《 幕末の天才・小栗上野介を分析する その2 》
小栗上野介が世間に注目を浴びたのは、江戸幕府の「金庫番」勘定奉行を務めていた時期があって、
江戸幕府が「恭順」して、日本の統治・政治を朝廷に返す「大政奉還」を決行して、新政府軍とは争いわない決断をしたからで、
官軍には「錦の御旗」があり、これに逆らえば「朝敵」となることを恐れて、京都から江戸に攻め上るときにも、途中の「藩」はすべて官軍に従いました。
その後、江戸城の「無血開城」を経て、東北から旧幕府軍の残党が残る函館戦争に至るまでに、官軍は会津を蹂躙して、庄内藩を屈服させていきます。
その途中の江戸幕府の江戸に迫るときに、小栗上野介が今の群馬県に至る道筋では、悉くしらみつぶしに徹底的に小栗上野介が持ち出したとされる江戸城の「御用金」を探していました。
これが、いわば「徳川埋蔵金」伝説です。
この背景を探ります。
小栗上野介は、幕府の榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと、官軍と戦う「徹底抗戦」を主張します。
15代将軍の徳川慶喜は、和睦するか戦うかの両論の構えを取っていました。
「箱根の関」と「碓井の関」に目付を派遣して、官軍を迎え撃つ体制の強化を図っています。
実際に、この時点においては「鳥羽・伏見の戦い」に参戦していなかった幕府軍は、多数の予備兵力が温存されています。
しかし、徳川慶喜は勝海舟の主張する「恭順」の意思を、強く固めていました。
「官軍が箱根を降りてきたところで、陸軍で迎撃する。
同時に、榎本武揚率いる幕府軍艦隊を駿河湾に突入させて、艦砲射撃で後続の補給部隊を壊滅させる。
そして、
補給路が断たれた官軍を、挟撃して(挟み撃ちにして)殲滅させる」
というものでした。
これを後に伝え聞いた軍事の天才・大村益次郎(長州藩の軍事参謀・司馬遼太郎の小説「花神」のモデル)は、
「その策が実行されていたら、今頃我々の首はなかったであろう」
と述べています。
小栗上野介は、江戸無血開城に反対する勢力として、上野に籠った「彰義隊」の隊長として、残って戦ってくれないかと打診されていますが、
「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の士で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶したと伝わります。
日本が近代化を進めた結果、わずか30年で世界の列強国の一つにまで駆け上りました。
これは、「世界史の奇跡」と云われましたが、
「そうではない。近代化を推し進める土壌が、すでに江戸時代にあったからだ」
と、云われています。
どういうことなのか―――
日本の近代化が進んだ背景には、日本の識字率の高さがありました。
ようするに、
文字が読み書きできる国民の比率が、先進国の欧米に比べても圧倒的勝っていたからです。
江戸時代には、市民は「寺子屋」があり、武士には各藩に知識・教養を教える「藩の塾」が必ずあって、大多数の国民は識字率の高さが
あったのです。
日露戦争のときに、ロシアの兵隊は文字が読める者が圧倒的に少なく、武器の扱い方や仕様書などが理解できる者が少なく、
「ロシア兵の砲弾は、日本軍のはるか上空を飛んできた」
と証言されています。
また、西欧の国々では「言語統一」がされておりませんでした。
例えば―――
フランスの当時の国民は3000万人ですが、フランス語を理解できるのは300万人のみであった、と云われているのです。
それに対して、日本人の識字率は90%を超えています。
その当時のパリの市民の識字率は10%程度でした。
日本は「日露戦争」で大国のロシアを破り、歴史上はじめて黄色人種の国家が白人種の国家を破った戦いでしたが、
それまで近隣の国々の艦船を一方的に打ち破り、「無敵艦隊」とされたロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに打ち破った日本海海戦では、
世界で初めて、着弾すると四方に飛び散り大きなダメージを上げる砲弾を、日本軍は用いていました。
ロシアの「無敵艦隊」を壊滅させて、日本軍の完全勝利を勝ち取りました。
そのときのロシア兵は、艦を操縦する仕様書・取り扱い方法ですら、十分に理解できない兵員が数多くいたといわれています。
では、なぜ日本人の「言語統一」が進んでいたのか―――
それは、徳川幕府の政策にありました。
「日本国」は東西の距離は3500キロに及び、ヨーロッパの西欧の諸国に当てはめますと、欧州の大半がその中に含まれてしまいます。
その欧州の中には27か国があり、すべての言語が異なります。
公用語でも、23言語がありました。
あの英国ですら5つの言語があります。
つまり、ヨーロッパの西欧の諸国に中では、国や地方が異なれば、言語が違うので、お互いの意思疎通が簡単には図れない状態であったのです。
スイスなどでは、地方によって今でもドイツ語、イタリア語、英語に、さらにはスイスの言語と、複雑に入り乱れています。
共通した言語があることが、文化・文明の発展のためには不可欠なことで、共通の理解を得られるのに、言語の不統一では近代化を図るのに大変な時間がかかるのです。
日本では、「日本語のみ」で話をしても、意思の疎通が図れますが、ヨーロッパの西欧の諸国に中では、共通言語がないので、その当時の文化では、おい互いが理解するのに、それが大きな障害になっていたと思われるのです。
日本が近代化をするのに「たった30年」ですが、欧米では約100年間もかかっています。
日本国が「言語統一」が進んだのは、「参勤交代」の幕府政策にありました。
大名・各藩の妻子は「江戸に住み」(いわば人質)、藩主は1年ごとに自分の領地に戻りました。
各藩の子供は江戸で生まれて、江戸で育ちます。
ですから、江戸の文化は各藩の藩主に受け継がれていき、その文化もまた、各藩に浸透していきます。
ですから、日本の全国に江戸の文化、江戸言葉がひろまり、通訳なしで日本全国の市民は交流することができる体制が整えられていきました。
このような背景があり、日本国という「単一民族国家」が形成されたことが、近代国家日本として、アジアで植民地化されることもなく、2600年に及ぶ皇国を形成していたのです。
アジアの国で植民地とならなかった国は、「日本」と「タイ」だけです。
しかし、
「タイ」は西欧列強の緩衝地帯としての役目があり、純粋に単独国家として成立していたのは「日本」だけなのです。
幕末当時に来日していた西欧の文化人の誰もが、江戸の文化に触れて、その素晴らしさを讃えています。
スウェーデン医師チェンベリーは
「地球上の民族の中で、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである」
と言っています(この言葉には、白人こそ人類のなかで、最も優秀であるとの見識があるようです)。
米国の歴史家スーザン・ハンレーは
「1850年の時点で、住む場所を選ばなくてならないのであれば、私が裕福であればイギリス。
労働者階級でれば、日本に住みたいと思う」
と、言っていました。
プロシャ商人のリュートルは
「恐らく日本は、天恵を受けた国である。
地上のパラダイスであろう。人間が欲しいと思うものは、何でもこの国に集まっている」
と語っています。
つまり「江戸」は、当時の世界から羨ましいと思われるほどの大都市であったのです。
人口でも、ロンドン、パリ、ニューヨークに比肩するもので、
データで見ても、当時の日本は「大国」であったのです。
1700年当時の経済規模(GDP)で読み解くと―――
英国 107億ドル、オランダ 40億ドル、スペイン 75億ドルです。
だが、当時の日本は 154億ドルなのです。
この経済的な規模の大きさがあったから、明治維新となって近代化政策をとってきたときに、わずか30年で世界の列強国のひとつとなったのです。
データは欺むかないのです。
日本国には、近代化を成し遂げる土壌が十分に備わっていたのです。
明治政府が―――
「文化の遅れた江戸時代から、近代国家に変貌を遂げたのは、我々明治政府の近代化政策のおかげなのである」
と主張しますが、その背景には江戸時代の抜きんでた文化の蓄積があったことは、否めないのです。
我々は、歴史学者から歴史を学んでいます。
その歴史学者は、データに基づいて「歴史を読み解く」ことはありません。
歴史の教科書だけで学んでいても、正しくデータを参考にして、歴史を読み解かないと、
前回に載せたように、「遣隋使」「遣唐使」で日本は中国からその多くの文化を学んでいた―――という面でしか、歴史を教えられていないのです。
実際には、日本が中国に行くよりも、はるかに多くの人員が、中国、朝鮮から日本に来ていたというデータがあることすら、知らないで歴史学者の教える教科書で学んできたのです。
さて、本題の小栗上野介の話に戻ります。
小栗上野介は、幕府の命を受けて、安政7年(1860年)に、日米修好通商条約批准のために、米韓で渡米して、地球を一周して帰国しました。
そのとき、実際に目にした米国の文明と日本のとの差が、あまりにも大きいことに衝撃を受けました。
造船所では、米国は蒸気エンジンで動かしていましたが、日本では水力の小さな力しかなく、大きな船を造ることができなかったのです。
この国力の差を見せつけられて、「我が国にも大きな造船所を造る必要がある」と確信します。
この使節団の一行として米国に渡ったときに、小栗上野介は「代表と間違われた」といいます。
使節団の代表は新見でしたが、その目付(監査役)として同行した小栗を、行く先々で取材を受けたといいます。
それほど落ち着いた雰囲気で対応していたことが、このことから伺えます。
その当時の日本には、大きな造船所はなくて、大型船はすべて外国に発注して、修理も国外で行っていました。
小栗上野介は、この現状を憂いて、日本にも自力で大型船を造り、修理のできる造船所を造らなくてはならないと決意します。
勘定奉行に抜擢されていた小栗上野介は、まず大型の造船所を造る計画をしますが、
米国はその当時、南北戦争の真っ最中で、米国には依頼することができません。
それで、フランスに白刃の矢を立てます。
その当時、幕府は海軍力の強化のために、44隻の艦船を諸外国から購入していました。
そのために莫大な金額を支払っていました。
どうしても日本で艦船の製造が必要と考えて、まず「製鉄所」を造り、そして「造船所」を造る案を幕府に提出しますが、
幕閣から反発を受けます。
しかし、14代将軍徳川家茂はこれを承認します。
「造船所」には、多くの鉄が必要で、鉄鉱石は莫大な埋蔵量が見込まれる上野国でみつかり、横須賀製鐵所(後の横須賀海軍工廠)の建設が開始されます。
製鉄所の建設を巡っては、相当の負担が見込まれることから、幕府内では反対意見も多くあったのですが、
フランスへの発注が早く、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には、すでに取りやめるには不可能な状態にあったからである、といわれています。
この製鉄所の建設によって、多くの小銃、大砲、弾薬などの兵器が造られました。
製鉄所と共に、横須賀の「造船所」を造るには、資金がありませんでした。
これを小栗上野介は、妙案を出して解決します。
当時、フランスには生糸の生産に必要な「蚕(かいこ)」が病気に罹っていて、まともな生糸が生産できませんでした。
それで、英国から高い金額で輸入していたのです。
その英国は、日本から質の高い生糸を輸入していたのです。
それで、フランスは安く日本から生糸を輸入する独占契約をして、これによって日本に大きな資金が入ることになりました。
こうして、横須賀造船所を造る資金にも目途が立ったのです。
横須賀造船所を造るにあたり、小栗上野介は、
「この施設が、幕府に代わって新しい政府ができたとしても、日本国にとって必ず必要になる」
という信念があったと云われています。
その当時、あの勝海舟ですら反対していて、
「いくら造船所を造って軍艦を造ってみても、動かす人がいなければ無理。500年はかかる」
と言っていました。
しかし、東洋一の規模を誇る「横須賀造船所」は完成して、
日本は外国に艦船の発注を依頼しなくても、日本独自で艦船を製造できる糸口となったのです。
その後、日本は日中戦争を経て、世界屈指の大国ロシアと戦い、無敵艦隊と云われた「バルチック艦隊」を完全に殲滅させました。
「小栗上野介がいたおかげで、日本はロシアに勝つことができた」
と、「横須賀造船所」がいかに日本の将来を担っていたかを語っていました。
明治45年には、自宅に小栗上野介の末裔を招き、
「日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所、造船所を造った小栗氏のおかげであることが大きい」
と礼を述べて、「仁義禮智信」の描かれた書を贈っています。
また、明治政府の中枢であった大隈重信は
「明治以降の近代化は、小栗上野介の模倣でしかない」
と語っていました。
明治政府の重鎮は、誰もが小栗上野介の存在の大きさを認めていましたが、歴史上からはその名が消されていました。
教科書にも載せられていません。
「幕府の命運には限りがあるとも、日本の命運には限りがない」
と発言していて、
後のこのことは、皇統を尊重する思想と、武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのものであり、
小栗上野介に与えた影響は大きいと分析されています。
では、なぜ小栗上野介は
「歴史上からその名が消された」のか―――
ここからが、本ブログの本題に入ります。
今、小栗上野介の名前がマスコミの出てきているのは
「徳川埋蔵金」伝説によるものです。
1867年、大政奉還によって260年以上続いた江戸幕府が終わりを迎えます。
そんな大政奉還の裏で財政難に喘いでいた明治政府は、幕府御用金を血眼で探していました。
幕府御用金とは、江戸時代に幕府が財政上の不足を補うため、町人や農民に納めるよう命じた金銀のことです。
しかし、江戸城内のどこを探しても幕府御用金は見つからず、金蔵も空でした。
そこで、明治政府は「幕府側の人間が幕府再興を目論み、軍資金をどこかに埋蔵したのではないか」と、捜査を開始します。
幕末に、徳川幕府の勘定奉行でもあった小栗上野介は、「徳川埋蔵金」を持ち出して、
自分の領地である上野国(今の群馬県)に持ち帰り、幕府軍が新政府に対して再度立ち上がる日が来たら、その軍費の用立てのために隠していた、とされる「徳川埋蔵金」伝説です。
これについては、今までにも幾度となくテレビ番組で「特番」が組まれて、重機を用いて掘り返して来ました。
しかし、
ただの一度も「徳川埋蔵金」を探し当てたことはありませんでした。
しかし、「もしかしたら・・・・」と思わせるものは、テレビで放映されているのを観ています。
それは、いざという時の軍資金として、千両箱4つを古い坑道に隠したとされるもので、
その内の一つを持ち出した人(すでに故人)がいて、その金を福祉施設などに使っていた方が存在していました。
実際に、金銭は所持していたそうで、信憑性が高いものでした。
現在は、その坑道は崩れていて、簡単には掘り出せない状態で、これが本当であれば、あと残りが3つあることになります
(今後の報告が待たれます)。
小栗上野介の知行地は、上野国権田村(今の群馬県高崎市)です。
ここは、赤城山と共に「徳川埋蔵金」が埋まっている場所として、よく名前が上がっています。
その当時、屋敷の引っ越しでは、襖(ふすま)や欄間(らんま)といった建具も運んだという記録もあることから、相当な量だったと思われます。
このことが、
「小栗が御用金を運んでいた」
という噂を呼んだのではないかと思われます。
このとき、小栗上野介が立ち寄ったとされる武蔵国の普門院とう寺院の住職に、埋蔵金のありかを伝えたという伝承があり、その住職が殺されています。
戊辰戦争の際には、新政府軍が蔵という蔵に立ち入って、捜索したという記録が残っています。
「徳川埋蔵金」伝説は、その当時からもあったようで、小栗上野介の屋敷を村人などが襲ったという記録もあるようです。
2000人及ぶ世直し勢が包囲したことがありましたが、戦術に勝る小栗は、鉄砲などでこれを退治しています。
しかし、このことが大きな反響を呼び、小栗上野介は多数の武器を所持していると噂になりました。
だが、当時の村人の記録によると、水路を整備したり、塾を開くなどして静かな生活を送っていて、農兵の訓練をしていた様子は見られていませんでした。
小栗上野介が勘定奉行を務めているときに、突然役職を罷免されて、無役になったその1か月後には、群馬県の知行地に引きこもるというのは、あまりにも早すぎます。
しかし―――いくら探しても、未だに「徳川埋蔵金」は見つかっていません。
そこで―――例によって、小栗上野介(上野忠順)の靈を呼び出して、その真意を確かめました。
すると、
〇 江戸城の「御用金」(埋蔵金)は、もうそれほど多くの金銀は残っていなかった。
〇 それでも相当量の金銀はあったはずだから、新政府がそのまま押収したはずである
このように反応します。
このことが正しいのであれば、新政府軍(薩長軍)が、徳川幕府の「御用金」(埋蔵金)を持ち出している。
そして、その金銀を自分たちで、いいように使っている―――ということになります。
その使い道は、英国の人間に、銃器、艦船などの支払いに充てられた、と考えられのです。
いわば、フランス対英国の代理戦争のような実態があります。
英国のグラバーを代表する商社が、薩長藩に近代式の武器を調達して、維新を行なわせました。
このときフランスも、薩摩藩をフランスに寄こすなら、幕府に味方すると言っていました。
しかし、日本国の将来を考えたときに、それは絶対にしてはならないとして、この申し出を断っています。
そして―――
英国には、徳川幕府に残る御用金の金・銀を与えて、その援助の報酬としていたと思われます。
そのために、「徳川埋蔵金」伝説を利用して、すべての首謀者を「小栗上野介」ひとりに仕立て上げて、逮捕した翌日にろくな取り調べもしないうちに、斬首刑にしたのです。
こうして、「小栗上野介」ひとりが「徳川埋蔵金」を隠したことになり、
その本人が、申し開きができないうちに消してしまった、と思われます。
だから―――小栗上野介の名前を歴史から消し去ったのです。
それでも明治の中頃になって、小栗上野介が残したものが、明治政府の中でも高い評価を得ていて、
東郷平八郎や大隈重信などが、小栗上野介に敬意を表する言葉となって世の中に伝わっていったのです。
我々は、「徳川埋蔵金」伝説でしか、「小栗上野介」の名前を見ませんが、
彼がいたから、日本国が世界の列強の一つに上り詰めたことになり、
日本国が欧米の植民地になることを免れてきた大きな助けとなったことに感謝の意を表したいと思います。合掌
了
2024年1月30日記