生命体エナジー浄化の会ブログ

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日本のパワー・スポット 12 宇佐神宮 その1

≪ 日本のパワー・スポット 12 ≫
宇佐神宮 その1
 
宇佐神宮を始めて訪れたのは、十数年前のことです。
それは、観光バスで九州の地を巡るツアーに行った時でした。
 
そこに行くまでは 「宇佐神宮」がどのようなものなのか、まったくの予備知識もありませんでした。
 
観光バスで 様々なエリアを人任せで行くだけの気楽な旅でしたが、「宇佐神宮」といわれるエリアに行き、ガイドの指示に任せて 各人のペースでお参りするだけのものでした。
 
このとき 川を渡る「橋」のところで、鈍感な私ですが 一瞬 クラっとしたことを覚えています。
 
後日確認したら、そのとき この「宇佐神宮」の波動と同調していたのが判りました。
 
宇佐神宮とは―――
八幡大神応神天皇)・比売大神・神功皇后をご祭神にお祀りし、725年(神亀2年)に創建されました。
皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)として御崇敬になり、一般の人々にも鎮守の神として古来より広く親しまれてきました。
八幡さま(八幡大神)は―――全国約11万の神社のうち、八幡さま(八幡大神)が最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。

宇佐神宮は4万6000社あまりある八幡さま(八幡大神)の総本宮なのです。

御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれています。
 
応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)聖武天皇の勅願により現在の地に御殿を造立し、八幡大神をお祀りされました。

これが宇佐神宮の創立です。
宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。

比売大神様は八幡大神さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。
 
八幡大神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。

三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立されました。
応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしています。神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、そのご威徳が高くあらわれています。

八幡大神の御神徳は強く顕現し、三殿一徳のご神威は奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名です。
 
皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社16社に列されています。また、一般の人々にも鎮守の神として広く親しまれてきました。

八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。
 
その長い信仰の歴史は宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができます。
 
宇佐神宮「宝物館」
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千古斧(おの)を入れない深緑の杜(もり)に映える美しい本殿は国宝に指定されており、総本宮にふさわしい威容を誇っています。
 
中の鳥居
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ひじょうに良好なエナジーが溢れています。
 
本殿へ向かう参道
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宇佐神宮のエリア内では、良好な波動のために「体軸」が整います。
 
本殿の手前
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本殿のある境内
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[ 道鏡事件 ]
 
宇佐神宮といえば、思い出されるのが「道鏡事件」です。
 
八世紀半ば、日本は先進国であった中国の思想の輸入に懸命でした。
「王位には徳のある者がつく」という思想は、中国においてはあくまでも建前でしたが、その理想を実行しようとしたのが称徳天皇です。
 
称徳天皇弓削道鏡天皇に就かせようとし、宇佐神宮に御神託を求める使いを和気清麻呂に命じました。
 
八幡神のお告げは「皇室の血統でない者に位を授けてはならない」というものでした。これが有名な「宇佐八幡神託事件」です。

清麻呂はなぜ宇佐神宮まで足を運ばなければならなかったのか。
奈良の近くには伊勢神宮があります。ただ「神宮」とのみ言う場合、これは伊勢神宮を指します。
 
なぜなら、伊勢神宮こそ最高神アマテラスオオミカミを祀っている神社だからです。

ところが、清麻呂伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かったのです。
万世一系が途絶えるかもしれないという お国の一大事であったはずなのにです。
 
弓削道鏡は、孝謙上皇(後の称徳天皇)の病を治したことから、その信頼を得て出世しました。
 
764年、孝謙上皇称徳天皇)と対立した最高実力者・藤原仲麻呂が反乱を起こすと(藤原仲麻呂の乱)、孝謙上皇称徳天皇)は仲麻呂専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ぼしたのです。
 
乱後、孝謙上皇称徳天皇)は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して、淡路国に流刑にしました。
 
そして、自らが再度天皇に復位することを宣言したのです(称徳天皇となりました)。
 
復位した称徳天皇のもとで道鏡はその片腕となり、765年には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年766年には法王となったのです。
 
こうして、称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入します。
 
だが、反仲麻呂派の貴族の大勢はあくまでも仲麻呂の政界からの排除のために孝謙上皇称徳天皇)に協力しただけであり、孝謙上皇の復位や道鏡の政界進出に賛同したわけではなかったのです。
 
称徳天皇は独身で子供もいなかったため、その後の皇位を誰が継ぐのかが政界の最大の関心事となりました。
 
天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王皇籍剥奪など皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上のタブーとなっていったのです。
 
神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で太宰師の弓削浄人と太宰主神の習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)が
 
道鏡皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望んだのです。
 
称徳天皇は 側近の尼僧・和気広虫の派遣を求められましたが、虚弱なので長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣したのです。
 
清麻呂天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒んだのです。
 
清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出ました。
 
与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒みましたが、宣命を賜りました。
 
清麻呂は―――
 
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。
無道の人はよろしく早く掃除すべし」―――という大神の神託を大和に持ち帰り奏上したのです。
 
道鏡天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は、この報告を聞いて怒り、清麻呂因幡員外介に左遷したのち、
 
さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国(鹿児島県)へ流罪し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて処罰されたのです。
 
国を救った忠臣と讃えられた和気清麻呂は、実際には大変な憂き目に遭っていたのです。
 
称徳天皇は詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自ら(称徳天皇)自身が決める事を 改めて表明しました。
 
770年に女帝が死去すると、皇太子は白壁王(後の光仁天皇)と決定され、道鏡下野国薬師寺へ左遷(配流)されました。
 
なお、この時(宝亀元年821日)の白壁王の令旨に「道鏡皇位をうかがった」とする文言があるものの、具体的に道鏡のどのような行動を指すのかには全く触れられていないのです。
 
日本の皇室は、歴史の中で幾度も危機を迎えましたが、一般に僧・弓削道鏡によるとされるこの皇位継承の企みは、その中でも衝撃的な事件でした。
 
この事件については『続日本紀』に詳細が書かれ、道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育においてしばしば取り上げられてきました。
 
このような背景について、いくつかの説が存在します。
例えば―――
 
江戸時代に本居宣長によって 一連の神話的な事件の流れに懐疑的な説が唱えられ、近年には『続日本紀』の記事には光仁天皇の即位を正当化するための作為が含まれている(神託には皇位継承については触れられていない)とする説があります。
 
その他の説も列挙します。

神託由義宮遷都説

中西康裕は、以下のような解釈を提出しています。
 
道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにもかかわらず称徳天皇崩御後の下野への流刑は罰としてはあまりにも軽く、浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたという説は「後付」ではないか。
 
最初の神託は皇位継承以外の問題(道鏡の故郷である河内国弓削の由義宮遷都はこの年に行われた)に関するものであって、これに乗じた藤原氏(恐らくは藤原永手とその弟の藤原楓麻呂か)が―――
 
和気清麻呂を利用して白壁王あるいはその子である他戸王(称徳天皇の父・聖武天皇の外孫の中で唯一皇位継承権を持つ)を立太子するようにという神託を仕立て上げようとしたことが発覚したために、
 
清麻呂が流刑にされたのではないか―――とするものです。
 
つまり、「忠臣の鑑」とされた和気清麻呂は、藤原氏の推す皇位継承権のある皇太子・白壁王(後の光仁天皇)を、皇位につけようとする画策を持っていた・・・・とされているのです。
 
容量を超えましたので、以下「つづき」ます。