生命体エナジー浄化の会ブログ

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歴史上の人物の裏を考える その1 上杉謙信の正体

≪ 歴史上の人物の裏を考える その1 ≫
上杉謙信の正体
 
「写真分析から歴史を考える」シリーズで、「フルベッキ写真」を通して 書く人物像に焦点を当ててきました。
 
今回から、「写真」ではなく、「歴史上の人物名」から反応する「裏」の実体に焦点を当てていきたいと思います。
 
すでに解説していますが―――今では次のことを、明確に「確信できる事象」として捉えることができるように思われます。
 
  • 人の氏名から引き出した人物には、そのヒトの生死に関わらず、そのヒトの霊体(エナジー体)が写し込まれる。
ということです。
 
つまり―――
  • そのヒト固有の氏名には、死んでいても生きていても、その人物の霊体(エナジー体)は、ヒトの固有の『波動』として捉えることができる。
     
  • その人物の霊体に直接アプローチすると、虚言が介在しないように思われる(本人の意思にかかわらず、真実を捉えることができる―――ようである)。
     
  • 肉体レベル(脳)でのアプローチでは、限界があるのではないかと思われることでも―――例えば、脳波で探る一般的な機器(発見機など)では正確に捉えられなくても、
     
    霊体(エネルギー体)レベルに踏み込んでいくと、本質に迫れるように思われます。 このことは、きわめて大きな意味を持つ―――と、私は考えています。
 
 ここで明確にしておきたいことは、
□ 霊体(エナジー体)の転写は、『時間』『空間』にとらわれない。
 ということです。
 
  • 現代の量子物理学は、同時に同じ人物が、『時間』『空間』を越えて、存在し得るということを、論理的に証明しているのです。
 
解りやすく言えば―――我われが当たり前のように行なっている『霊体(エナジー体)の転写』は、この3次元での本体(その人の肉体)がどこにいようが、同時に他の場所にも霊体(エナジー体)は存在する―――ことが可能であり、
 
  • 転写された物体に存在する霊体(エナジー体)を修正することで、その人の本体(肉体)も同時に修正される―――ということなのです。
     
     さらに言えば、
    ● 過去の人物であっても、現在の物体にその霊体(エナジー体)を転写することで、その過去の人物の思考の内奥にアプローチすることは、可能である。 
     ということです。
     
    今回からは、この写真でなくて、歴史上の人物の「氏名」に焦点を当てていきたいと思います。
     
    この原文は、「日本ホリスティックコンディショニング協会」の会員専用ページにおいて 私が掲載したものに基づいています(今は廃止されています)。
     
    その人物の霊体を転写して、その人物になりきってしまうと、内面の感情エナジーまで転写してしまうように反応します。
     
    例えば―――
     
    足利幕府の最後の将軍であった「足利義明」がいます。
     
    義明は、織田信長が天下統一を果たすために「征夷大将軍」との肩がきを利用されました。
     
    利用されたと気付いてから、信長に対して裏で敵対行動をとっていました。
    この信長を裏切って 信長を滅ぼしたのが明智光秀です。
     
    NHKの歴史に関わる放送では、その信長を滅ぼした裏の真犯人は「謎」とされていて、明智光秀が信長を裏切って 「本能寺の変」の凶行に走った裏には、それを煽動した真犯人がいるはず・・・・との見解で、新たな史実が浮かびがってきた、としています。
     
    天正10年(1582年)信長の居城「安土城」に天皇からの勅使が訪れます。
    「関白」「太政大臣」「征夷大将軍」のどれでも好きな称号を授ける―――というのです。
     
    日本の統治者(皇帝)たらんとする信長は、この申し出を先延ばしにしました。
     
    「後日、ご連絡も申し上げる」というのです。
    朝廷は動揺します。
     
    それ以上に動揺したのは、足利義明です。
    現在の「征夷大将軍」の肩書だけが、この男に残された最後の砦でした。
     
    明智光秀は、この義明の密命を受けて、信長を討ったというのが、残された書状などの分析から、解明されたというのです。
     
    足利義明を呼び出して、このことを問いただしました。
     
    「あなたは、織田信長を失脚させるために、様々な工作をしていたということですが、具体的にどのようなことをしていたのですか?」
     
    「私は 武田信玄に京に上って、織田信長を討てと促してきた。
    また、越後の上杉謙信にも信長を討てと 促してきた。
     
    さらに 石山本願寺にも、毛利にも、また四国の長宗我部元親にも 信長が絶対的な狭地に追い込まれた時の浅井長政朝倉義景にも、信長を討てと発信していた。」
     
    しかし、信長に仕える前は足利義明の臣下であり、それから信長の臣下となっていた明智光秀には、
     
    「信長を討て との指令はだしていない・・・・」と応えています。
     
    つまり、信長襲撃の裏の真犯人ではないことになります。
     
    この「本能寺の変」に関わる真犯人については、次回に霊体からの反応に基づいて、掲載したいと思います。
     
     
    さて―――
     
    ● 呼び出した人物の感情や思考などは、ベールで覆い隠すことができない。真実が伝わってくる―――と、言い切ってしまうことに、それほどの抵抗感はありません。
     
    そして、
    このことは、その人の生死を問わずに行なうことができるようなのです。
     
    つまり―――
     
    ● 過去の人物を転写して、歴史的な解釈とは相違する『虚言(ウソ)のない真実』を導き出すことは、可能である。
     
    と、このように思われます。
     
    さて、
    歴史上の人物において、我われは『伝記小説』やその人物に関わる『文献』などに影響されて、固定観念でそのような人物を捉えがちです。
     
    だが、「もしかしたら・・・・・実態は違うのではないか・・・」と思われることが、実に多いように思われるのです。
     
    「事実は、小説よりも奇なり」とは、よく言ったものです。
     
    例えば―――
    2009年のNHK大河ドラマに、上杉謙信が登場しましたが、
     
    ● 謙信は、実は女性であった。
    という説が、昔からあります。
     
    その根拠は、
  • 謙信は、毎月1回体調を崩して閉じこもっていた。これは、女性特有の生理があったためである―――というものです。
     
  • その他にも、残された女性的な筆跡や衣装など、女性説を裏付ける資料は少なくないのです。
     
  • それに、女性が国の主(あるじ)となる例は、他にもあって、決して珍しくなかったようです。
     
    だが、徳川の時代になると女性城主は認められないことから、改易の口実となることを恐れた上杉家は、謙信女性説を裏付ける全ての資料を処分した、とも言われています。
     
    本当だろうか?
     
    試しに、『越後の上杉謙信』で呼び出して、日本史上において空前の大合戦といわれた第4次の川中島の戦い川中島では、12年間に及ぶ計5回の戦をしている)の『時』に定めて転写してみました。
     
    すると―――
     
  • 守護神である闘いの神様「毘沙門天」が降臨している。降臨しているので、完璧な体軸を示す。
     
  • だが、休息時で診ると、身体は『水脈』の影響を受けて、ブレている。
     
  • 胸椎10番右に、慢性的な変位があり、これが右の胸鎖乳突筋に反射して、複雑な反応を示している。
     
ここは―――
 ホモやレズの傾向を示す部位でもある。だが、違和感が認められるのでチェックすると
 
  • 謙信には、男性器が認められず、卵巣の存在は認められる(子宮は不鮮明な反応である)。その卵巣も、右側は活動しておらず、左卵巣のみが機能している。
 
謙信は、「生涯不犯」を誓い、闘神の毘沙門天に帰依した武将です。
 
そのためなのか、義を貫いて、無益な戦いは一切せず、生涯を通じて一度も負けなかった稀有の武将の一人でもあります。
 
その謙信が、不倶戴天の敵とも謂われる『武田信玄』と、川中島で幾度も死闘を演じています。
 
日本の合戦史上最大の死傷者を出した第4次川中島の戦いのときは、長く対峙したまま動かなかった信玄が、夜陰に乗じて密かに兵を動かした―――
 
後に、頼山陽が「鞭声粛々夜河を渡る」との、有名な漢詩を残しているときです。
 
謙信はそれを察知して、史上空前の大激戦となったのです。
 
このときの武田信玄にも、毘沙門天が降臨しています。信玄もまた、毘沙門天に帰依した武将の一人であったからだろうか・・・・。
 
時代文献(逸話集など)や小説などでは、意を決した謙信自らが、信玄の本陣に攻め込んで、一太刀浴びせたクライマックスが描かれています。
 
このときの銅像なども在って、このことは広く知れ渡った話です。
 
この点について両者の霊体(エネルギー体)にアプローチしたが、それを肯定する反応は得られませんでした。やはり・・・後代の作り話のようです。
 
謙信が、不倶戴天の敵とも謂われた信玄に「敵に塩を送る」話は、外国の教科書にも紹介されましたが、武田信玄が京に上洛する途上で引き返し、死んだと報告を受けたとき、謙信は食事中であったといいます。
 
静かに箸を置くと、
「・・・そうか・・・、惜しい男を失ってしまった・・・」
 と黙想したと伝えられています。
 
このとき、
「今こそ、甲斐に攻め込む絶好のときです・・・」
 と臣下が進言すると
 
「勝頼(信玄の息子)は、父が亡くなって悲嘆にくれていよう。そんなときに攻め入って、何になる(義に反する)」
と、臣下を諌めたとも、伝えられています。
 
これについては信玄もまた、生前に息子の勝頼に―――
 
「わしに何かあったら・・・越後の謙信を頼れ・・・」
 
と、言い残していたと云われているのです。
 
このように、両者ともお互いを認め合っていたのですが、霊線をチェックすると
 
  • 霊線が、かなりの本数で繋がっており、過去生での縁が深い『ソウルメイト』の反応を示します。
 
つまり―――両者は魂のレベルで互いを認識して、互いの心の内面においては通じ合っていた―――と私には思われるのです。
 
ついに両者は雌雄を決することなく、そして、万全の状態で、織田信長を討つべく上洛する寸前―――信玄はその途上で、謙信はその軍を動かす直前で亡くなっています。
 
織田信長―――信玄と謙信の実力を知るが故に、彼は両者を心底恐れていたと云われますが、時代の波が彼に味方したのです。
 
あと数ヶ月―――いずれか一人でも生きていたら、信長の運命も変わっていたかもしれなかったのです。
 
信長も武将であるから、闘神毘沙門天を奉じていたと伝えられていますが、信長には毘沙門天は降臨しないようです。
 
  • 今川義元との桶狭間の戦いのトキにセットしてみると、信長には『聖天』のようなエネルギー体が降臨している。
     
    信長にとって、桶狭間は絶体絶命の状況であったが、奇跡的な勝利を得た背景に、紀伊国屋文左衛門岩崎弥太郎などの守護神に近い霊体が入っていたようなのです。
     
    容量の関係で 「つづき」ます。