≪ 歴史上の人物の裏を考える その3 ≫
明智光秀の正体その2
以前から、私自身が疑問であった点があります。
徳川家康です。
光秀は、反信長陣営に、当然密使を送って、光秀に味方するように画策を図っています。
しかも、本能寺で明智光秀に信長が討たれたとの報を聞くと、家康はうろたえて、数十名しかいない供回りだけで「京に行く」との騒ぎになったといいます。
だが、そんなことは、ありえないと、思うのです。
一国一城の主(あるじ)が、そんな精神状態であるはずがありません。
それに―――
- 自分の息子を殺されて、ジッと耐えてきた家康が、反信長の旗頭となろうとする光秀を、本気で討とうとするだろうか。
- 家康は、その後のパワーバランスを見定めた上で、行動を起こす方が得策ではないか。
- 光秀にとっても、この点を十分に踏まえた上で、家康を自陣に引き入れる工作をした方が得策ではないのかと、思われる・・・のです。いや、しかし―――家康の息子を生かしておくと、自分の息子の代で取って代わられる危険性を察知して、切腹させた信長という人物の本性を、イヤっというほど見せ付けられています。信長は、
- 歴代の将を用済みとなった時点で次々と追放しており、明智光秀にも過酷な状況を強いていました。完全に日本を統治する皇帝に納まってしまう前に、何らかの手を打っておかないと、家康自身の身にも災いがもたらされる可能性は、間違いなくあったはずです。それに―――
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罵声を浴びせられて、足蹴にされた、というのです。武士にとって、この上ない屈辱です。この一件が、光秀謀反の引き金になった―――というのが、後世の主たる見解です。
- だが一方で、すでに天下を掌中に治めつつあった信長は、連立する徳川家康を亡き者にしてしまう必要性を認識し、いずれ自分の息子を殺した信長に敵対する前に、葬ることを画策しており、その役目を明智光秀にやらせようとした―――という説があります。
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- 光秀は、信長の密命(家康を葬り去る)を固辞したために、供応役をはずされて、信長に疎んじられた―――というのです。
- 結局、光秀は、日向の領地を取り上げられて、新たに自分で領地を奪い取るように命じられ、いずれ信長に追放される運命を察知し、羽柴秀吉の援軍に発つための軍を動かすときに、「敵は、本能寺にあり!」と謀反に走らせたのである―――とする見解も、納得できるのです。そうであれば、
- 徳川家康にとって、明智光秀は息子の仇を討ってくれただけでなく、自分自身の身の安全を確保してくれた恩人でもあることになります。それはまた、心情的にも、また天下を狙うにも、絶好の機会を導いてくれたことになります。だから、
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この説には、十分な説得力がある、と思われます。この点にアプローチすると、□ 本能寺の変のとき、光秀から家康に密使が来て、「直ちに国許(くにもと)に帰るように。深追いはしない」旨が伝えられたと、いうのです。このような、反応が得られました。つまり―――徳川家康最大の危機と言われた伊賀越えは、光秀からあらかじめ「深追いはしない」旨が届いていた パフォーマンスの一面があったようなのです。ついでなので、明智光秀についての、これまた昔からある疑問について、霊体(エネルギー体)にアプローチして、その真偽のほどを自分なりに確かめてみたいと思います。
- 光秀は、本能寺の変の後、予想を超えた速さで舞い戻ってきた秀吉に(註:この秀吉の大返しこそ、本能寺の変の黒幕が、羽柴秀吉説の根拠になっている)、山崎の合戦で破れ、落ち武者になっている途上で、農民に殺された。と、されています。その一方で、
- 殺されたのは影武者であって、実は徳川家康に庇護された(この説は有力:光秀の首実検では、かなり腐敗していたという)。
- 家康が後に、江戸を開いたときに活躍した『天海』僧正とは、実は明智光秀もしくは、その関係者(兄弟か息子)である、との説は根強いのです。
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だから、天海と光秀は、同一人物の可能性がある。
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というものです。その他にも
- 天海は僧侶の身でありながら、徳川の軍議に参加している。家康の信任が厚かったというだけでは、釈然としない。
- 春日局(かすがのつぼね:三代将軍家光の乳母で、諸大名はおろか老中までも平身低頭するほど、権勢を誇った)が、これについては、実際にアドバンス・アカデミーでも光秀の霊体(エナジー体)を転写して、その真意に迫ったことがあったが(このとき、山崎の合戦で死んでいないとの反応を示していました)、あらためて追求してみました。このとき得られた反応は、次のものでありました。
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というのです。つまり―――天海は二人存在したことになります。さらに
- 秀吉に敗れた後、彼が天下を掌握したので、東海地方の寺院に隠れて居た。家康とは連絡をとっており、必要に応じて、家康に招かれた。
- その寺院の名前は、「ざ行」で始まる―――「ず」「い」「念」や「禅寺」が出てきた。ネットで調べてみたら、東海地方(岡崎市)に「随念寺」が出てきました。禅寺ではないが、ここの別院に「居た」との反応があるのです。
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といいます。
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ネットで調べてみたが、よく判らない。さらに―――大徳寺には現在でも24(数え方により22)の別院が残っています。
利休切腹の口実となった「楼門」もこの大徳寺です。
利休は,大徳寺に門を寄進しましたが,その2階部分に仏殿を設らえ,そこに数体の仏像の他に 雪駄履き姿の利休像も安置されたのです。
茶好きの秀吉は,大徳寺で茶会があれば,門を潜ることになります。しかし,その上には,雪駄履きの利休がいることになります。
「天下人」に,ここを通らせるつもりか,との難癖がつけられ,やがて切腹に追い込まれたのです。 - 光成は、「63歳で死亡した」と、霊体(エナジー体)は応えています。以上が、霊体からの反応です。真偽のほどは、各人の判断にお任せします。2015年3月26日記