生命体エナジー浄化の会ブログ

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日本のパワースポット 16 大原三千院

≪ 日本のパワースポット16 大原三千院 ≫
 
「京都―、大原、三千院、恋に疲れた女が―ひとり・・・」
と 歌われた「三千院」です。
 
歌のイメージが強く、一度行ってみたいと思っていましたので、2013年7月の京都旅行のときに、配偶者が行きたがっていた比叡山から、この「三千院」を回ってきたのです。
 
三千院は8世紀、天台宗延暦寺を起こした最澄の時代に、比叡山に建立された円融房に起源をもちます。

後に比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものです。

三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は、1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようです。

一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものです。

境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物があります。

このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は、12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置しています(三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院であったということです)。
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三千院門跡」の看板がかかっています。
 
天台門跡としての三千院

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄延暦7年(788年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする「円融房」を開創したのがその起源といいます。

円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれました。
比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもっていました。

860年、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山山麓の東坂本(現・大津市坂本)に円融房の里坊を設けました。

この里坊を「円徳院」と称し、山上の寺院を「円融房」と称したという説と、「円徳院」と「円融房」は別個の寺院だとする説とがあります。

1118年、堀河天皇第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺した以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺しています。

歴史上名高い護良親王(もりよししんのう)も入寺したことがあります。護良親王とは 「建武の新制」の立役者である後醍醐天皇の皇子です。

三千院で修業した護良親王は、後醍醐天皇の画策で その後「天台座主」にまで上り詰めます。

太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む 極めて例が無い座主であったといいます。

元弘元年1331年、後醍醐天皇2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦しています。

以後、2年にわたり幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼしたのです。

しかし、討幕の功労者 足利尊氏(高氏)とは相容れず、討幕後も上洛せず奈良県生駒郡信貴山を拠点にして、足利尊氏を牽制しています。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新制で、護良親王征夷大将軍に任じられて上洛し、足利尊氏鎮守府将軍となっています。

建武政権においても足利尊氏らを警戒していたとされています。

足利尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫 阿野廉子と反目し、足利尊氏暗殺のため兵を集め 辻斬りを働いたりしたといいます。

このため、征夷大将軍を解任され、1334年冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けて 捕らえられています。

その上で足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟:足利直義の監視下に置かれたのです。

後醍醐天皇との不和は、討幕戦争の際に討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて、令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣であると考えられています。

その後、北条時行中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、二階堂ガ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、北条時行に奉じられる事を警戒した足利直義の命を受けて殺害されました。

護良親王は前征夷大将軍であり、親王が時行に擁立された場合には宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであり、親王殺害の2日後に鎌倉は北条軍によって陥落したのです。
 
大原は 古くから貴人や念仏修行者が、都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていました。

文徳天皇の第一皇子である惟喬親王が大原に隠棲したことはよく知られており、『伊勢物語』にも言及されています。

藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して 大原に隠棲したといいます。

大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍も大原に住んだといいます。
 
三千院の中に入ります。
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入り口近くの廊下。
ここは 多くの参拝客が訪れていました。
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この中庭は なかなか良好な波動です。
 
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おみくじの元祖「元三大師」(がんざんたいし)

一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られています。 第18天台座主天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています。

本名は良源(りょうげん。912年~985年)で、慈恵大師(じえだいし)と呼ばれています。

良源は、比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれています。
 
『往生要集』の著者・源信は、彼の弟子の一人です。
 
中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め 今日に至ります。
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慈恵大師・良源には「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」など、様々な別称があり、広い信仰を集めています。

角大師2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の像を表した絵であります。
伝説によると、良源が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるといいます。

角大師の像は、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られたようです。

全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は、良源だと言われています。 確かに・・・・この絵は 「おみくじ」で よく見かけるものです。
 
 
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この庭は 一見すると良好な綺麗なものですが、「魔」が反応しています。
「狐」系のマイナス波動に汚染されています。
 
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この部屋は高波動です。ですが・・・・次の隣りの部屋は・・・

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マイナス波動のエナジーが溢れています。

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このように 左側の高い波動の部屋と 右側のマイナス波動の部屋が隣り合わせに共存しているので、とても気になって撮ったものです。
 
理由は、右側の部屋の土地には「地縛霊」が反応していますので、波動が落ちているようです。
 
地縛霊は 350年ほど前の男性二人のようです。
この地で殺されたのかもしれません。
 
 
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この往生極楽院阿弥陀堂は、波動は高いです。
ですが・・・・

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内部は 観覧者の霊的な垢が充満していて、波動は低下しています。
 
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境内の苔に覆われた庭園は 落ち着いた雰囲気です。
ここに鎮座している地蔵(右上)は、なかなかの波動です。

ここで容量を超えてしましましたので、次につづきます。

                  2015年9月19日記