生命体エナジー浄化の会ブログ

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鎌倉の史跡を巡る 4

《 鎌倉の史跡を巡る 4 》

建長寺円応寺(えんおうじ)―長谷寺鎌倉大仏―銭洗辨財天

 

鎌倉大仏

 

 「日本三大大仏」の一つで、鎌倉で唯一の「国宝」となっています。

「日本三大大仏」とは―――

 

江戸時代に、「鎌倉大仏(像高約11.39m)」、「東大寺大仏(像高約14.7m))、「方広寺大仏(京の大仏、像高約19m))の三尊を指しています。これを、「日本三大大仏」と称しています

 

「大異山」とあります。

 

鎌倉大仏の正式な名称は、「大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)」です。

 

この「号」が、仁王門に掲げられています。

 

仁王門を入ると―――「鎌倉大仏」が見えてきました。

 

近づくと、高さ13Mの巨体に目を奪われます。

鎌倉大仏」とは―――阿弥陀如来像です。

 

重量はおよそ121トンもあり、正確な高さは11.31メートル。

台座も含めると、13.35メートルです。

 

鎌倉大仏のある「高徳院」の開山、開基については不明です。

初期は真言宗で、のちに臨済宗禅宗)に属し、江戸時代以降には浄土宗に属しています。

 

吾妻鏡』によると、1238年(暦仁元年)の「大仏堂」の建立が始まり、5年後に開眼供養が行なわれたとの記述があります。

 

最初の仏像は、銅造ではなくて木造であったといいます。

その木造が銅造大仏の原型であったというのが定説となっています。

 

また、鎌倉大仏は、元々は「大仏殿」の中に安置されていました。

しかし、

太平記』によると、建武2年(1335年)に、「強風」で大仏殿が倒壊したと記載されています。

 

さらに、『鎌倉大日記』によると、大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊しています。

 

この大仏殿については、「地震」と「津波」で倒壊したとされてきています。

テレビなどで報道では、鎌倉大仏の「大仏殿」は、「地震」後に発生した「津波」で倒壊したとしていました。

 

平成12年に行なわれた境内の発掘調査では、鎌倉大仏の周囲には、かつて存在した大仏殿の礎石の跡とみられる巨大な石が53個存在することが確認されています。

 

いずれにせよ、まず台風などの強風で大仏殿が倒壊して、さらに「地震」と「津波」で倒壊したので、700百年近くも「露座」のままで、風雨に晒された状態で今の鎌倉大仏が存在していることになります。

 

その後、関東大震災では基壇が壊れて、1Mも沈下したといいます。

今では、1959年から2年間の改修工事で、大仏本体も補強して、基壇を「免震構造」にしています。

 

 

鎌倉大仏」とは「阿弥陀如来」像です。

阿弥陀如来」とは―――

 

チベット死者の書」によると、「大日如来」「阿閦如来」「宝生如来」に続いて、死後の4日目に魂の救済に現れるとされています。

 

浄土宗、浄土真宗などでは、「阿弥陀如来」の一尊を最高神としています。

 

特に浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで、極楽黄土に行かれると説いています。

 

真言密教禅宗などでは、「自力」で自分の運命を切り拓いくことを説いていますが、

浄土真宗では、「阿弥陀如来」の本願力に帰依することでのみ救われる、と説きます。

 

末法濁世の一般人は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力では、いかなる善も完遂しえないとしています。

 

つまり―――「他力」でのみ救済されるとしています。

 

戦国時代に、織田信長をはじめ、多くの武将が手こずった「一向一揆」がありました。

 

貧しい農民達の背後には、本願寺などの浄土宗系の「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで、極楽黄土に行かれると説く教えがありました。

 

そのために、たとえ死んでも(他力本願で)極楽黄土に行かれるのですから、その勢いには、さすがの織田信長ですら、大阪の石山本願寺を攻めきれずに、和睦するしか手段を見出せなかったのです。

 

そんな「阿弥陀如来」に帰依することで・・・・多くの民衆は救われた・・・・と、思います。

 

阿弥陀如来真言「オン アミリタ テイセイ カラ ウン」を、幾度も繰り返し唱えますと―――

 

自分の身体が、「阿弥陀如来」像の中に引き込まれていく感覚がありました。

 

阿弥陀如来」像は、膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでいます。

このことから真言宗系か天台宗系の信仰に基づく「阿弥陀如来像」であることが判ります。

 

阿弥陀如来」像の中は、空洞になっています。

中に入って見学することもできます。

 

イメージで、この銅像の中に入り込んで、額にある「白毫(びゃくごう)」の中から出てきて、再び自分の体内に戻る・・・・ということを、繰り返してみました。

 

すると―――次元が変わりました。

 

高次元となり、「阿弥陀如来」像は「生きている」という反応に変わりました。

画像は、そのときの状態にセットしておきます(像が「生きている」ことが判ると思います)。

 

大仏の背後には、4枚の「連弁(れんべん)」が並んでいます。

 

本来、「阿弥陀如来」は「蓮の花」の台座に座っていますが、江戸時代中期に台座の修復をする際に、本来は32枚の「連弁(れんべん)」を鋳造する予定でしたが、この4枚のみが完成したといいます。

 

 

背後から見る巨大な背中です。

少し「猫背」のように思われます。

 

まず皇子が、鎌倉大仏の背後に立って、

「天地結合の印」を結びました。

 

我々も、ここで一人ずつ「天地結合の印」を結びます。

 

ここの位置が、最も「天地結合の印」を結ぶのに適したエリアです。

 

「天地結合の印」は、右手を「天(太陽)」に向けて、左手を「地(地球)」に向けて、

両者のエナジーを吸引して、身体の「腎臓」「膵臓」あたりに、もしくは「臍下丹田」あたりにためる「印」ですが、

 

これは、「天(太陽)」に向けるのは「左手」になる方もいます。

ゾネス(手前)は、そちらの系統になります。

 

「天」「地」から取り入れたエナジーをどこに集約するかで、「天(太陽)」に向ける「手」が、

〇 右手の場合は、「腎臓」「膵臓」にエナジーを集約するように思われます。

〇 左手の場合は、「臍下丹田」にエナジーを集約するように思われます。

 

最後にアジャリンコも「天地結合の印」を結びました。

 

私もやりましたが・・・・、ここでは周囲に人が多く、雑念が起こってきて、十分なエナジーの吸引はできませんでした。

 

やはり、閑散・静寂な環境下で結ばないと、私は集中力が足りないように思われました。

 

「観月堂」

鎌倉大仏の裏手にあります。

 

朝鮮李王朝の月宮殿を移築したものといわれています。

1924年(大正13年)に、山一證券の創業者によって寄贈されたものです。

 

ここには、聖観音像が安置されていて、徳川二代将軍秀忠の寄進と伝えられています。

 

こうして我々は、最後の目的地である「銭洗辨財天」を目指して、自転車で移動しました。

 

                つづく

 

           2024年7月2日記