《 丹生川上神社下社登拝 その4 》
岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳―丹生川上神社上社―丹生川上神社下社―御厨子神社
飛鳥の「石舞台古墳」を見た後に、クルマに乗り吉野方面に来ました。
「丹生川上神社」の上社、中社、下社の中で、最後に残っていた「上社」を訪れました。
初めて偶然に通りかかった「下社」の看板を視て、そこに惹かれて凄い高波動の神社であることを知り、「三社巡り」をしなくてはならないと思ったので、いよいよ「上社」に来て目的が達成されます。
そして―――期待通りの波動の高さでした。
「丹生川上神社上社」は、天武天皇白鳳4年(675年)ご神宣によって建立奉祀されたと伝わります。
御祭神は高龗大神(たかおかみのおおかみ)で、「龍神」です。
つまり、「水」「雨」に関わる「大神」様です。
天災・飢饉などが起こると、つまり、(台風などの)嵐が続いたり、雨が降らすに農作物が発育しないようなときに、ここの神社に御参りしたのです。
奈良時代には淳仁天皇天平宝字七年(763)の奉幣祈晴をはじめ、室町時代に至るまでに、数10回の奉幣祈願がなされ、朝廷・国家また人々より篤い崇敬を受けていたといいます。
「手水舎」です。
この台座となっている「石」は、なかなかの高波動です。
「丹生川上神社上社」が、「天空の社」といわれるのが分かります。
高い、眺望の素晴らしいところに位置しています。
ここに「拝殿」があります。
ここの拝殿掲額には「神雨霑灑(シンウテンサイ)」とあります。
「神の雨がうるほしそそぎ、恩恵をほどこす」という意味のようです。
「拝殿」の中は、このようになっています。
ここの空間は、良好な波動で包まれています。
この「拝殿」の奥に、「本殿」があります。
主祭神は、高龗大神(たかおかみのおおかみ)です。「龍神」です。
また、
配神は、「大山祇神」と「大雷神」です。
以前は、主祭神を「罔象女神」としていましたが、大正11年(1922年)に、丹生川上神社「中社」との併合に際して、「高龗大神(たかおかみのおおかみ)」(龍神)に改めました。
それ以前には、丹生川上神社「下社」の「奥の院」が、この「上社」となっていました。
さらに言うと―――
明治初年までは高龗神社という小規模な祠でした。
その由緒も不詳でしたが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により、宮の平遺跡が発見され、
本殿跡の真下から平安時代後半(11世紀末)以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土しました。
また付近からは、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての祭祀遺跡が見つかり、そこには、立石を伴う「環状配石遺構」が出土したのです。
このような経緯から、この神社は、その祭祀空間としての機能は縄文時代にまで遡る可能性が出てきたのです。
明治6年に、丹生川上神社「下社」を「口の宮」、「上社」を「奥の宮」と称したのです。
ところが、
大正4年(1915年)に、『丹生川上神社考』が世に出てきて、これが受け入れられて、大正11年(1922年)に「上社」「下社」は、丹生川上神社「中社」に包括される形で、「丹生川上神社」とされたのです。
その際、「上社」の祭神は、罔象女神から以前と同じ高龗神に再び戻されたといいます。
なお、現在は丹生川上神社「上社」「中社」「下社」は、それぞれ独立しています。
このとき、我々は「この奥にある本殿」から「天龍」のエナジーを感知しました。
「天龍」とは、「青龍」「赤龍」「白龍」「黒龍」「黄龍」「金龍」「銀龍」など、多くの龍神の中でも最高位のものとされています。
「天龍」とは、日本においては「天皇の守護神」となる高貴なレベルのもので、今までに出会ったことのない「龍神」でした。
さすがに、これには感動しました。
さっそく―――
我々に所持しているブレスレットに、「南無天龍菩薩」として取り込みました。
残念ながら、ごく一部を除いて、このとき同調した「南無天龍菩薩」様は、ほとんど現在では離れています。
同調はできても、そう簡単には体内には留まらないし、ブレスレットにもいつまでもそのエナジーを保持することは難しいようです。
「拝殿」の右側です。
神職の方がいますが、ここで働いていますので、体軸はしっかりと取れています。
「拝殿」の左側です。
龍神の画像が飾られていますが、波動は平凡なものです。
拝殿の外に、「樹幹」があります。
御神木の「杉」の「樹幹」です。
「平安時代祭場跡(復元)」とあります。
これによると、
「平成11年の発掘調査で出土したもので、敷石遺構で、12世紀末から13世紀初頭頃に造営されたもので・・・・(ダム建設にともない)遷座されるまでの800年間に渡って造替を繰り返してきた。
この遺構は、それ以前からあったものを利用している・・・」
このようなことが書かれています。
これが、「平安時代祭場跡(復元)」です。
水没した湖の下に、この遺構があったのです。
これは「復元」されたものなので、特に何も反応しませんでした。
「末社 川上社」です。
「川上社」とは、天武天皇に関わるもののようです。
詳しくは判りません。
これが、「拝殿」から先にある「本殿」です。
本来は、旧境内地が大滝ダムの建設に伴い水没することになったために、伊勢神宮の旧社殿の古材を用いて、平成10年に造営されています。
また、ダムの建設で水没した旧社殿は、大正6年(1917年)の造築のもで、「飛鳥坐神社(あすかいますじんじゃ)」の本殿となっています。
「本殿」横に、このような入口があり―――
左から「愛宕社」「恵比寿社」「水神社」が並んでいます。
さらに―――となりに
「山の神神社」があります。
我々は、この「社」に高波動を感知して、ブレスレットを置きました。
この背後の山は、高波動空間です。
人が立ち入ると―――体軸が歪みます。
何人たりといえども、立ち入ることを許さず―――の反応を示します。
ただただ、イメージでこの背後の山の中に入ると、ジワーっと何とも言えない感触が伝わってきます。
この「馬の像」は生きています。
朝廷の奉幣にあたり、旱魃の際の祈雨には黒毛の馬を、長雨の際の止雨には白毛の馬を奉るのを例としたといいます。
この銅像に、ありがたいので手を合わせました。
上がモリモリで、その下にタッキーがいます。
二人は過去生で「親子」です。
私の講座の参加者には、「過去生で親子」だった方が、不思議とよく集まってきます。
何とも不思議な縁で結ばれているのです。
「丹生川上神社上社」の全景です。
平安時代の「延喜式」(927)では、名神大社という特に霊験あらたかな神社として月次、新嘗祭に際し官幣に預かり雨師社・雨師明神・丹生大明神とも称されました。
そして平安中期以降は朝廷における最高の社格となる「二十二社」の一つに数えられました。
丹生川上神社上社は―――
日本遺産「森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしと こころ ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~」の構成文化財の1つとして認定されました。(平成28年)
この画像からも、背後の山の波動が高いことが判ります。
波動が高い地にあるからこそ、「天龍菩薩」様が反応しているのだと思います。感謝感謝
この高台の端に、「元宮遥拝所」があります。
ここに
「おおたき龍神湖に 元宮の跡地が沈む」(巫女のお告げ)
とあります。
ここから―――
眼下にダム建造によって生まれた湖が見えます。
その下に、「元宮」がありました。
このダムで水没した元宮に、「水の靈」である「龍神」が祀られています。
我々は、しばらくこの景色の中に溶け込んで、平安期代からさらに遠く、縄文時代にまで思いを巡らせていきました。
つづく
2024年2月27日記