《 鎌倉の史跡を巡る 2 》
建長寺―円応寺(えんおうじ)―長谷寺――鎌倉大仏―銭洗辨財天
円応寺(えんおうじ)―
創建は、1250年に知覚禅師とされるが、諸説あって詳しいことは解っていないようです。
鎌倉時代の「閻魔像」や「冥界の十王像」で知られていて、別名「新居焔魔堂」「十王堂」とも呼ばれています。
当初は、鎌倉大仏の東側に建てられていましたが、材木座の川岸に移転します。
しかし、元禄大地震の津波で大破したので、現在地の建長寺の大塔庵のあった地に再び移転します。
円応寺(えんおうじ)は、鎌倉街道の道沿いにあります。
自転車を駐輪するスペースが少なく、難渋しました。
階段を上がり、それほど広くもない境内には、多くの観光客が群がっていました。
円応寺(えんおうじ)に入ると、この案内板が目に入ります。
ここに―――
「人が死後に冥界で出会う閻魔大王を中心にした「十王」を祀るお寺です。
中略
「十王信仰」は室町時代に「十三佛信仰」となり、日本仏教独自の宗派を超えた葬儀・法要の元となっています」
このように書かれています。
門に入ると、すでに行列ができています。
冥界の閻魔様に出会うために、長い行列が続きます。
釈迦は、死後の世界については説いていませんが、「死」は人が最も恐れる仏教の出発点でもあります。
「死」への恐怖を解決して、充実した人生を送るために「十王」は存在します。
「十王」とは―――
死者が冥界で出会う十人の「王」のことで、7日毎に7回、さらに100ヶ日、一周忌、三回忌の合計10回、それぞれの「王」の取り調べを受けます。
死者はまず、初七日の初江王、三・七の宋帝王、四・七日の五官王と、生前の罪を取り調べます。
その結果によって、「閻魔大王」が六道という「天上界」「人間界」「修羅界」「畜生界」「飢餓界」「地獄界」の、どこに生まれかわるかを決定します。
私達がいま人間として 存在するということは、前生の行ないを閻魔様が判断した結果ということになります。
生まれ変わり先が決定した後、六・七日の変成王が場所を、七・七日 (四十九日)の泰山王から男女の性別と寿命を決定します。
初七日から四十九日までの間は「中有」または「中陰」といい、この間、亡者はこ の世からあの世へと旅を続けるとされます。
釈迦は、死後の世界については説いていませんが、「因果応報説」を説いています。
「善因善果、悪因悪果」といって、「善い行いには必ず善い幸福な果報が得られ、 悪い行いには悪い不幸な結果となる。それは過去世、今世、来世と三世に渡って輪廻転生する。」と説いています。
中に入ると、ありました。
「閻魔大王」像です。
国の重要文化財である「運慶」作とされています。
「地蔵菩薩」像です。
冥界に来た方々を救ってくれるお方です。
「都市王」です。
死後二年目(一周忌)の審理を行う裁判官です。
勢至菩薩の化身です。
これで喪は明けたとされています。
光明箱とよばれる箱を持ち、中にはありがたい経文が入っていすが、悪業の深い者があけると業火に焼かれるといいます。
都市王の裁きの場から極楽に行くことが可能ですが、その距離は十万億土(一説には三十光年)とされています。
大山王(たいざんおう)
大山王(たいざんおう)です。
死後の、四十九日目に出会う王です。
薬師菩薩の化身です。
二枚舌の罪が問われます。
この日まで、死者の霊魂は「あの世」と「この世」を旅をしています。
死者の取り調べは、この日で7回目となります。
この日に、死者は次の輪廻転生するときに、「男女のどちらに生まれるかが決定」されます。
また、「その寿命も決定」されます。
「閻魔大王像」(えんまだいおうぞう)の説明文です。
これが「「閻魔大王」です。
運慶作と伝わります。
ここに懺悔文が示されています。
「閻魔大王懺悔文」
閻魔大王をしばらく眺めていると、少し笑みがあるようにも見えてきます。
それは―――
本尊の閻魔大王像については、運慶が死んで地獄に堕ちましたが、閻魔大王に「生き返らせてやるから、自分の像をつくれ」と云われて、蘇生したといいます。
生き返った運慶は、「笑いながら閻魔大王像」を彫ったために、閻魔像も笑っているような表情になったーーー
このために、この閻魔大王像は「笑い閻魔」と呼ばれるようになった、と伝わります。
私は、他の場所でも「閻魔大王像」を見ていますが、この閻魔像と同じように映ります。
これが後世の「閻魔大王像」の元になったのかもしれません。
五官王(ごかんおう)です。
二十八日目に出会う王です。
普賢菩薩の化身です。
四・七日の生前の罪を取り調べます。
身体と口で犯す七つの罪が問いただされます。
死者はまず、秤量舎で目、耳、鼻、舌、皮膚で犯した罪が秤(はかり)にかけられます。
秤(はかり)は7つあって、妄語、飲酒、他の過失・罪過を言い募る罪、自分を褒め、他人を謗る罪、他に施すことを惜しむ罪、怒る罪、仏法僧の三宝を誹謗し、貶める罪が計られます。
宋帝王(そうていおう)です。
死後の二十一日目に出会う王で、「文殊菩薩の化身」です。 |
秦広王(しんこうおう)です。
初七日(死後の7日目)に出会う王です。
これは「不動明王」の化身です。
殺生の罪を問いただされます。
人が生まれると、その両肩には「俱生神(ぐしょうしん)」が宿ります。
その一神は善きことのみを、もう一神は悪しきことのみを監視しています。
秦広王(しんこうおう)は、「俱生神(ぐしょうしん)」の報告に基づいて、死者を取り調べ、その内容を帳面に記録します。
その帳面は、「初江王」「宋帝王」「五官王」へと引き継がれて、閻魔大王へと渡ります。
奪衣婆(だつえば)の像
死後14日目に「三途の川」を渡るときに、その三途の川にいる婆で、川を渡るに「六文銭」を要求するという婆です。
後年「日本一の武士((ひのもといちのつわもの)」と称えられた真田幸村。
真田家の家臣団は、「六文銭」の旗印のもとに活躍しました。
実際に、兵士は「六文銭」を身に着けて戦い、三途の川に行き付いても困ることがないようにしていたといいます。
数倍もの徳川軍を2度に渡って打ち破り、さらには大阪城の冬の陣では真田幸村は「徳川家康ただ一騎」のみに標的を絞り、徳川軍は壊滅。
德川軍の軍旗も倒されたとき、家康の乗った籠に槍が刺さり、それが致命傷となって徳川家康は亡くなった―――とされる説があります(本ブログ「歴史を考える」の2016年11月」参照)。
この説には、「経営の神様」と云われた松下幸之助も賛同しています。
そこには、「徳川家康の墓」まであり、2代将軍秀忠も3代将軍家光も訪れています。
その英雄を讃えて、幕府内でも真田幸村を「日本一の武士(ひのもといちのつわもの)」と称えたといいます。
再び「閻魔大王」の下に来て、懺悔をして、「極楽に導いてくれますように・・・・」との願いを込めて、感謝の気持ちをお伝えしました。
つづく
2024年6月18日記