生命体エナジー浄化の会ブログ

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地球のパワースポット その3 タヒチのモーレア島その3

≪ 地球のパワースポット その3 ≫
タヒチの「モーレア島」 その3
 
 
 地球の「極」である「南極」に相当するパワースポットの、「モーレア島」の「バリハイ山」の中に入り込むと、男性エナジーと女性エナジーの両極のエナジーが流れるようになります。
 
「バリハイ山」の 下から三分の一程度の山中のエリアに、身体を没入しますと―――両性のエナジーが流れるようになります。
 
ここは地球の「南極」に相当するパワースポットなのです。
イメージ 1
さて―――
この観点から、歴史に残るスピリチュアル系の霊能者たちのチェックを 続けます。
 
イメージ 2出口なお (大本教開祖)

当初は京都丹波地方の小さな民間宗教教祖にすぎなかったのですが、カリスマ的指導者・霊能力者である出口王仁三郎を娘婿としたことで、彼女の教団「大本」は全国及び海外に拡大しました。
 
大本は昭和前期の日本に大きな影響を与え、現在もさまざまな観点から研究がなされています。
 
56歳のなおに、艮の金神(国常立大神)』神懸かりしたのです。
 
艮の金神こそ、この世界を創造・修理固成した元の親神である国常立尊(くにとこたちのおおかみ)で
 
帰神状態となったなおは、まず13日間の絶食と75日間の寝ずの水行を行います。

なおの奇行は周囲から「狸か狐がついた」と思われ、やがて放火犯と間違われて警察に拘留され、釈放されましたが、自宅の家の座敷牢40日間押し込まれました。

入牢中になおは、神に「声を出さないで」と頼んだところ、神は「ならば筆を執り、神の言葉を書くがよい」告げられます。

なおは、落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「御筆先/おふでさき」となったのです。

彼女は文盲でしたが、日が暮れて、部屋が真っ暗になっても、書き続け、自動書記により 没するまで20年間あまりで、半紙20万枚を綴ったといいます。

ほとんど平仮名で記された内容は―――

『さんぜんせかい いちどにひら九 うめのはな きもんのこんじんの よになりたぞよ』
『つよいものがちの あ九まばかりの 九にであるぞよ』という痛烈な社会批判を含んだ終末論・黙示録でした。

のちに、平仮名を漢字に置き換えて娘婿・出口王仁三郎が発表したのが「大本神論」なのです

この「出口なお」は 女性エナジーです。両性ではありません。

 

天保9年(1838年)長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、山伏、に祈祷を依頼しました。

その時、憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となります。
この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入ったといいます。

このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいます。

このときに憑依を悟った山伏が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえたとされます。

山伏があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷に因縁あり。このたび、世界一列を救(たすけ)るために天降った。みきを 神のやしろに貰い受けたい。

あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)が みきに憑依し天啓を受けたとされています。

憑依されていたみきが 「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と言い、

申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすとこたえ、夫の善兵衛が みきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾したといわれています。

そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされているのです。

その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされています。

その後、幾多の紆余曲折がありましたが、みき自ら安産祈願の儀式的行為である「をびや(おびや)許し」をはじめて施しました。

これが従来の毒忌みや凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして 次第に評判を呼び、これをきっかけとして みきの評判や教えは広がっていきました

元治元年(1864年)ごろには みきを慕うものも増え、この年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、

みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始したといいます。

信者らは、天理教への信仰さえあれば、みきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために、官憲の取り締まりの対象となりました。

慶応2年(1866年)、京都神祇官領吉田家に願い出て、723日に布教認可を得て公認となり、迫害は収まったといいます。

その間に みきは神命に従い、明治元年(1868年)には、『みかぐらづとめ』を完成させるなど、天理教の基を築いていきました。

しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の 署名を強いられたといいます。

この中でもみきは天命を貫き通し、1875年(明治8年)には奈良県庁より呼び出しがあり、留置されます。

そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行されます。

その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、1886年(明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受けます。

こうした動きを止めようと、関係者が教会設置公認運動を展開する中、その認可を見ることなく翌年218日(旧暦126日)午後二時ごろに90歳で死去したといいます。 

みきは生前に神の啓示によって、神にもたれかかって 心を澄み切って生きるならば、人間の寿命は115歳と説いていました。

みきがその寿命を25年も縮めて他界したことは、当時の信者らに多くの動揺を与えたといいます。

それについては―――

みきは「現身(うつしみ)を隠した」のであり、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」という教祖存命の理が誕生し、現在の天理教信仰の根本的な精神的支柱となっています。

そのため、天理教本部では、みきの魂は教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事や着替えが運ばれるなど、いろいろな世話がなされているといいます。  以上 ウキペディアより引用。

この中山みき教祖のエナジーは、女性のエナジーです。両性ではありません。

 


稀代の達人・名人で、軍の拳銃指南役の数人が、「死んでも異議は申しません」との一筆を書いたうえで、
 
四方から囲まれて、銃で撃たれたのですが、アッという間に背後に回り込んで、そのすべてを倒したという 信じられないようなエピソードもあります。
 
このことは、その高弟で「名人」塩田剛三合気道10段も、自身の著書の中で述べています。つまり、事実であるようです。
 
出口王仁三郎の警護のために、共に満州に行ったときなども、幾度も銃撃されていますが、「初めに閃光が見えて、それを避けると、後から弾が飛んでくる・・・」
 
このように語っています。 ですから、真剣での立ち合いでも、この閃光を避けて 相手を打ち倒すという、まさに劇画のような世界にいた御仁です。
 
植芝盛平の 存命の時の映像が残っています。
 
私は それを観るたびに、自分の「体軸が整います」。 観ているだけで、自分の体軸が整うような人物には、めったにお目にかかれません。
 
最晩年のときの映像でも、同じです。
相手に触れるか触れないかの刹那に、相手は「力を抜かれてしまい」、次々と倒れていくのです。
 
力に頼らなくなった老年の状態が、最も強い自分であることを自覚している―――このように述べていますが、
 
道家であれば、年老いてくると往年のパワーがなくなり、悲惨な状況に陥ってしまう達人が多い中で、合気道創始者は別格であるようです。
 
例えば、漫画で一世を風靡した「空手バカ一代」の 大山倍達氏は、その元高弟で世界チャンピオンになった人の話では、50歳を過ぎると 「もはや、十分に足も上がらなくなっていた・・・・・」と、語っていました。
 
スポーツの世界では 若い時のエナジーがほとばしっている肉体のときは、最良の結果を残せますが、誰もが寄る年波に打ち勝つことができずに、引退を余儀なくされてしまいます。
 
誰もが自分の肉体の限界に近付いてくると、「熟練」と「気」でなんとかカバーして、その先に到達したい―――と考えますが、それが難しいようです。
 
大山倍達氏は 「世界中に達人・名人を求めて修行の旅に出たことがある」と、自身の著書で綴っています。
 
そして、ことごとく相手を凌駕してきたことから、「今現在の自分は、この地球上でもっとも強いのではないか・・・・」とまで語っています。
 
ですが、中国で老齢の武の名人と立ち会った際、その奥深い相手の気配に押されて、「唯一負けを認めた」と、語っています。
 
「自分の力をもって、攻め込んでしまえば勝てるだろうが・・・・その深淵な武人の前では・・・・確かに 負けている・・・・」 このように語っていました。
 
合気道の高段者になると―――
 
対峙する相手から 一瞬にして「エナジーを抜き取ってしまい、無力化してしまう」ようなので、相手は全く力が入らなくなり、子ども扱いされてしまうようです。
 
ここに 言葉で言い表せない「秘密」があるようです。
 
植芝盛平のように 「老いてなお強し」という究極の武の奥義に達した人物は、長い歴史の中では、それほど多くは存在しないかもしれません。

植芝盛平は 実際に老いてますます強く、死ぬ直前が最も強かったとされています。
それは―――なぜなのでしょうか?
 
推測できるのは、武力(遂行能力)とは
「身体能力」×「脳の能力」にあるのではないか、ということです。
 
ある方の研究では、「脳の能力」は 神経伝達物質が関わっているとしています。
 
これには重要な物質として、
「アドレナリン:緊張時に放出」
ノルアドレナリン:不快感を持つと放出」
ドーパミン:集中時や快感を感じるときに放出」
「エンドルフィン:至福の感覚を持つときに放出」
GABAギャバ):緊張を抑制するときに放出」
セロトニン:気持ちが落ち着いているときに放出」の6種類です。
 
研究によると、名人や達人では 初心者が大量に放出するアドレナリンやノルアドレナリンが、出現していないといいます。そして―――


セロトニン、エンドルフィン、ドーパミンを出しながら動けるというのです。

相手の力を無力化してしまう究極のレベルに達する人物は、セロトニン、エ
ンドルフィン、ドーパミンに加えてGABAが出現している―――とされています。

 
「脳の能力」そのものを高める方法は、まだ解明されていません。
 
剣の名人・達人と評される人物の多くは、「禅」に帰依して 悟りを開いています。
植芝盛平翁は、大本教などの「神道」に帰依していました。
 
そのようなバックボーンがなくては、「脳の能力」を高めることは、難しいのでしょうか。
ともかく―――
 
それほどの名人・達人といわれる植芝盛平翁にしても、両者のエナジーではなく、男性エナジーが主体なのです。
  
では、出口王仁三郎の他に、男性エナジーと女性エナジーの両者のエナジーを顕現している人物は―――というと?
 
容量の関係で 次回に続きます。
 
                                   2015年10月11日記