《 丹生川上神社下社登拝 その3 》
岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳―丹生川上神社上社―丹生川上神社下社―御厨子神社
奈良の飛鳥にある「国営飛鳥歴史公園」に向かいました、
そこには有名な「石舞台古墳」があります。
駐車場を降りると、遠くに「国営飛鳥歴史公園」があります。
300円を支払って、中に入ります。
「古墳」は、通常は盛土があって、外部が土で覆われていますが、ここでは盛り土がありません。
そのために、「古墳」を形成する「石」がむき出しになっています。
この古墳は、「方墳」というもので、出来た当初は、盛土で覆われていたと思われますが、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状です。
天井の石の上面が広く、大きく平らで、まるで石舞台のように見える形状から、
この古墳は古くから「石舞台」よ呼ばれています。
古墳の上には、巨大な石が載っています。
墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定2,300tです。
古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるといいます。
この巨大古墳が誰の墓なのかは不明です。
このような巨大な石を持ってきて、「古墳」を造るとう技術が昔の日本人でも行えたということに、少し誇らしいものがあります。
石の総重量は推定2,300tということは、天井石でも77tあるので、これを持ち上げるのはどうやって行ったのか―――
以前に、本ブログで
「自分の過去生の全ての記憶を覚えている方がいて、その方はインカ時代の子供の頃に、2人の男性が石を空中に持ち挙げて、それをはめ込んでいた時の記憶があった」ことを記しています。
イースター島に行ったときに、まだ岩の中に彫られたままで、その島最大の「モアイ像」を見ましたが、
それが立ったままで彫られているではなく、地面に横たわっている状態だったので、どう考えても、そのモアイ像の下の面を削り取ることは不可能に思えました。
空中に浮かせる何らかの技術が必要で、いまでも「どうやってモアイ像が移動できたのかが解明されていない」のが現状です。
実際に、多数の丸太を地面に置いて運んだ説も、現実では成功しませんでしたし、大勢でロープで引き、歩かせたという説もありましたが、成功しませんでした。
ただ、いまだに反重力を使って運んだのではないか―――という説が、最も有力なものとなっています。
古代の人は、「反重力を操れる能力があった」と主張する学者も少なくありません。
現在でも、反重力は実験室レベルで成功しているに過ぎないのです。
このことから、エジプトの大ピラミッドの建造でも、この「反重力を操れる能力」を用いていたとの説は、今でも有力です。
この「石舞台古墳」は、できた当初は盛土があったはずですから、丸太に石を載せて、ロープで多人数で引っ張って、上から載せて、古墳を造ったと通常は考えられますが、
重さが77トンにもなりますと、簡単にはいかないかもしれません。
1933(昭和8)年~35(昭和10)年の発掘調査で、方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されています。
そのことから、築造は7世紀初め頃と推定されています。
また、
その巨石は、3キロ離れたところから切り出されたものです。
古墳時代の昔に、どうやって運んだのかを想像するのも面白いものです。
ここからが「入口」になります。
上に載った巨石が、まさしく「石舞台」を思わせます。
このとき、「古墳の中」に入るのに、少し違和感がありました。
我々は、「歓迎されていない」と認識されました。
このことは、超過敏なゾネスや皇子も感知してしました。
このまま―――この古墳の石室の中に入り込んでは、正しく状況は掴めなくなるかもしれない・・・・・。
こんな思いがあり、まず「この中に入ることのお許しを頂く」ことにしました。
この画像は、そのお許しを頂いた後のものです。
これで、
我々を歓迎してくれる―――との反応に変わりました。
石舞台古墳の俯瞰図(ネットより)
石室の内部です。
人が立って入れるだけの、十分な大きさがあります。
石の隙間から、光が漏れています。
ここに―――
出来上がった当初(7世紀)には、石棺があって、人が埋葬されていたものと思われます。
誰の墳墓なのか?
これには諸説あるようですが、最も有力なのは蘇我馬子の墓という説です。
というには、この近くに蘇我馬子の邸宅があったからです。
もし悪名高い蘇我馬子であれば、盛土がすべてなくなってしまったことも理解できます。
蘇我馬子は、聖徳太子亡き後、太子の子供の山背大王子(やましろおおえのおうじ)とその一族を滅ぼしました。
そして、天皇家を凌ぐほどの勢力を持つにいたり、645年中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)後の天智天皇(てんじてんのう)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、中国(隋や唐)で政治や文化を学んで帰国した留学生と共に、蘇我氏を滅ぼしました。
そして、政治改革に着手したのが、有名な「大化の改新」です。
改心の基本方針は―――
1,公地・公民(豪族が支配して所有していた土地・人民)を、国家が直接支配する
2,班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)
戸籍を作り、公地を公民に分け与え、死ぬと国に返還させる
3.国郡制度(全国を国と郡に分ける)
4.租(そ)・調(ちょう)・庸(よう)の税制
公民に税や労役を負担させるなどを定めた
これによって、「律令国家」の基本が定まりました。
さて―――
蘇我馬子の孫の蘇我入鹿が殺されて、国家としての体制が整いましたが、これは蘇我馬子であろうと推察されるだけで、確定される資料はありません。
我々は、「蘇我馬子の墳墓説」に同意しています。
というのは―――
2023年7月に、この近くにある「飛鳥坐神社(あすかいますじんじゃ)」に行きました。
そのとき、初めて聖徳太子の反応を感知しました。
今までに多くの神社、仏閣に行きましたが、聖徳太子の反応を感知したのは、初めてでした。
そして―――その近くに、「蘇我入鹿の首塚」があり、いまだにそこはマイナス波動で、そのエリアに留まるだけで、体軸が歪んでしまう反応がありました。
「大化の改心」で殺された蘇我入鹿は、蘇我馬子の孫にあたります。
確かに、そこには「蘇我入鹿の首塚」として反応しましたので、「首」が「首塚」に埋められてようですが、その首塚と「石舞台古墳」に埋葬された人物の血縁関係をチェックしました。
「血縁関係のある人物」と確認されます。
「血」は、その血縁関係のチェックで、正確に判断されるようです。
そこで―――1400年から1500年前にセットして、誰れが埋葬されたのかをチェックしますと、「蘇我馬子」との反応が出てきました。
やはり・・・・従来からの指摘通りの反応でした。
さて、古墳の内部に入ると―――体軸が歪みます。
なぜなのか?
埋葬された「死者」にとっては、その内部は神聖なエリアです。
その神聖なエリアに、何の関係もない人々が入ってくるのですから、嫌がるのは当然かもしれません。
それで、この内部空間はマイナス波動になっているのかもしれません。
このときの我々も、一様に軸が乱れました。
そこで―――次元を変えました。
次のものは、高波動の次元に変えたものです。
9次元の高波動空間になりました。
それで―――
この画像に映っている人物が、一様に波動が整いました。
ついでながら、本ブログで書いていますが、私の住む田園調布の隣の駅である「多摩川駅」の駅前には、大きな古墳があります。
公園となっていますが、その周囲の建造物は、ほとんどがマイナス波動です。
その古墳の影響です。
その周辺の100から200Mの空間の住居は、全てがマイナス波動で覆われています。
田園調布は、今でこそ高級住宅地とされていますが、関東大震災のときに、ほとんど無害だったので、セレブが移り住んできて高級住宅地となったのです(私の住むところは高級住宅地ではありません)。
関東大震災では、首都東京の大半の建造物は崩れ落ちました。
それを、ほとんど無害で終わらせたことの背景には、この多摩川駅前の古墳が大地を守っているから―――と私は思っています。
多摩川駅前の古墳には、誰もが自由に出入りできますが、やはり人が入るのを嫌います。
周囲の住宅街にも悪影響をもたらしていますが、大地はしっかりと守っているようです。
そのようなことから、この「石舞台古墳」は―――
人が入るのは嫌がりますが、近隣の大地はしっかりと守護してくれているように思います。
本来的に、古墳を建造する場所は、「いやしろち」といわれる大地のエナジー波動が高いエリアに設けられます。
「けかれち」という大地の波動が悪く、人や犬,家畜などに病気を招くエリアには、まず造ることはありません。
古い神社・仏閣あるいは古い教会なども、大地からの高波動が繋がるようなエリアに建てられています。
この古墳の中を、次元を変えて高波動空間にしたときの「内部」です。
この空間の中にしばらく留まりますと―――
体軸が安定して、整ってくるのが判ると思います。
つづく
2024年2月20日記