生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

ジャンヌ・ダルクの謎を追う その2

≪ ジャンヌ・ダルクの謎を追う その2 ≫

容量の関係で、前回の「つづき」です。

以下―――ウキペディアからの引用を続けます。

ジャンヌの軍事指揮能力

ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。

ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、さらにこの作戦は大失敗に終わっていた。

ジャンヌのオルレアン到着後の142954日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外のサン・ルー要塞を攻略し、55日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていたサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。

指揮官のド・デュノワは、これ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。

結局 ジャンヌはある一人の大尉の手引きで、この市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。

ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにも関わらず戦列に復帰して、最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを「戦の英雄」だと認識していった。

オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。イングランド軍はパリの再占領かノルマンディ攻略を目指していた。

予想以上の勝利をあげた直後に、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。

イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、612日にジャルジョー、615日にマン=シュール=ロワール、617日にボージャンシーと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。

ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。

そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるド・デュノワたちも、ジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。

ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して、自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた。

このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。

ランスへの進軍路にあった各都市も、抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。

シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に 戦わずして降伏した。

ランスは716日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。1429年のことである。
イメージ 1

 
フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは98日である。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。
 
10月にジャンヌは、サン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦 で軍に復帰した。続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦 にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。
 
そして、1229日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。

フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数カ月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。

休戦協定が失効すると、ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍としてコンピエーニュへ向かった。

1430523日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いで ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となってしまう。

当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。

多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引渡しに介入せず、見殺しにしたことを非難している。

最終的にイングランドが、ブルゴーニュ公フィリップ3世に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。

異端審問

異端審問裁判期間にジャンヌが監禁されていたルーアン城の塔。後に「ジャンヌ・ダルクの塔」として知られるようになった。
 
ジャンヌの異端審問は政治的思惑を背景としていた。
ジャンヌは シャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと、激しく糾弾していたのである。

そして143119日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始された。しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。

審理を主導した司教コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。

ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人も、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった。

物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。

この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。

もっとも有名なものはジャンヌが「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と訊かれたときに「恩寵を受けていないのであれば、神が私を無視しておられるのでしょう。

恩寵を受けているのであれば、神が私を守ってくださっているのでしょう」と答えた問答である。

この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽(かんせい)だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。

ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。

公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」と後になって証言している。

20世紀の劇作家ジョージ・バーナードショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた。

さらに数名の法廷関係者が後に、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。

異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。

しかしながらイングランドは、ジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。

ジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。

異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた。

処刑

当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛した後に、再び異端の罪を犯したときだけだった。

ジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた。

このような性的暴行から身を守るためと、ドレスが盗まれて他に着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった。

 ジーヌ ペルヌー(著)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(2002年)の中の証言によれば、女装に戻ったジャンヌは、兵士に輪姦されて泣いていたといわれている。

古代ローマ以来の伝統で、処女を処刑することはためらわれたため、ジャンヌの処女は奪われた可能性が高い。

ジャンヌは 戦場にいたときも監禁されていたときも、髪を短く整えていた。
しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って、男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯した として死刑判決を受けた。

1431530日に執行されたジャンヌの火刑の目撃証言が残っている。

場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛り付けられたジャンヌは、立会人の二人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。

一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。

そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが、実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。

さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。

こうして―――
フランス史に残る稀代の英雄ジャンヌ・ダルクは,火刑によって、その19歳の命を絶たれたことになっています。
イメージ 2
ヘルマン・スティルケが1843年に描いた『火刑台のジャンヌ・ダルク』(エルミタージュ美術館)。 
 
容量の関係で、次号に「つづく」

                                   2016年6月20日記