≪ 日本のパワー・スポット 12 ≫
宇佐神宮 その1
宇佐神宮を始めて訪れたのは、十数年前のことです。
それは、観光バスで九州の地を巡るツアーに行った時でした。
そこに行くまでは 「宇佐神宮」がどのようなものなのか、まったくの予備知識もありませんでした。
観光バスで 様々なエリアを人任せで行くだけの気楽な旅でしたが、「宇佐神宮」といわれるエリアに行き、ガイドの指示に任せて 各人のペースでお参りするだけのものでした。
このとき 川を渡る「橋」のところで、鈍感な私ですが 一瞬 クラっとしたことを覚えています。
後日確認したら、そのとき この「宇佐神宮」の波動と同調していたのが判りました。
宇佐神宮とは―――
皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)として御崇敬になり、一般の人々にも鎮守の神として古来より広く親しまれてきました。
これが宇佐神宮の創立です。
宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。
比売大神様は八幡大神さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。
八幡大神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。
三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立されました。
応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしています。神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、そのご威徳が高くあらわれています。
八幡大神の御神徳は強く顕現し、三殿一徳のご神威は奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名です。
三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立されました。
応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしています。神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、そのご威徳が高くあらわれています。
八幡大神の御神徳は強く顕現し、三殿一徳のご神威は奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名です。
皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社16社に列されています。また、一般の人々にも鎮守の神として広く親しまれてきました。
八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。
八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。
その長い信仰の歴史は宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができます。
宇佐神宮「宝物館」
千古斧(おの)を入れない深緑の杜(もり)に映える美しい本殿は国宝に指定されており、総本宮にふさわしい威容を誇っています。
中の鳥居
ひじょうに良好なエナジーが溢れています。
本殿へ向かう参道
宇佐神宮のエリア内では、良好な波動のために「体軸」が整います。
本殿の手前
本殿のある境内
[ 道鏡事件 ]
八世紀半ば、日本は先進国であった中国の思想の輸入に懸命でした。
「王位には徳のある者がつく」という思想は、中国においてはあくまでも建前でしたが、その理想を実行しようとしたのが称徳天皇です。
なぜなら、伊勢神宮こそ最高神アマテラスオオミカミを祀っている神社だからです。
万世一系が途絶えるかもしれないという お国の一大事であったはずなのにです。
天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王の皇籍剥奪など皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上のタブーとなっていったのです。
清麻呂は―――
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。
無道の人はよろしく早く掃除すべし」―――という大神の神託を大和に持ち帰り奏上したのです。
国を救った忠臣と讃えられた和気清麻呂は、実際には大変な憂き目に遭っていたのです。
このような背景について、いくつかの説が存在します。
例えば―――
江戸時代に本居宣長によって 一連の神話的な事件の流れに懐疑的な説が唱えられ、近年には『続日本紀』の記事には光仁天皇の即位を正当化するための作為が含まれている(神託には皇位継承については触れられていない)とする説があります。
その他の説も列挙します。
神託由義宮遷都説
中西康裕は、以下のような解釈を提出しています。
道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにもかかわらず称徳天皇崩御後の下野への流刑は罰としてはあまりにも軽く、浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたという説は「後付」ではないか。
清麻呂が流刑にされたのではないか―――とするものです。
容量を超えましたので、以下「つづき」ます。