生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

未来エステ研鑽会Bコースの開催について

未来エス研鑽会Bースの開催について

 
先着20名様です。
 
参加の意思は「メール」でお知らせください。
 
2024年5月12日(日) (Bコース) 
13時から16時(時間は延長する可能性があります)
 
参加費: 各コースの初回参加費は18,000円(大光明神液進呈)
            各コースの2回目以降は 10,000円です。
 
メールの宛先は「生命体エナジー浄化の会」の「ホームページ」をご覧下さい。
 
 

メールは、これです。 hc-lab@nifty.com

 
お申し込みを お待ちしております。

丹生川上神社下社登拝 その5

《 丹生川上神社下社登拝 その5 》

岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳丹生川上神社上社丹生川上神社下社―御厨子神社

 

丹生川上神社下社―御厨子神社

 

 丹生川上神社上社から、今回の大きな目的の一つである丹生川上神社下社の「登拝」のために、「下社」に来ました。

 

思えば―――吉野に来て、クルマで道を走っているときに、「丹生川上神社下社」の幟を目にして、波動が高そうだから行ってみよう―――となったことから、

我々はこの神社に惹きつけられてきました。

 

年に1回だけ、一般人でも階段の上にある本殿の参拝ができる6月上旬の予約をしていました。

 

まず、「下社」で白馬が出迎えてくれました。

 

私が、白馬の鼻を撫でています。

 

タッキーも白馬を撫でますが、何か「お前、食べ物があるだろう。それを寄こせ!」と言っているようです。

 

神馬ですが―――

社伝によると、かつて朝廷より、雨を祈るときには「黒馬」を、晴れを祈るときには「白馬」が奉納されたといいます。

 

室町時代には神馬献上祭は途絶えていましたが、近年水害が多いことから、復興を願い2012年(平成24年)に約600年ぶりに神馬献上祭が行われたということです。

 

この水神信仰が絵馬発症の起源として伝わっています。

これが―――京都の貴船神社へと受け継がれていったとされています。

 

この貴船神社では、靈紙に願い事を書いて、水につけて流します。

 

同じようなことが、ここ丹生川上神社下社にもあります。

 

これは、「人形祓(ひとがたはらい)の石」です。

 

ここに「人形祓(ひとがたはらい)」とあります。

 

和紙の人形(ひとがた)の左肩、右肩、左肩を順に撫でて、次に自分の気になる箇所と同じところを撫でます。

 

最後に人形(ひとがた)の真ん中に息を吹きかけて、自分の念を人形(ひとがた)注入します。

 

そして―――それを水が流れるこの岩に流すと、和紙は水に溶けていきます。

これで、身代わりになって悪い気から守ってくれる、といいます。

 

 

神職の方がいて、説明してくれました。

 

 

丹生川上神社下社の正面にある鳥居から、拝殿―階段―本殿と眺めます。

 

この階段の上にある「本殿」に、年1回だけ許されるお参りをするのです。

この「本殿」の波動の高さに惹きつけられて、我々は来ています。

 

拝殿から、75段の階段を昇り、本殿に行けるのは年に1回だけです。

 

いよいよ、午後の部が始まります。

神職の方が準備に入ります。

 

この若い神職の方は、初めてここ「丹生川上神社下社」に来た時に、親切・丁寧に教えてくれた方で、

 

2023年奈良県吉野にある「神仙洞」の御神水を探し求めていたときに(結局、地元の観光センターの人に尋ねても判りませんでした)、その「神仙洞」でお祓いの神事をしている人物が、この方でした。

 

「神仙洞」では、ここ「下社」がお祓いの神事を行っているようなのです。

 

いよいよ75段の階段を昇り、「本殿」のお参りが開始されます。

私は、先頭の位置におりましたが、ある思いがあって、先頭を譲りました。

 

どのような状態でお参りができるのかを、把握したかったのです。

つまり―――

シャッターチャンスがあるか否か、これを知りたかったのです。

 

このとき、下で一人一人が登拝するのを待っているときには、何とかチャッターは押せますが、本殿ではそれができないかもしれなかったからです。

 

そして―――

私が撮った唯一の画像です(関係者の皆様ごめんなさい)。

 

この本殿前の扉は開かれていますが、その中には踏み込むことはできません。

 

この扉の内部の空間は、ほぼ全ての「龍神系のエナジー」で満ちています。

青龍、赤龍、白龍、黒龍黄龍、銀龍、金龍さらには「神龍」まで反応します。

 

さすがに「天龍」の反応はありませんが、この「天龍」はここに来る前に立ち寄っている丹生川上神社「上社」で同調させて頂いています。

 

我々は、「拝殿」で静かに一人一人が登拝するのを待っていました。

 

待っている間は、正座がきつくて、真ん中のミッチーやその横にいるゾネス、先頭の皇子なども耐え難くなっていましたが、左側のカネゴンは正座したまま順番を待っていました。

 

この若い神職の方が、「神仙洞」でお祓いを司っていた方です。

 

こうして―――目的であった「下社登拝」を終えて、まだ帰りの時間の余裕がありますので、次の目的地へと向かいました。

 

「みずし観音」とあります。

 

 

「御厨子神社」への途に進みます。

厨子神社(みずしじんじゃ)とは、妙法寺の中にあり、右大臣吉備真備(きびのまきび)の発願で716年に端を発したものです。

 

参道を昇っていきます。

 

ここに鳥居があります。

 

これは、御厨子神社の「月輪石」(つきのわいし)」です。

真っ二つに割れた磐座です。

 

この石を、「生気」を授ける神・「石析神(いわさくのかみ)」として拝んでいます。

 

 

ここは、社務所と思われますが、今では使われていないように思われました。

 

これは、「拝殿」なのか。

案内文がなく、正確には判りませんが、「拝殿」のように思われます。

 

この神社の「御祭神」は、以下の3柱です。

根析神(ねさくのかみ):根を裂く威力のある神で、生気を授ける神

安産霊神(やすむすびのかみ):安産の神

誉田別命(ほんだわけのみこと):八幡大神

この地は、清寧天皇「磐余甕栗宮」の跡です。

社名は、磐余池の尻辺に位置するので、古くから「水尻(みずしり)神社」といいました。

 

祭神は根析神(ねさくのかみ)、安産霊神(やすむすびのかみ)二柱でしたが、應仁(室町時代)より御厨子観音(御厨子妙法寺)が移建され鎮守八幡宮が合祀されてから「御厨子神社」と改称されたといいます。

 

拝殿の後方に「本殿」があります。

 

この「狛犬」は生きています。

我々の動向をジーっと見守っていました。

 

 

こちらの「狛犬」は生きていません。

ただ、ここに鎮座しているだけです。

 

これが、3柱を祀る「本殿」です。

 

根析神(ねさくのかみ):根を裂く威力のある神で、生気を授ける神

この神を感知します。

この神が働きが、真っ二つに割れた磐座の「月輪石」(つきのわいし)」に影響しているのだと思われます。

 

そこで―――

一刀両断されたような「月輪石」(つきのわいし)」に再び向かいました。

 

「月輪石」(つきのわいし)」には、根析神(ねさくのかみ)の霊力が感知されます。

 

我々は、この岩の裂け目から吹きあがってくる霊力を、持参したブレスレットに吸引しました。

 

ここは、「妙法寺」の本堂のようです。

ここに「妙法寺厨子観音」があります。

 

ひっそりとしていて、人の気配がありませんでした。

この中に「御厨子観音」が鎮座しているようなのですが、中には入れませんでした。

 

厨子観音(みずしかんのん)は、奈良時代の賢人である吉備真備(きびのまきび)が遣唐使として派遣され、無事唐から帰国できたことを喜んで創建させたということです。

本尊は十一面観音菩薩です。

 

これは、「水子・子育て地蔵尊」です。

特に反応はありません。

 

「光明不動」とあります。

案内板には―――

 

「この階段を下って右に進むと自然石があります。

この自然石の中にお不動明王さまの姿が見えれば 眼病が治ると伝えれれています」

このようにあります。

 

これが自然石です。

残念ながら、我々には「お不動明王さまの姿」は見えませんでした。

 

最後に、全員でこの自然石を拝みました。

というのは―――

 

この自然石は、次元を変えると

お不動様が浮き上がってきたのです。

 

この画像は、高次元に転換しています。

 

「ノウマク・サンマンダバザラダン・カン」

の御真言に反応します。

 

さらに、心中で

「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」

の中咒を3回唱えると、さらに反応が強まります。

 

こうして・・・・今回の旅を終えました。

 

              了

 

          2024年3月5日記

 

 

丹生川上神社下社登拝 その4

《 丹生川上神社下社登拝 その4 》

岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳丹生川上神社上社丹生川上神社下社―御厨子神社

 

丹生川上神社上社

 

 飛鳥の「石舞台古墳」を見た後に、クルマに乗り吉野方面に来ました。

丹生川上神社」の上社、中社、下社の中で、最後に残っていた「上社」を訪れました。

 

初めて偶然に通りかかった「下社」の看板を視て、そこに惹かれて凄い高波動の神社であることを知り、「三社巡り」をしなくてはならないと思ったので、いよいよ「上社」に来て目的が達成されます。

 

そして―――期待通りの波動の高さでした。

 

丹生川上神社上社」は、天武天皇白鳳4年(675年)ご神宣によって建立奉祀されたと伝わります。

 

御祭神は高龗大神(たかおかみのおおかみ)で、「龍神」です。

つまり、「水」「雨」に関わる「大神」様です。

 

天災・飢饉などが起こると、つまり、(台風などの)嵐が続いたり、雨が降らすに農作物が発育しないようなときに、ここの神社に御参りしたのです。

 

奈良時代には淳仁天皇天平宝字七年(763)の奉幣祈晴をはじめ、室町時代に至るまでに、数10回の奉幣祈願がなされ、朝廷・国家また人々より篤い崇敬を受けていたといいます。

 

「手水舎」です。

 

この台座となっている「石」は、なかなかの高波動です。

 

丹生川上神社上社」が、「天空の社」といわれるのが分かります。

高い、眺望の素晴らしいところに位置しています。

 

ここに「拝殿」があります。

 

ここの拝殿掲額には「神雨霑灑(シンウテンサイ)」とあります。
「神の雨がうるほしそそぎ、恩恵をほどこす」という意味のようです。

 

「拝殿」の中は、このようになっています。

 

ここの空間は、良好な波動で包まれています。

 

 

この「拝殿」の奥に、「本殿」があります。

主祭神は、高龗大神(たかおかみのおおかみ)です。「龍神」です。

 

また、

配神は、「大山祇神」と「大雷神」です。

 

以前は、主祭神を「罔象女神」としていましたが、大正11年(1922年)に、丹生川上神社「中社」との併合に際して、「高龗大神(たかおかみのおおかみ)」(龍神)に改めました。

 

それ以前には、丹生川上神社「下社」の「奥の院」が、この「上社」となっていました。

 

さらに言うと―――

 

明治初年までは高龗神社という小規模な祠でした。

その由緒も不詳でしたが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により、宮の平遺跡が発見され、

 

本殿跡の真下から平安時代後半(11世紀末)以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土しました。

 

また付近からは、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての祭祀遺跡が見つかり、そこには、立石を伴う「環状配石遺構」が出土したのです。

 

このような経緯から、この神社は、その祭祀空間としての機能は縄文時代にまで遡る可能性が出てきたのです。

 

明治6年に、丹生川上神社「下社」を「口の宮」、「上社」を「奥の宮」と称したのです。

 

ところが、

大正4年(1915年)に、『丹生川上神社考』が世に出てきて、これが受け入れられて、大正11年(1922年)に「上社」「下社」は、丹生川上神社「中社」に包括される形で、「丹生川上神社」とされたのです。

 

その際、「上社」の祭神は、罔象女神から以前と同じ高龗神に再び戻されたといいます。

 

なお、現在は丹生川上神社「上社」「中社」「下社」は、それぞれ独立しています。

 

このとき、我々は「この奥にある本殿」から「天龍」のエナジーを感知しました。

 

「天龍」とは、「青龍」「赤龍」「白龍」「黒龍」「黄龍」「金龍」「銀龍」など、多くの龍神の中でも最高位のものとされています。

 

「天龍」とは、日本においては「天皇の守護神」となる高貴なレベルのもので、今までに出会ったことのない「龍神」でした。

 

さすがに、これには感動しました。

さっそく―――

我々に所持しているブレスレットに、「南無天龍菩薩」として取り込みました。

残念ながら、ごく一部を除いて、このとき同調した「南無天龍菩薩」様は、ほとんど現在では離れています。

 

同調はできても、そう簡単には体内には留まらないし、ブレスレットにもいつまでもそのエナジーを保持することは難しいようです。

 

「拝殿」の右側です。

神職の方がいますが、ここで働いていますので、体軸はしっかりと取れています。

 

「拝殿」の左側です。

龍神の画像が飾られていますが、波動は平凡なものです。

 

拝殿の外に、「樹幹」があります。

御神木の「杉」の「樹幹」です。

 

平安時代祭場跡(復元)」とあります。

 

これによると、

「平成11年の発掘調査で出土したもので、敷石遺構で、12世紀末から13世紀初頭頃に造営されたもので・・・・(ダム建設にともない)遷座されるまでの800年間に渡って造替を繰り返してきた。

この遺構は、それ以前からあったものを利用している・・・」

 

このようなことが書かれています。

 

 

これが、「平安時代祭場跡(復元)」です。

 

水没した湖の下に、この遺構があったのです。

これは「復元」されたものなので、特に何も反応しませんでした。

 

末社 川上社」です。

 

「川上社」とは、天武天皇に関わるもののようです。

詳しくは判りません。

 

これが、「拝殿」から先にある「本殿」です。

 

本来は、旧境内地が大滝ダムの建設に伴い水没することになったために、伊勢神宮の旧社殿の古材を用いて、平成10年に造営されています。

 

また、ダムの建設で水没した旧社殿は、大正6年(1917年)の造築のもで、「飛鳥坐神社(あすかいますじんじゃ)」の本殿となっています。

 

「本殿」横に、このような入口があり―――

左から「愛宕社」「恵比寿社」「水神社」が並んでいます。

 

さらに―――となりに

 

「山の神神社」があります。

 

我々は、この「社」に高波動を感知して、ブレスレットを置きました。

 

この背後の山は、高波動空間です。

人が立ち入ると―――体軸が歪みます。

 

何人たりといえども、立ち入ることを許さず―――の反応を示します。

ただただ、イメージでこの背後の山の中に入ると、ジワーっと何とも言えない感触が伝わってきます。

 

この「馬の像」は生きています。

 

朝廷の奉幣にあたり、旱魃の際の祈雨には黒毛の馬を、長雨の際の止雨には白毛の馬を奉るのを例としたといいます。

この銅像に、ありがたいので手を合わせました。

 

上がモリモリで、その下にタッキーがいます。

二人は過去生で「親子」です。

 

私の講座の参加者には、「過去生で親子」だった方が、不思議とよく集まってきます。

何とも不思議な縁で結ばれているのです。

 

丹生川上神社上社」の全景です。

 

平安時代の「延喜式」(927)では、名神大社という特に霊験あらたかな神社として月次、新嘗祭に際し官幣に預かり雨師社・雨師明神・丹生大明神とも称されました。

そして平安中期以降は朝廷における最高の社格となる「二十二社」の一つに数えられました。

 

丹生川上神社上社は―――

日本遺産「森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしと こころ ~美林連なる造林発祥の地“吉野”~」の構成文化財の1つとして認定されました。(平成28年

この画像からも、背後の山の波動が高いことが判ります。

 

波動が高い地にあるからこそ、「天龍菩薩」様が反応しているのだと思います。感謝感謝

 

この高台の端に、「元宮遥拝所」があります。

ここに

「おおたき龍神湖に 元宮の跡地が沈む」(巫女のお告げ)

とあります。

 

ここから―――

眼下にダム建造によって生まれた湖が見えます。

その下に、「元宮」がありました。

 

このダムで水没した元宮に、「水の靈」である「龍神」が祀られています。

 

我々は、しばらくこの景色の中に溶け込んで、平安期代からさらに遠く、縄文時代にまで思いを巡らせていきました。

 

                つづく

 

            2024年2月27日記

 

 

丹生川上神社下社登拝 その3

《 丹生川上神社下社登拝 その3 》

岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳丹生川上神社上社丹生川上神社下社―御厨子神社

 

石舞台古墳

 

 奈良の飛鳥にある「国営飛鳥歴史公園」に向かいました、

そこには有名な「石舞台古墳」があります。

 

駐車場を降りると、遠くに「国営飛鳥歴史公園」があります。

 

 

300円を支払って、中に入ります。

 

「古墳」は、通常は盛土があって、外部が土で覆われていますが、ここでは盛り土がありません。

そのために、「古墳」を形成する「石」がむき出しになっています。

 

この古墳は、「方墳」というもので、出来た当初は、盛土で覆われていたと思われますが、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状です。

天井の石の上面が広く、大きく平らで、まるで石舞台のように見える形状から、

この古墳は古くから「石舞台」よ呼ばれています。

 

 

古墳の上には、巨大な石が載っています。

 

墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定2,300tです。

 

古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるといいます。

この巨大古墳が誰の墓なのかは不明です。

 

このような巨大な石を持ってきて、「古墳」を造るとう技術が昔の日本人でも行えたということに、少し誇らしいものがあります。

 

石の総重量は推定2,300tということは、天井石でも77tあるので、これを持ち上げるのはどうやって行ったのか―――

 

以前に、本ブログで

「自分の過去生の全ての記憶を覚えている方がいて、その方はインカ時代の子供の頃に、2人の男性が石を空中に持ち挙げて、それをはめ込んでいた時の記憶があった」ことを記しています。

 

イースター島に行ったときに、まだ岩の中に彫られたままで、その島最大の「モアイ像」を見ましたが、

それが立ったままで彫られているではなく、地面に横たわっている状態だったので、どう考えても、そのモアイ像の下の面を削り取ることは不可能に思えました。

 

空中に浮かせる何らかの技術が必要で、いまでも「どうやってモアイ像が移動できたのかが解明されていない」のが現状です。

 

実際に、多数の丸太を地面に置いて運んだ説も、現実では成功しませんでしたし、大勢でロープで引き、歩かせたという説もありましたが、成功しませんでした。

 

ただ、いまだに反重力を使って運んだのではないか―――という説が、最も有力なものとなっています。

 

古代の人は、「反重力を操れる能力があった」と主張する学者も少なくありません。

現在でも、反重力は実験室レベルで成功しているに過ぎないのです。

 

このことから、エジプトの大ピラミッドの建造でも、この「反重力を操れる能力」を用いていたとの説は、今でも有力です。

 

この「石舞台古墳」は、できた当初は盛土があったはずですから、丸太に石を載せて、ロープで多人数で引っ張って、上から載せて、古墳を造ったと通常は考えられますが、

重さが77トンにもなりますと、簡単にはいかないかもしれません。

 

1933(昭和8)年~35(昭和10)年の発掘調査で、方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されています。

そのことから、築造は7世紀初め頃と推定されています。

また、

その巨石は、3キロ離れたところから切り出されたものです。

古墳時代の昔に、どうやって運んだのかを想像するのも面白いものです。

 

ここからが「入口」になります。

 

上に載った巨石が、まさしく「石舞台」を思わせます。

 

このとき、「古墳の中」に入るのに、少し違和感がありました。

我々は、「歓迎されていない」と認識されました。

 

このことは、超過敏なゾネスや皇子も感知してしました。

 

このまま―――この古墳の石室の中に入り込んでは、正しく状況は掴めなくなるかもしれない・・・・・。

 

こんな思いがあり、まず「この中に入ることのお許しを頂く」ことにしました。

 

この画像は、そのお許しを頂いた後のものです。

これで、

我々を歓迎してくれる―――との反応に変わりました。

 

石舞台古墳の俯瞰図(ネットより)

 

 

 

石室の内部です。

人が立って入れるだけの、十分な大きさがあります。

 

石の隙間から、光が漏れています。

ここに―――

出来上がった当初(7世紀)には、石棺があって、人が埋葬されていたものと思われます。

 

誰の墳墓なのか?

これには諸説あるようですが、最も有力なのは蘇我馬子の墓という説です。

 

というには、この近くに蘇我馬子の邸宅があったからです。

もし悪名高い蘇我馬子であれば、盛土がすべてなくなってしまったことも理解できます。

 

蘇我馬子は、聖徳太子亡き後、太子の子供の山背大王子(やましろおおえのおうじ)とその一族を滅ぼしました。

 

そして、天皇家を凌ぐほどの勢力を持つにいたり、645年中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)後の天智天皇(てんじてんのう)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、中国(隋や唐)で政治や文化を学んで帰国した留学生と共に、蘇我氏を滅ぼしました。

 

そして、政治改革に着手したのが、有名な「大化の改新」です。

 

改心の基本方針は―――

1,公地・公民(豪族が支配して所有していた土地・人民)を、国家が直接支配する

2,班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)

戸籍を作り、公地を公民に分け与え、死ぬと国に返還させる

3.国郡制度(全国を国と郡に分ける)

4.租(そ)・調(ちょう)・庸(よう)の税制

   公民に税や労役を負担させるなどを定めた

 

これによって、「律令国家」の基本が定まりました。

 

さて―――

蘇我馬子の孫の蘇我入鹿が殺されて、国家としての体制が整いましたが、これは蘇我馬子であろうと推察されるだけで、確定される資料はありません。

 

我々は、「蘇我馬子の墳墓説」に同意しています。

というのは―――

 

2023年7月に、この近くにある「飛鳥坐神社(あすかいますじんじゃ)」に行きました。

そのとき、初めて聖徳太子の反応を感知しました。

 

今までに多くの神社、仏閣に行きましたが、聖徳太子の反応を感知したのは、初めてでした。

 

そして―――その近くに、「蘇我入鹿首塚」があり、いまだにそこはマイナス波動で、そのエリアに留まるだけで、体軸が歪んでしまう反応がありました。

 

「大化の改心」で殺された蘇我入鹿は、蘇我馬子の孫にあたります。

 

確かに、そこには「蘇我入鹿首塚」として反応しましたので、「首」が「首塚」に埋められてようですが、その首塚と「石舞台古墳」に埋葬された人物の血縁関係をチェックしました。

 

「血縁関係のある人物」と確認されます。

「血」は、その血縁関係のチェックで、正確に判断されるようです。

 

そこで―――1400年から1500年前にセットして、誰れが埋葬されたのかをチェックしますと、「蘇我馬子」との反応が出てきました。

やはり・・・・従来からの指摘通りの反応でした。

 

さて、古墳の内部に入ると―――体軸が歪みます。

なぜなのか?

 

埋葬された「死者」にとっては、その内部は神聖なエリアです。

その神聖なエリアに、何の関係もない人々が入ってくるのですから、嫌がるのは当然かもしれません。

 

それで、この内部空間はマイナス波動になっているのかもしれません。

 

このときの我々も、一様に軸が乱れました。

そこで―――次元を変えました。

 

次のものは、高波動の次元に変えたものです。

9次元の高波動空間になりました。

それで―――

この画像に映っている人物が、一様に波動が整いました。

 

ついでながら、本ブログで書いていますが、私の住む田園調布の隣の駅である「多摩川駅」の駅前には、大きな古墳があります。

 

公園となっていますが、その周囲の建造物は、ほとんどがマイナス波動です。

その古墳の影響です。

 

その周辺の100から200Mの空間の住居は、全てがマイナス波動で覆われています。

 

田園調布は、今でこそ高級住宅地とされていますが、関東大震災のときに、ほとんど無害だったので、セレブが移り住んできて高級住宅地となったのです(私の住むところは高級住宅地ではありません)。

 

関東大震災では、首都東京の大半の建造物は崩れ落ちました。

それを、ほとんど無害で終わらせたことの背景には、この多摩川駅前の古墳が大地を守っているから―――私は思っています。

 

多摩川駅前の古墳には、誰もが自由に出入りできますが、やはり人が入るのを嫌います。

周囲の住宅街にも悪影響をもたらしていますが、大地はしっかりと守っているようです。

 

そのようなことから、この「石舞台古墳」は―――

人が入るのは嫌がりますが、近隣の大地はしっかりと守護してくれているように思います。

 

本来的に、古墳を建造する場所は、「いやしろち」といわれる大地のエナジー波動が高いエリアに設けられます。

 

「けかれち」という大地の波動が悪く、人や犬,家畜などに病気を招くエリアには、まず造ることはありません。

 

古い神社・仏閣あるいは古い教会なども、大地からの高波動が繋がるようなエリアに建てられています。

 

 

この古墳の中を、次元を変えて高波動空間にしたときの「内部」です。

この空間の中にしばらく留まりますと―――

 

体軸が安定して、整ってくるのが判ると思います。

 

              つづく

 

            2024年2月20日記

 

 

丹生川上神社下社登拝 その2

《 丹生川上神社下社登拝 その2 》

岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳丹生川上神社上社丹生川上神社下社―御厨子神社

 

ダンノダイラ磐座

 

 岩尾神社で、巨石群に触れて麓に戻ると、そのまま続いて、「ダンノダイラ」を目指しました。

 

「十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ)」です。

「岩尾神社」から下ってくると、その麓の集落にあります。

 

 

 

ここに「案内標識」があります。

それによると―――

「祭神 神代七代(かみよななよ)の神

     国常立神など 7柱

     地神五代の神

     天照大神など 5柱

十二柱神社は 「出雲ムラ」の村

大昔は、神殿がなく「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700Mの嶺の集落地)を拝んだ云々」

このように書かれています。

 

参考までに―――十二柱の神々とは、

神代七代
・国常立神(くにとこたちのかみ)
・国狭槌神(くにのさづちのかみ)
・豊斟淳神(とよくもぬのかみ)
・泥土煮・沙土煮(うひじに・すひじに)の神
・大戸之道・大苫辺(おおとのじ・おおとまべ)の神
・伊邪諾・伊邪冊(いざなぎ・いざなみ)の神
・面足・惶根(おもたる・かしこね)の神

地神五代
天照大神
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
・彦火日出見尊(ひこほほでみのみこと)
・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

 

十二柱神社の鳥居です。

「十二柱」ですから、十二の神々が祀られています。

 

この地には、相撲発祥(諸説あり)の地として知られています。

というのは、

出雲集落のこの地は、日本初の天覧相撲で勝利した 野見宿禰(のみのすくね)を祖とし、境内に五輪塔があります。

 

この地に、野見宿禰(のみのすくね)が住んでいたという伝承があり、昔は古代の「出雲集落のダンノダイラ」に村人が集まり、相撲を取ったと云われています。

 

また、第25代武烈天皇の「泊瀬列城宮跡」伝承地とされています。

 

大和の古道紀行として

野見宿禰(のみのすくね)信仰として、江戸時代は巡業で通る力士一行は、必ず野見宿禰(のみのすくね)の墓に参拝しました。

明治16年ころまでは、信仰のシンボル的存在として宿禰塚があったようです」

とあります。

 

これが「本殿」です。

 

ここは、創建年は不明ですが、大昔は神殿がなく古代の出雲集落にあった「ダンノダイラ」とよばれる磐座(いわくら)を祀っていた、とされています。

 

武烈天皇泊瀬列城宮伝承地」とあります。

 

武烈天皇は、仁徳天皇の皇統が絶えたことに関わるようで、仁徳天皇が聖帝で、武烈天皇は悪性非道な政治を行ったと日本書紀では強調しているようです。

 

日本書紀』における武烈天皇による悪虐非道の記述は、『古事記』には一切見られないといいます。

日本書紀と比較すると、古事記の記事は極めて簡潔なものになっているようです。

 

 

「泊瀬列城宮伝承地」とあります。

 

悪虐非道の名を遺した武烈天皇ですが、この地に「宮」があり住んでいたようです。

武烈天皇には「子」がなくて、応仁天皇の5世の孫を迎え入れたといいます。

 

 

「泊瀬列城宮」の跡地です。

 

日本書紀』による記述では―――

「長じて罪人を罰し、理非を判定する事をお好みになった。法令にお通じになり、日の暮れるまで政治をお執りになって、世に知られずにいる無実の罪は必ずお見抜きになり、それをおはらしになった。

訴訟の審理はまことに当を得ておられた。」

とある一方で、

「また、しきりに多くの悪行をなさって、一つも善業を行われなかった。さまざな酷刑をご覧にならないことはなく、国内の人民は、みな震え怖れていた。」

ともあります。

思うに―――

 

その当時の民は、武烈天皇を慕うこともなく、多くの方の「呪詛」を受けていたと思われます。

 

そのためなのか―――この地にはマイナス波動が、今でも蠢(うごめ)いています。

画像の後方の「地」には、人が踏み込むと身体が歪みます。

 

不思議なことに、後方にも集落の家屋がありますが、その住人は平常のままでいます。

それは、「十二柱神社」や、これから行くことになる「ダンノダイラ」、あるいは「岩尾神社」の影響が及んでいるのかもしれません。

 

 

「ダンノダイラ」への標識があります。

これより、古代の出雲ムラの集落があったとされる「ダンノダイラ」を目指します。

 

はじめは、緩やかな途を進みます。

 

まだ、この辺りはいいですが、徐々に傾斜がきつくなってきます。

 

かなり傾斜がきつくなり、息が上がってきます。

 

すると―――

ここに「古代の出雲ムラ」とあります。

 

「古代人が畏敬した御神域です。

神の奉斎地です」

このような標識があります。

 

すごい「高波動の地」です。

 

この「地」に長く留まりますと―――身体が溶け込んでいくような感覚に襲われます。

 

この地で、下から上空に向けて画像を撮りました。

高波動です。

 

さらに嶺を進みます。

 

すると―――

「磐座(いわくら)」の標識です。

 

「ダンノダイラ」の東端に、約20メートル立方の巨大な磐座が、下半身を埋もれて鎮坐している。

磐座から南へ30メートル谷越えに、三列の石組み跡がある(昔の拝伏場か)。

 

磐座から東方の峡谷下、約800メートルに乗田神社(ひきたじんじゃ)がある。

 

昔、出雲村の十二柱神社には 本殿がなく、この磐座さんを拝んでいた(地元伝説)」

とあります。

 

これが「磐座(いわくら)」です。

確かに・・・高波動です。

 

この下に住む住民(出雲村)が拝むだけのことはあります。

 

この「磐座(いわくら)」の中に、自分の身体を投入しますと―――

肉体よりも、「霊体」が浄化されます。

 

これからは、さらに一段と「靈主体従」(肉体よりも霊体が優位に働くこと)の世の中になると云われていますので、この「磐座(いわくら)」は多くの方の「霊体」を癒してくれるものと思われます。

 

この御神体の「磐座(いわくら)」は、誰もが踏む込むことを嫌います。

 

ようやく許可を頂いたので、その上に登りました。

すると―――

このように、亀裂が入っていました。

 

その最もパワーがあるエリアに、持参のブレスレットを置いて、「磐座(いわくら)」のパワーを吸引しました。

 

とくに幽体(コーザル体)を整えます。

 

その「磐座(いわくら)」の近くに、別の「磐座」があります。

これも、高波動です。

 

カネゴンが両手を当てて、磐座からパワーを吸引しました。

 

さらに―――

両手だけでなく、自分の額(ひたい)も当てて、全身に磐座のもつパワーを吸引します。

このとき、

「静脈血」の循環促進が見られました。

つまり、「血流」が促進されるような反応が認められます。

 

この磐座も、高いパワーがあります。

 

この磐座からも、持参のブレスレットに高波動を吸引しました。

 

天壇(てんだん)の跡

「ダンノダイラ」中央西寄りにある。

直径20メートルぐらいの土盛りが、5段の円球状になっており、最上段には多くの小石がある。

 

ここは日本式天壇(てんだん)の跡ではないか」

としています。

 

「天壇」とは、中国では天子が帝城の南郊で、冬至の日に、親しく天帝を奉祀した祭壇のことです。

 

つまり―――ここは、古代の祭壇跡だったようです。

 

ここが、天壇(てんだん)の跡です。

 

 

 

我々一行9人は、この「天壇(てんだん)の跡」に立ち、いにしえの古代人に思いを巡らせて、超絶の高波動の「地」に感謝の想いを捧げました。

 

そして―――

一人ずつ「天地結合の印」を結んで、大地(地球)と天(太陽)のエナジーを身体に入れて、体内で結合させます。

 

久々に参加したモリモリも「天地結合の印」を結び、高波動のエナジーを吸引しました。

 

こうして、「岩尾神社」「十二柱神社」「ダンノダイラ」と巡り、次の目的地である「石舞台古墳」を目指しました。

 

            つづく

 

           2024年2月13日記

 

丹生川上神社下社登拝 その1

《 丹生川上神社下社登拝 その1 》

岩尾神社―ダンノダイラ磐座―石舞台古墳丹生川上神社上社丹生川上神社下社―御厨子神社

 

岩尾神社

 

 2022年6月上旬にかけて、前回の「パワースポット探索の会」で行った丹生川上神社「下社」の本殿までの「登拝」ができる日が、年に一度だけあって、

 

事前に申し込みして許可を得た方のみが、それが許されます。

 

この「丹生川上神社下社」では、福井県の「御神島」から繋がる「レイライン」があり、この本殿には、「金龍」「神龍」など、あらゆる「龍神」の反応があり、

 

どうしても、その絶大なパワーの片鱗に触れたいと思い、再び奈良県の「吉野の地」に向かいました。

 

奈良県には、幾多のパワースポットが点在していて、この機会にいくつかのエリアにも訪れました。

 

まず、岩尾神社を訪ねました。

 

「岩尾神社」とあります。

 

「鳥居」には、「結界」はありません。

ですが、その先の参道は、なかなか良好な波動です。

 

期待をもって、この参道に踏み込みます。

 

この参道の入口に「案内板」があります。

そこに―――

「大字吉田の氏神で、神社の名も岩尾(いわお。大きな石の意)と呼ぶように、巨大な二個の自然石をご神体とし、その間に祠を設けて 岩尾大神が祀られています」

このように書かれています。

 

この参道を昇ります。

 

参道の途中に、左右に「狛犬」が置かれていて、これが「結界」となっています。

ここを通過することで、身体が浄化されます。

 

さらに参道を進みます。

参道の傾斜は、かなりきつくなります。

 

そこを昇りきると―――

「拝殿」があります。

 

ここでは「本殿」はなくて、その上にある御神体「岩」が、「本殿」となります。

 

「拝殿」の横に、丸岩があります。

ですが―――

 

これは、それほどのパワーではありません。

 

「拝殿」の後方に、御神体岩があります。

 

ここは、「巨石信仰」の本拠地で、この背後の山の一帯に巨石群あり、ここが聖地のひとつとなっています。

 

この「磐座」(いわくら)は、なかなかの高波動です。

 

拝殿の先に、「神殿」と思われる祠があり、その先に「御神体岩」があります。

 

この左側の「御神体岩」が「男岩」と呼ばれるもので、右側が「女岩」と呼ばれています。

その両者の間が「祭祀場」であったようで、「男岩」には十字のベルトがあります。

 

これが、「御神体岩」を祀る「祠」と思われます。

 

これが「御神体岩」(女岩)です。

ひじょうに大きな「磐座」です。

 

なぜか、「十字のベルト」が岩にあります。

この「磐座」の前には、小さな「祠」があります。

 

我々は、この「御神体岩」に手を当てて、「太陽信仰」(?)と繋がるエナジーを吸引しました。

 

実際に、この「御神体岩」から、「太陽のエナジー」を吸引することができました。

このとき、地面についた両足から、「地球の大地のエナジー」も同時に吸引しています。

 

これだけでは、収まりません。

我々は、この巨大な「御神体岩」の上に回りました。

 

ここの上には―――

やはり、「御神体岩」のエナジーを吸引しやすいところがあり、全員でエナジーを吸引しましたが、どうやら―――

 

ここからは、「太陽」ではなくて、「土星」のエナジーを吸引することになりました。

背後の山には、巨石群が点在していて、その全てを見るのは出来ませんでしたが、多くのスポットに接しました。

 

この「磐座(巨石)」は、「木星エナジー」が反応します。

 

まだまだ、「磐座(巨石)」は点在します。

 

この「磐座(巨石)」には、「火星のエナジー」が反応します。

ということは―――

 

この巨石群には、「太陽系の天体の全て」が反応しているエリアかもしれません。

 

縄文時代(1万2000年前)からの信仰の「聖地」であった、と云われていますが、

確かに、それだけのパワーが反応するエリアであるようです。

 

「神殿」と思われる「祠」が祀っている、右側の「男岩」と左側の「女岩」の上です。

 

巨岩の「女岩」の上に登り、ここに―――

我々が持参したブレスレットに、「太陽のエナジー」を吸引させました。

 

我々は、パワースポットに行く度に「エナジー」を吸引しますので、ブレスレットはその都度 輝きを増していくのが判ります。

 

 

神殿の「祠」の手前が、「男岩」です。

「月のエナジー」が感知されます。

 

「月のエナジー」が感知される「男岩」には、横一文字に溝が彫られています。

どういう意味があるのかは、解りません。

勝手な解釈では、これを「男根」としていたのかもしれません。

 

画像にありませんが、この「男岩」にも「十字のベルト」のようなものがあります。

「太陽祭祀」に関わるものなのか、よく解りません。

 

「男岩」に手を当てて、「月のエナジー」を身体に吸い込んで、陰陽のバランスをとりました。

 

「女岩」から「太陽のエナジー」を吸引していますので、この「男岩」から「月のエナジー」を吸引して、「陰」と「陽」のバランスがとれるようです。

 

こうして、我々は「岩尾神社」から下ってきました。

 

              つづく

 

           2024年2月6日記

 

幕末の天才・小栗上野介を分析する その2

《 幕末の天才・小栗上野介を分析する その2 》

 小栗上野介が世間に注目を浴びたのは、江戸幕府の「金庫番」勘定奉行を務めていた時期があって、

江戸幕府が「恭順」して、日本の統治・政治を朝廷に返す「大政奉還」を決行して、新政府軍とは争いわない決断をしたからで、

 

官軍には「錦の御旗」があり、これに逆らえば「朝敵」となることを恐れて、京都から江戸に攻め上るときにも、途中の「藩」はすべて官軍に従いました。

 

その後、江戸城の「無血開城」を経て、東北から旧幕府軍の残党が残る函館戦争に至るまでに、官軍は会津を蹂躙して、庄内藩を屈服させていきます。

 

その途中の江戸幕府の江戸に迫るときに、小栗上野介が今の群馬県に至る道筋では、悉くしらみつぶしに徹底的に小栗上野介が持ち出したとされる江戸城の「御用金」を探していました。

 

これが、いわば「徳川埋蔵金」伝説です。

この背景を探ります。

 

小栗上野介は、幕府の榎本武揚大鳥圭介、水野忠徳らと、官軍と戦う「徹底抗戦」を主張します。

15代将軍の徳川慶喜は、和睦するか戦うかの両論の構えを取っていました。

 

「箱根の関」と「碓井の関」に目付を派遣して、官軍を迎え撃つ体制の強化を図っています。

実際に、この時点においては「鳥羽・伏見の戦い」に参戦していなかった幕府軍は、多数の予備兵力が温存されています。

 

しかし、徳川慶喜勝海舟の主張する「恭順」の意思を、強く固めていました。

 

小栗上野介は、幕府軍の戦法として―――

「官軍が箱根を降りてきたところで、陸軍で迎撃する。

同時に、榎本武揚率いる幕府軍艦隊を駿河湾に突入させて、艦砲射撃で後続の補給部隊を壊滅させる。

そして、

補給路が断たれた官軍を、挟撃して(挟み撃ちにして)殲滅させる」

というものでした。

 

これを後に伝え聞いた軍事の天才・大村益次郎長州藩の軍事参謀・司馬遼太郎の小説「花神」のモデル)は、

「その策が実行されていたら、今頃我々の首はなかったであろう」

と述べています。

 

小栗上野介は、江戸無血開城に反対する勢力として、上野に籠った「彰義隊」の隊長として、残って戦ってくれないかと打診されていますが、

徳川慶喜薩長と戦う意思が無い以上、無名の士で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶したと伝わります。

 

日本が近代化を進めた結果、わずか30年で世界の列強国の一つにまで駆け上りました。

これは、「世界史の奇跡」と云われましたが、

 

「そうではない。近代化を推し進める土壌が、すでに江戸時代にあったからだ」

と、云われています。

 

どういうことなのか―――

 

日本の近代化が進んだ背景には、日本の識字率の高さがありました。

ようするに、

文字が読み書きできる国民の比率が、先進国の欧米に比べても圧倒的勝っていたからです。

 

江戸時代には、市民は「寺子屋」があり、武士には各藩に知識・教養を教える「藩の塾」が必ずあって、大多数の国民は識字率の高さが

あったのです。

 

日露戦争のときに、ロシアの兵隊は文字が読める者が圧倒的に少なく、武器の扱い方や仕様書などが理解できる者が少なく、

「ロシア兵の砲弾は、日本軍のはるか上空を飛んできた」

と証言されています。

 

また、西欧の国々では「言語統一」がされておりませんでした。

例えば―――

フランスの当時の国民は3000万人ですが、フランス語を理解できるのは300万人のみであった、と云われているのです。

 

それに対して、日本人の識字率は90%を超えています。

その当時のパリの市民の識字率は10%程度でした。

 

日本は「日露戦争」で大国のロシアを破り、歴史上はじめて黄色人種の国家が白人種の国家を破った戦いでしたが、

それまで近隣の国々の艦船を一方的に打ち破り、「無敵艦隊」とされたロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに打ち破った日本海海戦では、

 

世界で初めて、着弾すると四方に飛び散り大きなダメージを上げる砲弾を、日本軍は用いていました。

ロシアの「無敵艦隊」を壊滅させて、日本軍の完全勝利を勝ち取りました。

 

そのときのロシア兵は、艦を操縦する仕様書・取り扱い方法ですら、十分に理解できない兵員が数多くいたといわれています。

 

では、なぜ日本人の「言語統一」が進んでいたのか―――

 

それは、徳川幕府の政策にありました。

「日本国」は東西の距離は3500キロに及び、ヨーロッパの西欧の諸国に当てはめますと、欧州の大半がその中に含まれてしまいます。

 

その欧州の中には27か国があり、すべての言語が異なります。

公用語でも、23言語がありました。

あの英国ですら5つの言語があります。

 

つまり、ヨーロッパの西欧の諸国に中では、国や地方が異なれば、言語が違うので、お互いの意思疎通が簡単には図れない状態であったのです。

スイスなどでは、地方によって今でもドイツ語、イタリア語、英語に、さらにはスイスの言語と、複雑に入り乱れています。

 

共通した言語があることが、文化・文明の発展のためには不可欠なことで、共通の理解を得られるのに、言語の不統一では近代化を図るのに大変な時間がかかるのです。

 

日本では、「日本語のみ」で話をしても、意思の疎通が図れますが、ヨーロッパの西欧の諸国に中では、共通言語がないので、その当時の文化では、おい互いが理解するのに、それが大きな障害になっていたと思われるのです。

 

日本が近代化をするのに「たった30年」ですが、欧米では約100年間もかかっています。

 

日本国が「言語統一」が進んだのは、「参勤交代」の幕府政策にありました。

大名・各藩の妻子は「江戸に住み」(いわば人質)、藩主は1年ごとに自分の領地に戻りました。

 

各藩の子供は江戸で生まれて、江戸で育ちます。

ですから、江戸の文化は各藩の藩主に受け継がれていき、その文化もまた、各藩に浸透していきます。

 

ですから、日本の全国に江戸の文化、江戸言葉がひろまり、通訳なしで日本全国の市民は交流することができる体制が整えられていきました。

 

このような背景があり、日本国という「単一民族国家」が形成されたことが、近代国家日本として、アジアで植民地化されることもなく、2600年に及ぶ皇国を形成していたのです。

 

アジアの国で植民地とならなかった国は、「日本」と「タイ」だけです。

しかし、

「タイ」は西欧列強の緩衝地帯としての役目があり、純粋に単独国家として成立していたのは「日本」だけなのです。

 

幕末当時に来日していた西欧の文化人の誰もが、江戸の文化に触れて、その素晴らしさを讃えています。

 

スウェーデン医師チェンベリーは

「地球上の民族の中で、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである」

と言っています(この言葉には、白人こそ人類のなかで、最も優秀であるとの見識があるようです)。

 

米国の歴史家スーザン・ハンレーは

「1850年の時点で、住む場所を選ばなくてならないのであれば、私が裕福であればイギリス。

労働者階級でれば、日本に住みたいと思う」

と、言っていました。

 

プロシャ商人のリュートルは

「恐らく日本は、天恵を受けた国である。

地上のパラダイスであろう。人間が欲しいと思うものは、何でもこの国に集まっている」

と語っています。

 

つまり「江戸」は、当時の世界から羨ましいと思われるほどの大都市であったのです。

 

人口でも、ロンドン、パリ、ニューヨークに比肩するもので、

データで見ても、当時の日本は「大国」であったのです。

 

1700年当時の経済規模(GDP)で読み解くと―――

 

英国 107億ドル、オランダ 40億ドル、スペイン 75億ドルです。

だが、当時の日本は 154億ドルなのです。

 

この経済的な規模の大きさがあったから、明治維新となって近代化政策をとってきたときに、わずか30年で世界の列強国のひとつとなったのです。

データは欺むかないのです。

 

日本国には、近代化を成し遂げる土壌が十分に備わっていたのです。

明治政府が―――

「文化の遅れた江戸時代から、近代国家に変貌を遂げたのは、我々明治政府の近代化政策のおかげなのである」

と主張しますが、その背景には江戸時代の抜きんでた文化の蓄積があったことは、否めないのです。

 

我々は、歴史学者から歴史を学んでいます。

その歴史学者は、データに基づいて「歴史を読み解く」ことはありません。

 

歴史の教科書だけで学んでいても、正しくデータを参考にして、歴史を読み解かないと、

前回に載せたように、「遣隋使」「遣唐使」で日本は中国からその多くの文化を学んでいた―――という面でしか、歴史を教えられていないのです。

 

実際には、日本が中国に行くよりも、はるかに多くの人員が、中国、朝鮮から日本に来ていたというデータがあることすら、知らないで歴史学者の教える教科書で学んできたのです。

 

さて、本題の小栗上野介の話に戻ります。

 

小栗上野介は、幕府の命を受けて、安政7年(1860年)に、日米修好通商条約批准のために、米韓で渡米して、地球を一周して帰国しました。

そのとき、実際に目にした米国の文明と日本のとの差が、あまりにも大きいことに衝撃を受けました。

 

造船所では、米国は蒸気エンジンで動かしていましたが、日本では水力の小さな力しかなく、大きな船を造ることができなかったのです。

この国力の差を見せつけられて、「我が国にも大きな造船所を造る必要がある」と確信します。

 

この使節団の一行として米国に渡ったときに、小栗上野介は「代表と間違われた」といいます。

使節団の代表は新見でしたが、その目付(監査役)として同行した小栗を、行く先々で取材を受けたといいます。

 

それほど落ち着いた雰囲気で対応していたことが、このことから伺えます。

 

その当時の日本には、大きな造船所はなくて、大型船はすべて外国に発注して、修理も国外で行っていました。

小栗上野介は、この現状を憂いて、日本にも自力で大型船を造り、修理のできる造船所を造らなくてはならないと決意します。

 

勘定奉行に抜擢されていた小栗上野介は、まず大型の造船所を造る計画をしますが、

米国はその当時、南北戦争の真っ最中で、米国には依頼することができません。

それで、フランスに白刃の矢を立てます。

 

その当時、幕府は海軍力の強化のために、44隻の艦船を諸外国から購入していました。

そのために莫大な金額を支払っていました。

 

どうしても日本で艦船の製造が必要と考えて、まず「製鉄所」を造り、そして「造船所」を造る案を幕府に提出しますが、

幕閣から反発を受けます。

 

しかし、14代将軍徳川家茂はこれを承認します。

「造船所」には、多くの鉄が必要で、鉄鉱石は莫大な埋蔵量が見込まれる上野国でみつかり、横須賀製鐵所(後の横須賀海軍工廠)の建設が開始されます。

 

製鉄所の建設を巡っては、相当の負担が見込まれることから、幕府内では反対意見も多くあったのですが、

フランスへの発注が早く、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には、すでに取りやめるには不可能な状態にあったからである、といわれています。

 

この製鉄所の建設によって、多くの小銃、大砲、弾薬などの兵器が造られました。

 

製鉄所と共に、横須賀の「造船所」を造るには、資金がありませんでした。

これを小栗上野介は、妙案を出して解決します。

 

当時、フランスには生糸の生産に必要な「蚕(かいこ)」が病気に罹っていて、まともな生糸が生産できませんでした。

それで、英国から高い金額で輸入していたのです。

 

その英国は、日本から質の高い生糸を輸入していたのです。

それで、フランスは安く日本から生糸を輸入する独占契約をして、これによって日本に大きな資金が入ることになりました。

 

こうして、横須賀造船所を造る資金にも目途が立ったのです。

 

横須賀造船所を造るにあたり、小栗上野介は、

「この施設が、幕府に代わって新しい政府ができたとしても、日本国にとって必ず必要になる」

という信念があったと云われています。

 

その当時、あの勝海舟ですら反対していて、

「いくら造船所を造って軍艦を造ってみても、動かす人がいなければ無理。500年はかかる」

と言っていました。

 

しかし、東洋一の規模を誇る「横須賀造船所」は完成して、

日本は外国に艦船の発注を依頼しなくても、日本独自で艦船を製造できる糸口となったのです。

 

その後、日本は日中戦争を経て、世界屈指の大国ロシアと戦い、無敵艦隊と云われた「バルチック艦隊」を完全に殲滅させました。

 

日本海海戦で、総指揮を執った東郷平八郎

小栗上野介がいたおかげで、日本はロシアに勝つことができた」

と、「横須賀造船所」がいかに日本の将来を担っていたかを語っていました。

 

明治45年には、自宅に小栗上野介の末裔を招き、

日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所、造船所を造った小栗氏のおかげであることが大きい」

と礼を述べて、「仁義禮智信」の描かれた書を贈っています。

 

また、明治政府の中枢であった大隈重信

「明治以降の近代化は、小栗上野介の模倣でしかない」

と語っていました。

 

明治政府の重鎮は、誰もが小栗上野介の存在の大きさを認めていましたが、歴史上からはその名が消されていました。

教科書にも載せられていません。

 

小栗上野介は、若い時期に「山鹿流兵学」を学んでいて、

「幕府の命運には限りがあるとも、日本の命運には限りがない」

と発言していて、

 

後のこのことは、皇統を尊重する思想と、武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのものであり、

小栗上野介に与えた影響は大きいと分析されています。

 

では、なぜ小栗上野介

「歴史上からその名が消された」のか―――

 

ここからが、本ブログの本題に入ります。

 

今、小栗上野介の名前がマスコミの出てきているのは

徳川埋蔵金」伝説によるものです。

 

1867年、大政奉還によって260年以上続いた江戸幕府が終わりを迎えます。

そんな大政奉還の裏で財政難に喘いでいた明治政府は、幕府御用金を血眼で探していました。

 

幕府御用金とは、江戸時代に幕府が財政上の不足を補うため、町人や農民に納めるよう命じた金銀のことです。

 

しかし、江戸城内のどこを探しても幕府御用金は見つからず、金蔵も空でした。

そこで、明治政府は「幕府側の人間が幕府再興を目論み、軍資金をどこかに埋蔵したのではないか」と、捜査を開始します。

 

幕末に、徳川幕府勘定奉行でもあった小栗上野介は、「徳川埋蔵金」を持ち出して、

自分の領地である上野国(今の群馬県)に持ち帰り、幕府軍が新政府に対して再度立ち上がる日が来たら、その軍費の用立てのために隠していた、とされる「徳川埋蔵金」伝説です。

 

これについては、今までにも幾度となくテレビ番組で「特番」が組まれて、重機を用いて掘り返して来ました。

しかし、

ただの一度も「徳川埋蔵金」を探し当てたことはありませんでした。

 

しかし、「もしかしたら・・・・」と思わせるものは、テレビで放映されているのを観ています。

それは、いざという時の軍資金として、千両箱4つを古い坑道に隠したとされるもので、

 

その内の一つを持ち出した人(すでに故人)がいて、その金を福祉施設などに使っていた方が存在していました。

実際に、金銭は所持していたそうで、信憑性が高いものでした。

 

現在は、その坑道は崩れていて、簡単には掘り出せない状態で、これが本当であれば、あと残りが3つあることになります

(今後の報告が待たれます)。

 

小栗上野介の知行地は、上野国権田村(今の群馬県高崎市)です。

ここは、赤城山と共に「徳川埋蔵金」が埋まっている場所として、よく名前が上がっています。

 

その当時、屋敷の引っ越しでは、襖(ふすま)や欄間(らんま)といった建具も運んだという記録もあることから、相当な量だったと思われます。

このことが、

「小栗が御用金を運んでいた」

という噂を呼んだのではないかと思われます。

 

このとき、小栗上野介が立ち寄ったとされる武蔵国の普門院とう寺院の住職に、埋蔵金のありかを伝えたという伝承があり、その住職が殺されています。

 

戊辰戦争の際には、新政府軍が蔵という蔵に立ち入って、捜索したという記録が残っています。

 

徳川埋蔵金」伝説は、その当時からもあったようで、小栗上野介の屋敷を村人などが襲ったという記録もあるようです。

 

2000人及ぶ世直し勢が包囲したことがありましたが、戦術に勝る小栗は、鉄砲などでこれを退治しています。

 

しかし、このことが大きな反響を呼び、小栗上野介は多数の武器を所持していると噂になりました。

だが、当時の村人の記録によると、水路を整備したり、塾を開くなどして静かな生活を送っていて、農兵の訓練をしていた様子は見られていませんでした。

 

小栗上野介勘定奉行を務めているときに、突然役職を罷免されて、無役になったその1か月後には、群馬県の知行地に引きこもるというのは、あまりにも早すぎます。

 

しかし―――いくら探しても、未だに「徳川埋蔵金」は見つかっていません。

 

そこで―――例によって、小栗上野介(上野忠順)の靈を呼び出して、その真意を確かめました。

 

すると、

〇 徳川幕府の「御用金」(埋蔵金)には、手をつけていない。

〇 江戸城の「御用金」(埋蔵金)は、もうそれほど多くの金銀は残っていなかった。

〇 それでも相当量の金銀はあったはずだから、新政府がそのまま押収したはずである

このように反応します。

 

このことが正しいのであれば、新政府軍(薩長軍)が、徳川幕府の「御用金」(埋蔵金)を持ち出している。

そして、その金銀を自分たちで、いいように使っている―――ということになります。

 

その使い道は、英国の人間に、銃器、艦船などの支払いに充てられた、と考えられのです。

 

明治維新とは、江戸幕府の背後にはフランスがいて、

薩摩藩長州藩土佐藩の背後には、英国がいます。

 

いわば、フランス対英国の代理戦争のような実態があります。

英国のグラバーを代表する商社が、薩長藩に近代式の武器を調達して、維新を行なわせました。

 

このときフランスも、薩摩藩をフランスに寄こすなら、幕府に味方すると言っていました。

しかし、日本国の将来を考えたときに、それは絶対にしてはならないとして、この申し出を断っています。

 

そして―――

英国には、徳川幕府に残る御用金の金・銀を与えて、その援助の報酬としていたと思われます。

 

そのために、「徳川埋蔵金」伝説を利用して、すべての首謀者を「小栗上野介」ひとりに仕立て上げて、逮捕した翌日にろくな取り調べもしないうちに、斬首刑にしたのです。

 

こうして、「小栗上野介」ひとりが「徳川埋蔵金」を隠したことになり、

その本人が、申し開きができないうちに消してしまった、と思われます。

 

だから―――小栗上野介の名前を歴史から消し去ったのです。

 

それでも明治の中頃になって、小栗上野介が残したものが、明治政府の中でも高い評価を得ていて、

東郷平八郎大隈重信などが、小栗上野介に敬意を表する言葉となって世の中に伝わっていったのです。

 

我々は、「徳川埋蔵金」伝説でしか、「小栗上野介」の名前を見ませんが、

彼がいたから、日本国が世界の列強の一つに上り詰めたことになり、

日本国が欧米の植民地になることを免れてきた大きな助けとなったことに感謝の意を表したいと思います。合掌

 

                   了

 

            2024年1月30日記