≪ 日本のパワー・スポット 12 つづき ≫
容量を超えましたので、以下「つづき」です。
清麻呂が流刑にされたのではないか―――とするものです。
しかし、この神託由義宮遷都説は根拠が憶測の域を越えるものではないとする見方もあります。
また、他戸王が立太子後に藤原氏によって廃位されて後に、変死しているという指摘もあるのです。
その一方で、称徳天皇や道鏡が清麻呂を流した事で、2番目の神託を否認した以上、最初の神託に基づいて道鏡への皇位継承を進めることも可能であった筈なのですが、
事件以後に全くそうした動きを見せていない事や、逆に藤原氏らの反対派がこの事件を直接の大義名分として天皇や道鏡排除に積極的に動いていない事から、
道鏡がこの事件に深く関わっていたとする証拠を見出す事は困難なのです。
また、白壁王の擁立については藤原氏一族は一致していたものの、
その次の天皇については早い段階で白壁王の子供のうち、他戸王を推す藤原永手ら北家と山部王(後の桓武天皇)を推す藤原百川ら式家との間で意見の対立があり、
他戸皇太子の廃位も政権の主体が北家から式家に移った直後に発生している事から、北家主導下で光仁擁立→他戸立太子が行われた事と、式家への政権移行後にその廃太子が行われた事には、矛盾は無いと考えられています。
中西説に対して、細井浩志は『続日本紀』が道鏡政権を批判する際には、後日に“不正の暴露”などの形で対になる事実を提示しており、神託事件についてのみ創作を加えたとは考えにくいとして批判しています。
事件の真の首謀者は他ならぬ称徳天皇自身であったとし、指名者が非皇族の道鏡であったという問題点を克服するために、宇佐八幡宮の神託を利用したのが事件の本質であったとしています。
また細井氏は、道鏡の左遷はこの時代の典型的な政変であり、清麻呂が光仁朝で重用されなかったのは、
彼が元々地方豪族出身で なおかつ称徳天皇の側近層であった以上、光仁天皇側とのつながりは希薄だったと解しています。
『続日本紀』の記述については、光仁天皇を最終的に皇位継承者として認めた称徳天皇が、神託事件の首謀者であった点をぼかした以外は、事実をほぼ忠実に伝えているとしたうえで、
群臣による天皇擁立を阻止するために、称徳天皇が最後の段階で自らの手で白壁王を後継としたとしているのです。
また、道鏡側よりも宇佐八幡宮側の事情が強く関わっているという説もあります。
ところが、754年にはこの時の両名が薬師寺の行信と組んで厭魅(えんみ:妖術で人をのろい殺すこと)を行ったとして 位階と姓の剥奪と流刑に処せられました。
これは宇佐八幡宮の社会的影響力の増大が、皇室と律令制・鎮護国家が形成する皇室祭祀と仏教を基軸とする宗教的秩序に対する脅威になる事を危惧したからだ と考えられるのです。
翌年には宇佐八幡宮から再神託があり、先年の神託が偽神託であったとして封戸の返却を申し出たとされています。
これも朝廷からの宇佐八幡宮への 圧迫の結果であると見られています。
このような路線確立に大きな影響力を与えてきた藤原仲麻呂が失脚して、仏教僧でありながら 積極的に祈祷を行うなどの前代の男巫的要素を併せ持った道鏡が、
試しに、和気清麻呂の「霊」を呼び出して、実際にはどうであったのかを、質してみました
A、「いや、そのようなこと(道鏡について)は、尋ねていない。
私が尋ねたのは、皇位につけるのは 皇統のない人物でも 良いか否か―――ということである。
Q、「皇統のない者を皇位につけてはならない、との託宣を受けたのですか?」
A、「受けてはいない。
そのような託宣を受けたということにしたのは、藤原家の指図であった。」
このことは どのように思ってましたか?」
A、「ひじょうに不快であった。それは称徳天皇を影で操っていた 道鏡の指示であったと思っている。」
Q、「道鏡は本当に天皇になりたがっていたと思いますか?」
A、「いや、そのようには思っていない。道鏡は 朝廷を自分の意のままに操ろうとしていたのである。天皇ではなく 法王として朝廷を牛耳ろうとしていたのである。
それは藤原家にとっても自分にとっても、許しがたいことであった・・・・」
Q、「道鏡について、知っていることを教えて欲しい」
A、「道鏡は 妖術を使える能力があった。人を病気にしてしまうことができた。道鏡は人を救う能力はなかったが、人を無力化する能力にはたけていた。
彼に睨まれると その人は次々と不幸な目にあってしまっていた。
道鏡は 称徳天皇の病を治したといわれているが、それは妖術によって 天皇を支配下に置くための方術であった―――と 思っている。」
2014年11月26日記