生命体エナジー浄化の会ブログ

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鎌倉の史跡を巡る

《 鎌倉の史跡を巡る 》

建長寺円応寺(えんおうじ)長谷寺――鎌倉大仏―銭洗辨財天

 

建長寺

 

 鎌倉は、東京からほど近く、小学生の頃から「鎌倉大仏」などに行っていますが、あらためて「パワースポット巡り」という観点では、それほど行ってはいないことに気づいていました。

 

そんな時に、「鎌倉のパワースポット巡り」の話が出て、さっそく皆で鎌倉駅前に集合しました。

2022年10月30日のことです。

 

駅前にある「貸自転車店」で、自転車をレンタルします。

 

「鎌倉なら、ボクに任せてください!」と、いつになくミッチーの鼻息が荒く、自信をみなぎらせていますので、ミッチーに従いました。

 

まず向かったのは「建長寺」です。

建長寺」に到着すると、入口を通らずに隣の高校の中に入ります。

 

そこに自転車を停めて、そのまま裏口から「建長寺」の境内に入りました。

ミッチーは、早稲田の出身ですが、ここの高校に通っていたことが判明しました。

 

「鎌倉なら、ボクに任せてください!」と、いつになくミッチーの鼻息が荒いことが判りました。

 

さて―――建長寺ですが、

この場所は、もともと「地獄谷」と呼ばれる罪人の処刑場になっていたエリアです。

 

地獄に落ちた人々を救済する、「地蔵菩薩」を御本尊とする「心平寺」の仏堂が建っていたと伝えられています。

 

鎌倉幕府第五代執権の北条時頼(ときより)が、この地に「建長寺」を創建しました。

 

この北条時頼(ときより)には、有名な逸話があります。

「いざ、鎌倉!」という言葉の語源になっています。

 

謡曲「はちのき(鉢木)」からきた言葉で―――「一大事が起こった時に、すぐに駆け付けなくてはならない時だ」という意味で使われます。

 

北条時頼(ときより)は、執権を辞めた後、僧となって諸国を回ったという伝説があります。

上野国(今の群馬県)に、佐野源左衛門常世という貧しい武士が住んでいました。

 

ある雪の夜、旅の僧がやってきて、「一晩泊めてください」と頼みますが、源左衛門は断ります。

 

しかし、その妻が「泊めてあげよう」と言いますので、思い直して僧の後を追いかけて、連れ戻します。

 

そして―――

アワのご飯をすすめ、マキがなくなると、大切な鉢植えの「梅」「松」「桜」の木をいろりにくべて、できる限りのもてなしをします。

 

いろりにあたりながら、源左衛門は僧に、一族に領地を取られてために今は落ちぶれているが、「いざ鎌倉!」というときには、鎌倉に一番に駆けつけて、命を捨てて戦う覚悟だと語ります。

 

翌朝、僧は再び旅に出ました。

その後、鎌倉幕府から「集まれ!」との連絡が来ると、源左衛門は痩せ馬に乗って、鎌倉に駆け付けました。

 

雪の夜に泊めた旅の僧が、前執権北条時頼だと判ります。

時頼は、源左衛門の言葉に嘘はなかったことへの「褒美」として、源左衛門の領地を取り戻します。

 

さらに、大切な鉢植の木をくべたもてなしのお礼として、「梅田」「松井田」「桜井」の3か所の土地を与えました。

 

建長寺とは、禅宗の寺院です。

鎌倉五山の第一位です。

 

「法堂」に入ります。

 

この天井画は、鎌倉に住んでいた日本画家の小泉淳作による」「雲龍図」です。

見事な天井画です。

 

「千手観音」像のようです。

この「千手観音」は生きてはいません。

 

別のネット上の画像では、この前に「釈迦如来」像がありますが、この時にはそれはありませんでした。

 

ここの内部は、それほどの波動ではないようです。

 

「華厳小宝塔」とあります。

 

窓から刺し込む「木漏れ陽」を、「天照大神」様として認識しますと、次元上昇が起こります。高波動になります。

 

次に「仏殿」に入ります。

「仏殿」に、御本尊の「地蔵菩薩」像があります。

この「地蔵菩薩」は生きています。

 

この「地蔵菩薩」像は、室町時代のものとされています。

高さは、3M70センチです。

 

吾妻鏡』には、1253年に建長寺の供養が行われて、この地蔵菩薩を中尊として、地蔵菩薩の像1000体を安置したことが記されています。

 

地蔵菩薩」の本体は、「国常立大神」様ですので、かなりの高波動です。

その影響で強い波動が、堂内に行き渡っています。

 

ここでは、「地蔵菩薩」の御真言「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」に反応しますが、

「国常立大神」の御真言「オンマカ シリエイ ジリベイ ソワカ」に、より強く反応を示します。

 

この奥にある仏像は、「伽藍神(がらんじん)」と呼ばれる中國の道教に由来する、お寺を護る5体の神像です。

 

伽藍神(がらんじん)」とは、中国の「宋」の影響を受けたもので、禅宗系の寺院を守護する「神」で、道教の動士の衣服と冠を着用しています。

 

これらの像は生きていません。

 

右側の奥にも、数体の像が安置されています。

歴代の住職の像なのか、よく判りません。

 

これらの像は生きていません。

 

ここにある像は、全て「生きています」。

感謝の祈りを捧げるといいようです。

 

あらためて地蔵菩薩像を眺めますと、「地獄に堕ちた成仏できないでいる不浄佛霊」を救ってくれるように思われます。

 

私も、昔の知人で自殺したように思われる方がいて、成仏するのが難しい反応でしたが、この「地蔵菩薩像」の中に入れて、反応させたところ成仏することができたように思われます。

 

「唐門」です。

2011年に修復されています。

 

「方丈」の建物です。

 

「庭園・方丈入口」とあります。

竜王殿」とも称するところで、京都から移築したものです。

 

ここの庭園は、夢想礎石の作といわれています。

 

この中に「竜王殿」の扁額があります。

 

中は、このように立派な仕様になっています。

 

ここに案内板があり、

「庭園(国史跡)」

「さん碧池(さんべきち)を中心とする庭園は、開山大覚禅師の作庭」とあります。

 

いかにも禅寺のような簡素な庭園です。

この庭園を眺めていますと、心が鎮まります。

 

喧噪の都会の中で生きている我々にとって、このような庭園がありますと、心身の活力を回復するのに、大きな効果があるように思われました。

 

「韋駄天」立像です。

「合掌一礼」とありました。

 

我々も、合掌して一礼しました。

 

これが誰なのかは、よく判りません。

また、生きてもいません。

 

ここから、建長寺の最奥にある「半蔵坊」を目指します。

「半蔵坊」とは、建長寺の「鎮守」です。

 

ここに祀られている「半蔵坊権現」は、1890年当時の住職であった禅師が、浜松市方広寺から勧請した「神」です。「火除け」や「招福」にご利益があるといいます。

 

 

その途中に、タヌキがいました。

多くの観光客がいましたが、それほど怖がることもなく、動き回っていました。

 

「半蔵坊大権現」の幟のある旗が並んでします。

 

「半蔵坊大権現」に惹きつけられながら、階段を昇って中腹を目指します。

 

この上に「半蔵坊」があります。

ここを目指します。

 

かなり急な階段を昇りますと、「半蔵坊」に到着します。

 

途中の壁面に、何やら彫られたものがあります。

何も反応しません。

 

「風が強いので、扉を開けてお参りください」とあります。

山の中腹にありますので、強風が吹くこともあるのだろうと思われます。

 

中は、このようになっています。

特に波動は高くはないです。

 

上から見下ろすと、北鎌倉の山々が見渡せます。

 

「半蔵坊」とは、このような所です。

 

「半蔵坊権現」とは―――

後醍醐天皇の皇子であった無文元選禅師(浜松市方広寺を開山)の元に、忽然と現れた白髪の老人です。

 

「権現」「大権現」という名称なので、「天狗界」系の人物と思われます。

神通力を持っていたと伝わります。

 

無文禅師が死去すると、老人もまた、忽然と姿を消したといいます。

 

ここから「半蔵坊大権現」のエナジーが感知されます。

天狗界系のエナジーです。

 

ここにある像には、何も反応はありません。

 

ついでながら―――

ノイローゼを患っていた夏目漱石は、ここ建長寺近くの帰源院に参禅していました。

 

夏目漱石正岡子規は、学生時代から交流があり、漱石愛媛県松山市に英語教師として赴任した頃に、正岡子規漱石の住む自宅に50日以上も逗留していました。

 

正岡子規は、脊椎カリエスという難病で、晩年はほとんど寝て暮らしていましたが、その俳句のほとんどは寝床で、自分の過去を思い出しながら綴ったものです。

 

漱石が、「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」との句を発表するとーーー

正岡子規は、有名な「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を発表しています。

漱石が「建長寺」で、子規が「法隆寺」です。

 

こうして、我々は次の目的地である「円応寺(えんおうじ)」へと向かいました。

 

               つづく

 

                2024年6月11日記