生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

歴史上の人物の裏を考える その2 明智光秀の正体

≪ 歴史上の人物の裏を考える その2 ≫
明智光秀の正体
 
さて―――
 
本能寺の変で、信長は明智光秀に討たれたが、信長の死体は見つからなかった―――とされています。
 
これについては、信長の霊体エナジーは反応しないので、明智光秀の霊体エナジーを呼び出してチェックしてみると、予想外の反応を示していました。
 
なぜ―――信長の霊体が反応しないのか。
その謎が解けたように思われます。
 
 
□ 信長の死体は、見つかっている―――というのです。
 
後世では 「信長の死体は見つからなかった」とされていますが、なぜ、「見つからなかった」・・・・としていたのかというと―――
 
□ 「信長を討て!」との命が、朝廷(天皇)から光秀に発せられたからだ。
 と、いうのです。
 
□ 朝廷は、信長周辺の武将の動向も把握しており、光秀のおかれた立場も十分に認識していたようです。そのような情報がもたらされていたようです。
 
しかも 光秀は朝廷を敬う心情に厚い ということも、十分に知りぬいて上での密命であったようです。
 
当然、この密命は天皇自身が発したものではなく、朝廷に深くかかわっている公家から もたらされたものであるようです。
 
□ 信長の遺体は、密かに朝廷(京都御所)に関わる公家に差出し(検分を受けた)、その後の経緯には、光秀は関与していない。
 と、いうのです。
 
つまり、
朝廷にとっては悪魔的な信長の遺骸は、朝命によって秘事となる儀式(咒法)で、その霊魂を封印したものと思われるのです。
 
これは、決して表に出せない最高機密のものであるようなのです。
その信長の霊魂を封印したために、「織田信長」の霊体を呼び出しても、反応しないようなのです。
 
註:後に天下を獲った秀吉は、信長の法要を大々的に行なっています。
 
信長は、本能寺の変が起きる直前に、自身が天皇家を廃して、日本を統治せんとするために、「元号の改易」を朝廷(天皇)から取り上げようと迫っていました。
 
信長には、朝廷から「関白」「太政大臣」「征夷大将軍」などの称号を授ける―――との意向が伝えられていましたが、信長はこれに対して 返答をのばしていました。
 
朝廷から授かる称号をうけることは、日本の統治者(皇帝)となろうとする者の、その上に朝廷が控えていることを意味します。
 
信長は 日本の統治者(皇帝)たらんとしていたこともあって、朝廷のこの申し出を先延ばしにしていた―――と、いわれているのです。
 
自分は「天皇」の下に在るのではなく、日本の統治者(皇帝)となる意欲がありありと出ている出来事ですので、朝廷は動揺していました。
 
そんなときに、信長は少人数の供周りだけを引き連れて「本能寺」に来たのです。
 
本能寺の変」の起きる前日にも、朝廷から20名以上の公家達が挨拶に出向いていました。
 
そのとき、信長の口から「元号の改易」の話が出たというのです。
本能寺の変」が起こる前日のことです。
 
元号の改易」とは 唯一 朝廷のみがおこなうものです。
これを信長が行うという意思は、朝廷に代わって 信長が日本の統治者(皇帝)として君臨することを意味します。
 
これは―――わが国の根幹を揺るがす大事件ですが、後世あまり触れられていないようです。
 
今でも「朝敵」の汚名が消えない足利尊氏。さらに言えば、京の室町幕府全盛期、太政大臣となり朝廷を支配した足利義満でさえ、ここまでの条件は突きつけなかったのです。
 
このような背景があったから、朝廷から『信長討伐』の密命が下ったのかもしれません。
 
さて、
明智光秀が謀反を起す背景は、後世では様々な観点から語られています。
 
 
吉田兼見(よしだ・かねみ)という公家の存在が、現在ではクロースアップされています。
 
兼見は日記をつけていて、明智光秀などとも友好関係に在り、光秀が兼見の自宅で風呂に入ったとか、光秀の妻が病に倒れたとき、神官でもある兼見によって回復したなども、綴られています。
 
この兼見の日記は、豊臣秀吉明智光秀の「山崎の合戦(そのときの落ち武者となった光秀は、農民に殺されたとされています)」の後 書き直されています。
その元の日記と 改ざん後の日記が残されています。
 
また、光秀から「銀50枚」も受け取っていることが、日記に残されています。
 
本能寺の変の直後、安土城を攻めに行く明智光秀に、兼見は会っています。
このとき「織田信長の遺体」を受け取った―――ようなのです。
 
吉田兼見の霊体を引き出して、このあたりのことを尋ねました。
すると―――
 
信長の遺体は受けとったが、その後のことは「信長の霊魂を封印する」ために、秘密裏に行われたので、一切口外していないということのようです。
 
信長が また朝廷に災いを及ぼさないように「霊魂を封印した」というのです。
だから―――信長の霊魂を呼び出しても 反応しなかったのです。謎が解けました。
 
 
古来、朝廷では その朝廷に反発する者を、後日に災いを来さないために、その霊魂を封じ込める秘儀を行っていた―――ようなのです。
 
過去にも朝廷に対して反旗を翻した者がいました。
平将門です。
 
平将門は、京都の朝廷にいる朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称しました。
そして東国に独立国を建てたので、「朝敵」となっています。
 
しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷平貞盛らにより討伐されています(承平天慶の乱)。死後は神田明神などに祀られています。
 
平将門の霊魂を呼び出しても、反応しないというのは、朝廷に災いを起こした人物の霊魂を封じ込めていたからだと、思われます。
 
東京の大手町にある将門の首塚
イメージ 1
この首塚は、一見すると特に何もないように思いますが、深く視ると「マイナス波動」が浮き上がってきます。これは 今も変わりません。
 
以下、ウキペディアからの引用です。
 
築土神社神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。

この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次大戦後にGHQが周辺区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。

結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。

隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがあるが、そうした事実はない。

お笑い芸人の爆笑問題大田光はブレイク前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいでしばらくの間まったく仕事が来なかったという噂がある。」

引用ここまで。
 
平将門は 朝廷に対して謀反を行ったとして、「霊魂を封印された」と思われますが、なぜ、封印されたはずの「将門の首塚」が 怪奇現象を起こすのでしょうか。
 
首塚」の画像からは特に違和感は感じられませんが、その裏画像からは、マイナス波動が浮き上がっています。
 
たぶん・・・・今から1300年ほど前に、ここに棲みついていた「霊」(陰陽道系の霊魂と思われます)がいて、この土地に無礼を働く者達に対して、反応する怪奇現象―――と 思われます。
 
この「霊」は 平将門に関わるものではないようです。
やはり、平将門は朝廷に敵対したということで、その「霊魂」は封印されてしまったようです。
 
ですから、平将門の霊を呼び出しても、反応しないようなのです。
 
                        つづく
 
                2015年3月19日記