生命体エナジー浄化の会ブログ

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吉野路紀行 その7

《 吉野路紀行 その7 》

壺阪寺―金峰山寺吉野神宮丹生川上神社下社―天河弁財天―丹生川上神社中社

丹生川上神社中社

 

丹生川上神社中社」に近づくと、辺りは良好な波動に包まれてきました。

期待が持てそうです。

 

 

 

 

 

「水神社」とあります。

御祭神は

「高龍神」「闇龍神」とあります(龍の字には、難しい漢字が当てられています)。

 

「天然記念物 ツルマンリュウ自生地」の碑があります。

 

説明文によると―――

「本殿裏山に ツルマンリュウ自生地があり、これはヤブコウジ科の植物のことで、希有の存在なので昭和30年に天然記念物に指定された」

とあります。

 

鳥居には、「丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)」とあります。

ここは「中社」ですが、ここでは全て「丹生川上神社」と表記されていて、「中社」の文字はありません。

 

「下社」の神官の方の話では、「上社」「中社」ともすべて独立しているので、お互いに関連はしないと言っていました。

そのような中で、「下社」では、「ことあげしない」と謳っていることが気に入りました。

 

「ことあげしない」とは、宣伝しないとうことで、多くの神社仏閣は自分のところを宣伝したがりますが、そのような姿勢をみせないという文言に感動していました。

 

しかし、ここでは「丹生川上神社」として、「中社」を用いない姿勢に、少し違和感を持っていました。

これには、理由がありました。

 

明治初年までは高龗神社という小規模な祠で、その由緒も不詳でしたが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により「宮の平遺跡」が発見されたのです。

その本殿跡の真下から、平安時代後半(11世紀末)以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土し、また付近からは、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての祭祀遺跡と見られる、立石を伴う環状配石遺構が出土したといいます。

 

途中奈良・古墳時代にかけての断絶が認められるものの、当神社の祭祀空間としての機能は縄文時代にまで遡る可能性が出てきたのです。

つまり、この地は日本でも有数の 古代からの祭祀遺跡であったかもしれないのです。

 

時代と共に、この神社もまた変遷します。

明治6年(1873年)に郷社となっていましたが、当時の官幣大社丹生川上神社(現在の下社)の宮司が、下社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官府に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘しました。

 

当神社を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を「下社」所轄の神社とするとともに、「下社」を「口の宮」、当神社を「奥の宮」と称したといいます。

 

この説が認められて、明治29年(1896年)に「口の宮」を「丹生川上下社」、当神社を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」となったのです。

 

だが、大正(1915)4年 、現在の「中社」のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、「蟻通神社(現丹生川上神社・中社)=丹生川上社説」を唱えたのです。

 

これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、「上社」・「下社」は「中社」に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされたといいます。

 

その際、「上社」の祭神は「罔象女神」から郷社時代と同じ「高龗神」に再び戻されたといいます。

 

大戦後の昭和27年(1952年)には、「上社」・「下社」は「中社」から独立して、現在に至ります。

 

龍神」とあります。

丹生川上神社」は、全てが「龍神」に関わりがあります。

龍神」とは、「水の関わる神」です。

 

そのために、「丹生川上神社」の「上社」「中社」「下社」の「三社巡り」というのがあります。

「三社」を巡り祈願達成しますと、「護霊符」を購入できるようです。

 

日本最古の「龍神を祀る神社」を巡ることで、「水の力」「神の力」が受けられるようです。

 

ここ「上社」では、「水の靈」

中社」では、「神の靈」

「下社」では、「力の靈」

が受けられます。

 

「丹生大神 守り給え 幸へ給え  丹生大神 守り給え 導き給え」 

このようにあります。

 

ここは「拝殿」です。

ここから先へは行けません。

「本殿」はこの上ですが、波動は良好です。

 

主祭神は、「高龗神 (たかおかみのかみ)」です。

高龗神 とは、古くから「祈雨」「止雨」の神とされています。

 

その他に、配神として、「大山祀神」「大雷神」がいます。

 

 

 

「双龍」の描かれた額です。

 

酒の樽には、「水の神様」「丹生(にう)」と書かれています。

 

「本殿」は、ここからしか拝めません。

「本殿」には、主祭神は、「高龗神 (たかおかみのかみ)」エナジーが反応します。

 

また、配神である「大雷神」のエナジーが反応します。

「大山祀神」のエナジーは感知できませんでした。

 

 

「本殿」横の並びのエリアに、このような小さな「祠」があります。

かなりの高波動です。

 

「大盛丸神社 御祭神 龍神大明神」

このように書かれています。

 

龍神大明神」の強いエナジーが感知されます。

 

この小さな「祠」の後ろ―――ここの波動がやたらに高いものでした。

この「祠」の背後には、「石」があり、「龍神大明神」を引き寄せているようなのです。

 

特に、この「石」には、「プレアデス」系の天体のエナジーが同調していました。

 

この「石」に我々のブレスレットを載せて、その「プレアデス」系の天体のエナジーを吸引しました。

同時に、「龍神大明神」のエナジーも吸引しています。

 

さらにその並びのエリアにも、良好な波動の摂社、末社の「祠」があります。

 

「木霊(こだま)神社  御祭神 五十猛命」です。

波動は良好です。

 

 

ここの上の斜面は高波動です。

ここに立ち入ると身体が歪みます。

完全な「ご神域」で、何人たりといえども「立ち入りを許さず!」との想念が伝わってきます。

 

小牟漏岳(おむろがだけ)」として、看板があります。

ここに―――丹生川上神社の背後の山について、「古事記」からの引用文が載せられています。

 

雄略天皇が、ここの背後の山で狩りをされた時のことが、「古事記」にあり、それを引用しています。

 

丹生川上神社の「中社」の前には、川があり、良好な波動です。

画像に収めたら・・・・このように「オーブ」が浮き上がっていました。

 

こうして、「吉野紀行」の全てを終えて、帰京しました。

 

               了

 

         2024年1月17日記