたときには、「オン・キリク・ギャクウン・ソワカ」の御真言で同調しましたが、すぐに抜けてしまうと思っていましたが、実際にはかなり長い期間、私の身体に同調していました。

 

そのために、翌年訪れたときには、そのお堂に入り(数年後に行きましたが、そのお堂は閉じられていました)、真剣に御真言で同調しましたので、今でも同調していただいて、守護神の一体となっていただいています。

 

その後も、「聖天」とある寺院を訪れると、真剣に御真言とともに拝むようにしています。

 

このような経緯がありますので、待乳山聖天(まつちやましょうてん)を最後にして、御朱印色紙の真ん中に、「聖天」様の文字をいれてもらおうと思ったのです。

 

残念ですが、「毘沙門天」になりました。

毘沙門天」に帰依して有名なのは、上杉謙信です。

 

生涯一度も負けたことがなく、決して卑劣な策を用いず、正攻法で攻めるのですが、あまりにも強く、「軍神」とみなされていました。

もし上杉謙信がいなかったら、もう一方の「軍神」である武田信玄は、天下を掌握してたかもしれないといわれていました。

 

上杉謙信については、本ブログで「謙信は女性であった!」との説を追っています(よろしければお読みください)。

毘沙門天」も軍神であり、金運に絶大な力があるとされています。

 

私は「毘沙門天」も同調して頂いていますので、御朱印色紙の真ん中でも嬉しいのです。

 

 

さっそく境内に踏み込みます。

波動は高くないですが、数体の観音菩薩像が並びます。

 

なかなか立派な境内です。

待乳山聖天(まつちやましょうてん)は、浅草寺聖観音宗)の子院のひとつです。

 

正式には「本龍院(ほんりゅういん)」で、山号は「待乳山(まつちやま)です。

 

本尊は、聖天(歓喜天)」で、この歓喜天は「十一面観音」の化身とされています。

ここに浅草七福神の「毘沙門天」が祀られています。

 

 

本堂に入ります。

 

ここの歴史は古く、595年(推古三年)に、待乳山(まつちやま)の小高い丘に、金龍が出現して(この金龍が浅草寺山号「金龍山」の由来となったと伝わります)、

601年の旱魃の時(推古天皇9年)に、歓喜天(聖天)と十一面観音が安置されたと伝わります。

 

また、平安時代の天安元年(858年)に、慈覚大師が東国巡回のおり、当山に籠り、21日間の修行をして国家安泰、庶民の生活安定を祈願して、十一面観音菩薩像を彫って奉安されたと伝わります。

 

堂内には、「大根」が奉納されています。

 

本堂からは、「大聖歓喜天(聖天)」の波動は伝わってきません。

「十一面観音」の波動も伝わってきません。

 

毘沙門天」の波動は伝わってきます。

 

毘沙門天」の波動は伝わってきますが、「毘沙門天」は通常は公開されていません。

御開帳は毎年年末から1月末までです。

 

この本堂の左側に、「毘沙門天」の波動を感知します。

 

 

大根は、「聖天」のお供え物となりますので、多くの方が大根を奉じています(200円で購入できます)。

 

不思議なのですが、ここでは「聖天(歓喜天)」の波動は感じないのですが、これら「大根」の波動は上昇しています。

不思議に思って、「なぜなのか?」と分析してみました。

 

この大根の上に乗せられたものは、波動は高まっていません。

しかし、その下にある大根は、波動が高くなっています。

 

つまり、我々が訪れたときには、僧侶が拝んでいませんでしたが、お経を唱えて拝んでいると、聖天(歓喜天)の波動に中が包まれて、大根に良好な波動が宿るのかもしれません。

 

試しに、このブログを書いているファミレスの客(体軸がブレて、身体が歪んでいます)に、画像の上にある大根を投入しましたが、まったく反応しませんが、下にある高い波動の大根を投入すると、体軸が整いました。

 

やはり、僧侶がお経を唱えると、その波動が「大根に浸透して、波動が高くなる」ように思われます。

「聖天(歓喜天)」を招聘するお経によって、捧げられた大根が販売されていますので、その大根は購入してもよいかもしれません。

 

本堂の扁額には、「聖天宮」とあります。

 

待乳山歓喜地蔵尊供養会」とあります。

ここでは様々な法要がされています。

毘沙門天(ネットより)

 

この毘沙門天は、年末から1月の期間のみ開帳で、それ以外では見られないようです。

毘沙門天は、聖天(歓喜天)の守り神です。

 

これは、本堂裏手にある「道灌稲荷」です。

江戸を開いた太田道灌が勧請したと伝わるようです。

 

波動は高くありません。

 

 

さて、我々は本堂の裏手に行きました。

この本堂裏手の石畳の上に立ち、「天地結合の印」を作り、ここで全身にエナジーを吸引しました。

 

多くの方は、左手の人差し指を一本の伸ばし、右手の指を下に向けて伸ばして「天上天下唯我独尊の印」を組みますが、

我々は、右手を上に伸ばして、左手を下の伸ばす「天地結合の印」で行います。

 

このとき、伸ばす指は、人差し指が一本となるのか、人差し指と中指の2本になるのかは、その人の反応によって変わります。

 

ともに、上は大宇宙の空間(もしくは太陽から)エナジーを体内に入れて、下からは地球からのエナジーを吸引して、丹田で統合します。

これにより、高い波動が身体に流入してきます。

 

十分に波動が体内に注入されたら完了です。

これを一人一人がやりますので、時間がかかります。

 

境内の全体画像です。

入口近くには、小説家の池波正太郎の碑もあります(この近くで生まれたようです)。

 

こうして、浅草七福神巡りが終了しました。

 

浅草七福神巡りを振り返りますと―――

七福神」ですが、9か所を巡っています。

 

「神巡り」は、「敬愛豊財」「芸道富有」「人望福徳」「有徳蓄財」「勇気授福」「清廉度量」「延命長寿」の七つの幸せが授かるといわれます。

福の神への信仰は、鎌倉時代から「大黒天」「弁財天」「恵比寿天」の三神を合わせて参詣する信仰がありました。

 

室町時代になると、この三神に「毘沙門天」「布袋尊」「「福禄寿」「寿老人」の四神が加わり、「七福神」となりました。

江戸時代になると、文化発祥の地といわれる浅草で、「七福神巡り」が盛んになり、「商売繁盛」「家内安全」という願いが加わり、多くの方が「七福神巡り」を行うようになってきました。

 

その後、太平洋戦争などで一時中断します。

それが復活したのが、昭和52年です。

 

このときに、「福禄寿」「寿老人」が増えて(この2つはダブります)、全部で「九か所巡り」となっています。

 

 

全ての御朱印色紙に、九か所を巡り、七福神が書かれて完了しました。

これが、私のベッドにある御朱印色紙です。

 

このままでは、それほどの波動ではないので、高波動を注入しています。

今回のパワースポット探索の会メンバーの全ての色紙にも、高波動を注入しています。

 

                了

 

           2022年6月6日記

 

 

浅草七福神巡り その3

《 浅草七福神巡り その3 》

吉原神社―石浜神社―橋場不動尊

 

 凰神社を後にして、次に「吉原神社」に向かいました。

「吉原神社」です。

 

有名な「吉原遊郭」のあった地です。

「吉原神社」の鳥居には、「吉原弁財天」とあります。

 

なぜ?浅草なのに、「吉原」の名前があるのか。

「吉原」といえば、私には現在の人形町が思い浮かびます。

 

それは―――「吉原遊郭」が、この地にあったことが発端です。

「吉原遊郭」は、人形町から浅草に移っていました。

 

「吉原遊郭」は、そもそも江戸時代の元和3年(1617年)に、幕府の許可を得て庄司甚右衛門という人物が、江戸市中の此処かしこにあった遊女屋を、日本橋人形町周辺に集めたことに始まります。

 

当時は、日本橋を超えると、あたり一帯は鬱蒼と葦が生い茂る地帯でした。

それで「葦原(あしはら)」と呼ばれていたのが、転じて「吉原」と呼ばれるようになりました。

 

昔は寂しい地帯でしたが、数十年後には多くの男性が集まるようになり、江戸の中心街のようになってしまったので、明暦3年(1655年)に現在地の千束村に移転させられました。

 

現在の人形町周辺にあった吉原遊郭を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」と呼んでいます。

 

吉原は、大名から江戸の庶民まで、多くの交流の場であり、文化発信の地でもありました。

 

多くの文学作品や、歌舞伎、浮世絵などの題材ともなっています。

 

遊女の中には、高い教養を身に付けた者もいて、「遊女遊び」をするにも、それなりの心構えと教養が必要でした。

 

遊女の中の最高位の「花魁(おいらん)」には、一般庶民は近づくこともできす、ただ眺めるだけの存在でした。

 

花魁になるには、その候補者の女性を、幼少の頃から徹底的に鍛えあげていて、

古典から、書道、茶道、和歌、三味線、囲碁に至るまで、教養、芸事を仕込まれていました。

 

当然、元手もかかっていますので、花魁を揚げるには、莫大な資金が必要でした。

 

吉原遊郭に遊びに来る人々は、非日常の雰囲気に触れるだけの「素見(ひやかし)」が7割もいたといわれています。

 

昭和33年「売春防止法」の施行により、吉原遊郭の長い歴史に幕が降ろされました。

 

御朱印」をもらうには、人が多いので列に並ばなくてはなりませんでした。

 

「吉原神社」「吉原弁財天」とあります。

本堂は大きなものではありません。

 

「弁財天」の波動も一切ありません(弁財天は、別の吉原弁財天祠にあります)。

「稲荷神」の波動も一切ありません。

身体に感知できる良好な波動は、まったくありませんでした。

 

歴史を辿ると―――

 

この「新吉原」には、遊郭の守護神として、五か所の稲荷社がありました。

吉原遊郭の入口である「大門(おおもん)」の手前に、「玄徳(よしとく)稲荷社」があり、

遊郭内の四隅には、「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九朗助

稲荷社」がありました。

 

その後、明治5年に五つの稲荷社が合祀されます。

その総称として「吉原神社」と名付けられました。

 

その後、関東大震災で焼失します。

さらに「新吉原」隣接の地あった「吉原弁財天」も合祀します。

 

しかし、東京大空襲で焼失して、昭和43年に現社殿が造営されています。

 



吉原観音

 

この観音像は、大正12年(1923年)に東京を襲った関東大震災で、遊女490人が逃げ場を失って亡くなりました。

 

遊女及び遊郭関係者の慰霊を目的に設置されたものです。

その歴史を知ると、何とも暗い気持ちにさせられます。

「吉原弁財天」(琵琶を奏でています)

 

左も「弁財天」で、真ん中の像も「弁財天」です。

「弁財天」は、叡智や学問、あるいは音楽の神とされています。

 

そして、言うまでもなく財運が高まる福徳神、財宝神でもあります。

そこから、「大黒天」「恵比寿天」と共に「弁財天」を含めて、七福神の基になったとされています。

 

室町時代の文献に、「大黒天」「弁財天」「毘沙門天」の三尊を合一した「三面大黒天」を、天台宗の開祖である最澄が祀ったという伝承があります。

 

この「三面大黒天」を秀吉が保持していて、戦場にも持ち込んで拝んでいたと伝わります。

 

「天下人」となった秀吉にあやかり、私もこの故事に倣い、「三面大黒天」を購入していますが、「大黒天」「弁財天」「毘沙門天」の三尊にお入りいただいています。

 

さて―――弁財天ですが、

 

この画像の真ん中の「弁財天」は、「生きていません」。

つまり、ありがたがって拝んでも、この「弁財天」では「金運」は高まらないと思います。

 

ですが―――画像の左側の「弁財天」は、「生きています」。

 

拝むだけの効力がありそうです。

「金運」「財運」を高めたい方は、真剣に拝むといいかもしれません。

 

ただ、この「弁財天」は、扉の隙間からカメラで撮ったもので、通常は扉を開いて公開していないようです。

 

こうして、次の目的地である「石濱神社」(いしはまじんじゃ)に行くことになりました。

「寿老人」をお祀りしていますので、心勇んで向かいました。

 

 

 

石濱神社

 

 

石濱神社の境内です。

 

立派な拝殿があります。

「石濱神社」は、聖武天皇の時代である神亀元年(724年)に鎮守されたもので、源頼朝藤原泰衡を征討する折に、ここで祈願して

 

「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠み、大勝して目的を果たしたので、後日、社殿を造営寄進して、神恩に報いたと伝わります。

 

拝殿には、伊勢神宮内宮、下宮と同じ「天照大神」「豊受大神」が祀られています。

 

そのために、関八州の庶民は「お伊勢参り」に行かずとも、この「石濱神社」に詣でることで、「伊勢参り」を済ませることができるようです。

ここに―――

「神排詞(となえことば」として、

祓いたまえ 清め給え(はらいたまえ  きよめたまえ)

 

神(かみ)ながら 守り給え(まもりたまえ)

幸(さきわ)え給え(たまえ)」 

このようにあります。

拝殿には、伊勢神宮内宮、下宮の「天照大神」「豊受大神」が祀られているはずですが、その霊気は反応しません。

 

これでは、「お伊勢参り」の霊験を頂くことはできないかもしれません。

 

寿老人とあります(画像の左)。

「寿老人」は公開していません(扉は閉まっています)。

 

その隣(右)

にあるのが、「宝得大黒天」です。

 

「宝得大黒天」

 

見た目は、人形のように映りました。

歴史を感じさせることもなく、波動も低いものです。

 

手を合わせて、感謝の気持ちを捧げるほどの気持が起きませんでした。

これが本物の「寿老人」です(ネットから)。

毎年新年元旦から、1月の31日までしか公開していません。

※現在は、常時公開されているようです。

 

「長寿延命」「諸病平癒」の神徳があるとされています。

鹿を連れていますが、この鹿は長寿の象徴となっています。

 

1月の公開期間中は、撮影も可能なようですが、通常は高波動の仏像などは「撮影禁止」が多いです。

 

そのような中で撮られたのか、画像の波動は高くありません。

そこで―――「寿老人」本体の中に隠れている神的な高波動を引き出して、次に示します。

神的高波動の本体が浮き上がってきたときの「寿老人」です。

この画像で、「長寿」「延命」をお願いしてください。

 

この画僧であれば、感謝の気持ちを捧げる気持が起きると思います。

扉が閉められていて、公開されていないものです。

 

右から、「寿老人」「妙義八幡神社」「北野天満宮」「江戸神社」とあります。

 

石濱神社には、末社が多くあります。

 

拝殿横には、真先稲荷があり、ここには「招来(おいで)稲荷神社」(左)と、「白狐神」(右)があります。

 

その右隣には―――

「富士遥拝所」もあります。

残念ながら、全ての波動は高いものではありません。

 

期待外れの感を抱きながら、次の浅草七福神の「橋場不動尊」に向かいました。

 

 

橋場不動尊

 

橋場不動尊の創建は、8世紀になります。

760年に、相模の国の大山寺の良弁という僧侶が、不動明王のお告げを賜り、1本の霊木から3体の不動明王の像を造りました。

 

そのうちの一体を大山寺に安置して、一体を自分が持ち、残りの1体を弟子の寂昇に渡しました。

 

その寂昇は、上総の国へ旅に出ます。

その途中で、寂昇は不動明王の夢を見ます。

 

その夢に従い、この地に不動明王の像を安置します。

これが、橋場不動尊のはじまりです。

 

ここに不動明王が祀られています。

 

不動明王の御真言は、いくつもありますが、ここでは

「ノーマーサーマン、ダーバーサラナン、センダーマーカロ、シャーナンソワタヤ、ウンタラターカンマン」 と唱えるようです。

 

ここには、浅草七福神の「布袋尊」が祀られています。

ですが、その本体がどこにあるのか判りませんでした。

不動明王の右隣にあるのが、そうかもしれません(画像が暗くて解りません)。

 

 布袋尊」とは―――

 

常に微笑んでいて、粗衣をまとい、大きな袋を肩にかけて、信仰の厚い人には中の宝物を与えたといいます。

 

住居を定めることもなく諸国を遊行して、超然として過ごしたと云われています。

 

雪の中でも半裸で寝ていましたし、身体が雪に濡れることはなかったといいます。また、

吉凶を予見して、間違えることはなかったといいます。

 

中国では歴史上実在した人物ともいわれ、「弥勒菩薩」の化身であるとも云われています。

 

 

「御授地蔵尊」です。

その前には、「百度石」もあります。

 

地蔵尊は、どこにでもある尊仏で、人には それほどありがたがれませんが、その本体は「国常立大神(くにとこたたちのおおかみ)」です。

 

本来は、高波動なのですが、何も反応しません。

 

布袋尊」です(ネットから)。

 

本体は、よく解かりませんでした。

公開の期間は限定されているようです。

 

この画像の波動も高くないです。

「まあ・・・こんなものかな・・・・」との思いを抱いたまま、次の浅草七福神の神社へと向かいました。

 

             つづく

 

            2022年5月31日記

 

 

浅草七福神巡り その2

《 浅草七福神巡り その2 》

浅草神社―矢先稲荷神社―鳶神社

 

 浅草寺の「大黒天」から、浅草七福神巡りをスタートして、次には浅草寺から徒歩1分ほどの「浅草神社」に向かいました。

 

浅草神社は、通称「三社権現(さんしゃごんげん)、有名な「三社祭り」の舞台です。

 

祭神は、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前武成(ひのくまのたけなり)を主祭神として、もう一柱は、浅草寺を創建した土師真中知(はじのまなかち)としています。

 

郷土神を祀る神社です。

この三人の霊をもって「三社権現」としています。

 

また、東照宮徳川家康)と大国主神を合祀しています。

元は浅草寺の系統でしたが、明治の「神仏分離令」により、別法人となりました。

 

この神社では、「恵比寿神」を祀っています。

 

 

浅草神社社殿の前には、狛犬があります。

残念ながら、この狛犬は、「結界」ではありません。

したがって、この中を通過するだけで、身体が浄化されることはありません。

 

私の中では、まず神社の[鳥居]や「狛犬」に。「結界があるか否か」がその神社の霊格の指標となっています。

 

住職がいない寺院や仏閣でも、清掃の行き届いたところは、自然と「結界」が張られています。

社殿です。

 

社殿は、三代将軍の徳川家光の寄進により、慶安2年(1648年)に建造されました。

 

現在は、拝殿―幣殿―本殿とつながる権現造りで、国の重要文化財に指定されています。

 

拝殿には、入れませんでした。

 

中には、特に高い波動は感知されません。

恵比寿神」の反応もありませんでした。

 

「三社権現」をお祀りしていますが、とくにそれらしいエナジーは感じられることもなく、早々と次の神社に向かいました。

 

この三社神社には、浅草近隣に氏子の町が形成されています。

浅草から駒形、寿町にかけて氏子が多数いて、「浅草三社祭り」のときには、その氏子の大活躍がありました。

 

今は亡くなりましたが、私のクライアントだったある棟梁がいて、「浅草三社祭り」を仕切っていると言っていました。

 

恵比寿神は見られませんでしたの、ネットで拾ったものを示します。

恵比寿神

七福神の中で、唯一日本生まれの「神様」です。

 

次に向かったのは、「矢先神社」です。

「福禄寿」をお祀りしています。

 

矢先稲荷神社です。

「矢」の「先」にある稲荷神社です。

 

この名称は、京都にある「三十三間堂」に倣って、三代将軍の徳川家光が、浅草に造った「浅草三十三間堂」の守護神を祀ったのが起源です。

 

京都にある「三十三間堂」は、将軍家光が「通し矢」という武士の腕を競わせたのが始まりとされています。

 

京都の「三十三間堂」の「通し矢」とは、本堂軒下の長さ121Mを、南から北に矢を射通す競技です。

 

いくつかの種目がありますが、一昼夜に何本射通せるかを競わせる「大矢数」が有名です。

京都の「三十三間堂」。1000体の千手観音像が並ぶ。

この廊下で「通し矢」が行われました。

 

この弓道の競技は、現在も行われています(距離は60M)。

 

しかし、浅草の「三十三間堂」は、火災で焼失して、深川に移転しましたが、

その後の「廃仏毀釈」で、明治5年に廃寺となっています。

 

矢先稲荷神社の創建は、寛永19年(1642年)です。

 

御祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。

ご神体は、上野東叡山寛永寺天海大僧正によって寄進されたといいます。

しかし―――このエナジーは、まったく感知されません。

 

「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっていたといいます。

残念なことに、火災によりすべて焼失したようなのです。

 

御利益は、「商売繁盛」「武運長久」を謳っていますが、疑問符がつきます。

残念なことです。

 

さて―――七福神ですが、これがそうです。

「福禄寿」

 

残念ながら、「生きていません」。

「浅草名所七福神」でなければ、これだけでは人は参拝しないかもしれません、

 

多くの方が訪れるので、この空間も邪気っています。

「まあ・・・・仕方ないかな・・・」と思って、次の「浅草名所七福神」に向かいました。

鷲神社(おおとりじんじゃ)です。

 

「酉の市(とりのいち)」で広く知られています。

 

鷲神社(おおとりじんじゃ)の御祭神は、「天日鷲命(あめのひいわしのみこと)」と「日本武尊(やまとたけるのみこと)」です。

 

鷲神社の創始については、つまびらかではありませんが、ご祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られています。

 

天照大御神が天の岩戸におかくれになり、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞われたとき、楽器の弦を奏でられました。

 

この天宇受売命(あまのうずめのみこと)の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸をお開きになりますと、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまりました。

 

その様子を固唾をのんで見守っていた八百万の神々は、その光景を、世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)だとして、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称したといいます。

 

そして天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、開運、開拓の福神として鎮座されたというのです。

 

ご祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は―――

 

東征の帰途、ここの松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことから、その日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまりとしています。

 

さて―――

 

この「酉の市(とりのいち)」については、

樋口一葉正岡子規岡本かの子、あるいは久保田万太郎などの文人らの文芸作品に登場します。

 

江戸では、「酉の市(とりのいち)」を境に、「冬」に入ることになります。

 

毎年、テレビで「酉の市(とりのいち)」が話題になると、「そうか・・・もう冬なのだ・・・」と時節の移り変わりを感じることになります。

 

鷲神社(おおとりじんじゃ)には、「なでおかめ」というものがあります。

「なでおかめ」です。

 

鷲神社(おおとりじんじゃ)は、「商売繁盛をもたらす神様」ですので、「金運」を高めるために、「鼻」を撫でるとよいと云われています。

 

また、「右の頬」を撫でると、「恋愛が成就する」と云われて、多くの方が撫でていますので、黒ずんでいます。

 

「左の頬」は、「健康によい」とされて、「口を撫でる」と、「災いを防ぐ」といいます。

 

「おでこを撫でる」と、「賢くなる」といわれ、「目を撫でる」と、「先見の明」がつくといわれます。

 

「顎(あご)を時計回りに撫でる」と、「すべて丸く収まる」といわれています。

 

顔中撫でられていますので、鼻だけでなく、左右の頬も、額も、顎も撫でられ続けていますので、このままいくと・・・・「どす黒くなる」のでは、と少し心配です。

 

「なぜ?なでおかめがあるのか」

 

「おかめ」とは、「お多福」ともいわれ、幸福が多く訪れることから、幸せを招く女性の象徴とされています。

 

そのために、「酉の市」の縁起熊手の中に、取り込まれているのです。

 

それは、古事記日本書紀のなかで、天照大御神が「天岩戸(あまのいわと)」に籠ってしまい、世の中に太陽の光が差し込まなくなったときに、

 

天宇津女命(アメノウズメノミコト)が舞いを舞い、八百万の神々が大笑いして、それを天照大御神が「何だ!」と隙間から覗き見たときに、「天岩戸(あまのいわと)」が開けられて、光が戻ったという神話があります(前述しています)。

 

このときに舞った天宇津女命(アメノウズメノミコト)は、「おかめ(お多福)顔」だといわれています。

 

 古来より、わが国では「おかめ(お多福)顔」は美人と称されています。

 

画像がボヤけていて、申し訳ありません。

 

なぜか、もう一枚もボヤけていました。

このときの空間は、あまりよろしくない邪気に包まれていたようです。

この鷲神社(おおとりじんじゃ)の「浅草名所七福神」は、「寿老人」を祀っています。

 

「寿老人」です。

この本体は、見られませんでした。

 

寿老人とは、道教の神仙で、伝説上の人物です。

酒を好み、長寿の神とされています。

 

不死の霊薬の入った瓢箪を持ち、手には長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っています。

 

大きな感動もなく、次の「吉原弁財天」に向かいました。

 

               つづく

 

             2022年5月24日記

 

 

浅草七福神巡り その1

《 浅草七福神巡り その1 》

浅草寺大黒天からはじまる

 

 浅草の「七福神巡り」については、よくテレビで取り上げられていますので、一度は近いので「行ってみよう!」となりました。

 

2021年6月13日に、浅草雷門前に集合となりました。

「パワースポット探索の会」のメンバーが集まります。

 

浅草寺は、幾度となく行っていますが、本堂は人が多く、邪気が常に蔓延していますので、今いち好きになれないところです。

 

常に大勢の人が押し寄せるので、常に本堂前は邪気っています。

敏感の方なら、その邪気が髪の毛にへばりつきますので、身体が歪みます。

「雷門」浅草寺だけでなく、「浅草」を代表するものでもあります。

 

浅草がテレビで放映さえるときには、必ずまずこの「雷門」(かみなりもん)が映ります。

 

正面に向かって、右には「風神像」、左には「雷神像」が安置されていますので、正式には「雷門」(かみなりもん)は、「風雷神門」(ふうらいじんもん)と呼ばれます。

 

慶応元年(1865年)に焼失しましたが、昭和35年(1960年)に、松下幸之助パナソニック創業者)が寄進したものです。

 

この有名な「雷門」の大提灯は、浅草三社祭りの時は、神輿が通れないのと、台風のときには畳まれます。

 

背面の間には、「金龍」「天龍」の像が安置されています。

「風神像」

 

「雷神像」

 

「雷門」の大提灯の下です。彫刻があります。

「金龍」「天龍」でしょうか。

 

「雷門」を通過して、仲見世を250M進むと―――

「宝蔵門」があります。

 

入母屋造りの二重門で、江戸時代には、一年に2度2階部分に昇ることができたといいます。

 

現在は、昭和39年(1964年)に再建されたもので、門の左右には金剛力士像が安置されています。

 

この金剛力士像(仁王)は阿形で、横綱だった「北の湖」がモデルとされています。

この金剛力士像(仁王)は吽形で、関脇だった「明武谷」がモデルとされています。

 

「明武谷」(みょうぶだに)と言われても、知らない方も多いと思います。

当時の幕内の最高身長で、189センチの筋肉質の身体で、外人女性ファンが多く、8頭身でした。

横綱大鵬が、柏戸ともに場所後に横綱に昇進するときに、「明武谷」との三者による優勝決定戦が行われたことがあります。

 

このとき優勝は果たせませんでしたが、殊勲賞、敢闘賞などを多く獲っています。

 

「人間起重機」と呼ばれて、がっぷり四つに組むと、両膝を深く曲げて、相手を釣り挙げて、倒す、外に出すという技がありました。

 

今の相撲では、「釣り出し」「釣り投げ」などの技を使うことは、めったに見られません。懐かしい相撲取りでした。

「小舟町」と書かれた大提灯の下にも、龍神の彫刻があります。

 

この宝蔵門を超えると、正面に本堂が見えてきます。

浅草寺の「本堂」です。

 

ここまで、「雷門」「宝蔵門」を通過してきましたが、高波動の寺院であれば、そこには「結界」が張られていて、そこを通過することで、浄化されることになりますが、浅草寺には浄化作用がありません。

 

「本堂」の内部です。

はっきり言って、有難くも何ともないところです。

 

浅草寺は、正式には「金龍山浅草寺」です。

元は天台宗でしたが、現在は「聖観音宗」としての本山となっています。

 

この中には、絶対秘仏の「聖観音像」が収まっています。

 

絶対秘仏ですので、公開はされていません。

その秘仏はなぜここにあるのか?

 

それは飛鳥時代推古天皇の時代(628年)に遡ります。

宮戸川(現在の隅田川)で魚をしていた漁師の網に仏像がかかります。

 

それが浅草寺本尊の「聖観音像」で、その漁師の主人は出家して、自宅を寺に改装して「聖観音像」を祀りました。これが浅草寺の始まりです。

 

では、なぜ「聖観音像」が川に流れていたのか?

一説によると、上流にある寺が水害に見舞われて、現在の飯能市の成木川に沿った岩井堂の仏像が流されました。

 

岩井堂観音の水害は、浅草寺創建の100年ほど前です。

 

この観音堂に安置されていた「聖観音」が、現在の隅田川に流れついて、網にかかったというのが真相かもしれません。

 

水害にあった寺院や郷の人々は、その後返還するように申し出ますが、これを無視して今に至ります。

 

その後、大化元(645年)に勝海上人が、夢のお告げでこの「聖観音像」を秘仏と認定して、観音堂を建立しました。

 

これによって、武蔵野の国の観音信仰の中心地となります。

 

本堂再建工事の跡から、平安時代には伽藍が建てられていたことが解ってます。

武蔵野の寒村に、多くの出土品のなから立派な観音堂があったことが分ったのです。

 

平安時代のはじめに、延暦寺の円仁:慈覚大師の巡拝により、伽藍の整備が行われて、信者も増えました。

慈覚大師を「中興の開山」としています。

 

鎌倉時代になると、将軍頼朝などが帰依するに及び、多くの名将が篤く信仰しました。

 

江戸時代になると、日光東照宮や上野寛永寺を創建して、江戸城に様々な「結界」を構築して、江戸幕府を霊的に守護した立役者の天界僧正は、ここを江戸幕府の祈願所に制定しました。

 

徳川家康浅草寺に帰依していたのです。

 

これだけの文化と信仰の中心地であったのには、それなりの理由があるはずです。

 

絶対秘仏の片鱗に触れたいと思いました。

わずか5、5センチの非公開の秘仏エナジーに触れたいと思います。

 

絶対秘仏の「聖観音像」のエナジーを、外に引き出したものです。

 

この画像には、絶対秘仏エナジーが繋がっています。

凄いです!ほんとうに凄いです!

 

公開しない理由がわかりました。

あまりにも恐れ多いとの反応が伝わります。

 

西行法師が、伊勢神宮参拝のときに詠んだ歌

「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

 

このような心境にさせられました。

 

この画像をコピーしては、波動が落ちます。

この画像の中に、不調な方がいらしたら、投入してみてください。

 

一瞬で、体軸が整います。

初期レベルのガンの反応のある方でも、しばらく留まると「ガン靈」も消失します。試してください。

 

あまりにも凄い反応なので、ネットで調べてみました。

 

それによると―――

 

歴代住職の中には、「この目で確かめようと・・・」した方もいたようですが、扉を開けると、目の前が暗くなり、見えなかった・・・と伝わります。

 

さらに、明治になって「廃仏毀釈」で、政府の役人が強引に扉を開けようとしたところ、一人が転落して死亡。他の一人は逃げた帰った・・・と伝わります。

 

誰一人として、正確に「絶対秘仏」を目撃した者はいないようなのです。

 

年に一度開帳される秘仏は、慈覚大師が天安元年(857年)に造った「御前立ご本尊」で、絶対秘仏ではありません。参考までに―――

石橋

元和4年(1618年)設立。

 

これは、都内最古の橋です。

影向堂(ようこうどう)に入ります。

 

中に入ると、聖観音菩薩(中心)をはじめとして、9尊仏があります。

 

左から、勢至菩薩大日如来不動明王阿弥陀如来

聖観音菩薩(中心)

右へ、千手観音、虚空蔵菩薩文殊菩薩、右端の普賢菩薩は映っていません。

 

残念ながら、「生きている」像は一体もありません。

 

このお堂の正面の左側に、今回の目的となる「大黒天」像があります。

大黒天

 

説明書に

「このお像は、「浅草名所七福神」の一尊として信仰される大黒天である。

別名、「米櫃(こめびつ)大黒」とも言われる。

・・・商売繁盛や福徳の神としてお祀りされる」

このように書かれています。

 

残念ながら、この「大黒天」も「生きていません」。

これは、予想していましたが、スタートからこの反応なので、この先が思いやられる・・・・と思っていました。

 

              つづく

 

            2022年5月17日記

 

 

腹側迷走神経と陰のエネルギー

《 腹側迷走神経と陰のエネルギー 》

 

 「対処事例」として、幾度も事例報告を頂いた一瀬智佳子氏から、次のような報告が届きました。

 

以下、転載します―――

 

久しぶりにAさんの症例、少し聞いていただけますでしょうか?

 

Aさんは、最近毎月のようにパーソナルに来てくれるようになって、体調も随分と整ってこられました。

 

そんなある日のこと…

 

女性特有の体調不良と、左半分の顔面痛、頭痛などを感じてらっしゃったので、色々とチェックして調えてみました。

 

そんな中、新しく始めた仕事が新居の塗装に関わるお仕事のようで、そこの地場や塗料(と私には思えました)が反応していて、そこも全部抜いて、浄化しました。

 

そして最後に頭蓋を調整していると、すごく苦しそうな表情になり、頭蓋のどこを触っても「痛いです」

と辛そうだったので、以前先生とお話ししていた「迷走神経」を整えよう、と思いました。

 

まず、「背側迷走神経」からエネルギーを抜き、次に「腹側迷走神経」にエネルギーを通しました。

 

抜いてる間は苦しそうに、身体がのけぞったりしていたのですが、「腹側迷走神経」にエネルギーを入れると、急に力が抜けるような感じになりました。

 

そして女性に必要な「陰のエネルギー」をイメージして、さらに「腹側迷走神経」の通り道である、心臓、肺、横行結腸まで「陰のエネルギー」を通しました。

 

すると、すごく穏やかな表情になり、頭蓋の縫合に触れても「全然痛くないです!」

と驚いてました!

私もちょっと驚きました(笑)

 

そして女性特有の体調不良も改善されました。

 

東洋医学の「陰陽」で言うと、女性は「陰」に属します。

自律神経も交感神経が「陽」

副交感神経が「陰」に属します。

 

その副交感神経の8割を締める「迷走神経」の中でもコミュニケーションに関わる「腹側迷走神経」の方がより「陰」の要素が強いような感じにその時は思えました。

 

そしてAさんの「腹側迷走神経」に「陰のエネルギー」をイメージして流させてもらうと、全てが調いました。

 

最近は「陽」のエネルギーが強く「陰」のエネルギーが不足している方が多いように感じます。

そんなことも考慮していけたら、と思いました。

 

また学びを深めて、多くの方のお役に立ちたいと思います。

 

先生のCD(註:脳若返りCD)とお水(註:若返り神気)、オイルなどなどのおかげで、スタジオの氣も調い、ほんとにセッションがやりやすくなりました。

先生には感謝の言葉しかありません。

 

ありがとうございます。

 

転載ここまで―――

 

ここに出てくる「腹側迷走神経」は、多くの方が問題を抱えています。

この「迷走神経(副交感神経)」は、内蔵につながる神経ですので、不調になると、即身体の不調をもたらします。

 

ただ、従来の生理学では、「背側の迷走神経」に焦点が当たっていて、「腹側の迷走神経」には、ほとんど焦点が当てられていませんでした。

 

私も、ここに焦点を当てるようになり、「延髄」から出る「腹側の迷走神経」や、「偏桃体」に対処するようになり、治療効果が高まってきています。

 

ここは、通常の治療院でも、病院でも、見落とされているポイントとなっているように思われます。

 

一瀬氏は、常に最新の情報と治療技術を吸収していますので、多くの方の参考となると思います。

 

              2022年5月10日記