生命体エナジー浄化の会ブログ

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ジャンウダルクの謎を追う その3

≪ ジャンヌ・ダルクの謎を追う その3 ≫

 さて、火刑に処さられたジャンヌ・ダルクには、本当にその時に刑に処せられたのか―――という疑問の声が上がっていました。

というのは、その当時には 「写真」もなければ「人物画」もなければ、「新聞」もありません。

本人と会ったことのない人にとっては、彼女の「顔」も知られていないのです。つまり―――火刑に処せられたのが、ジャンヌ・ダルク本人なのかを確認できないのです。

それを見越してか―――
以下―――ウキペディアからの引用を続けます。

偽造されたジャンヌの遺骨

1867年にパリの薬局で「オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクの火刑跡から採取された」という説明書きがある瓶が発見された。

この瓶の中には黒焦げの人間の肋骨、炭化した木材、麻布の切れ端、猫の大腿骨(魔女を火刑に処するときに火中に放り込まれた黒猫の骨だとされた)が入っていた。

これらは現在シノンの博物館に所蔵されている。2006年に古病理学者で法医学者がこの遺物を調査した。

そして、放射線炭素年代測定やさまざまな分光分析が実施された結果、紀元前6世紀から紀元前3世紀のエジプトのミイラであることが判明した。

中世ではミイラが薬の原料とされており、この遺物ももともとは薬瓶だったものが、フランスのナショナリズムが高揚した時期に偽造されたものだと考えられている。

20061217日に公表された暫定的な報告書では、ジャンヌのものとは考えられないと結論づけられている。

ジャンヌの死後

百年戦争はジャンヌの死後も22年にわたって続いた。

トロワ条約に則ってフランス王位を主張するイングランド王ヘンリー6世が、10歳の誕生日である143112月にフランス王としての戴冠式をパリで挙行してはいたが、フランス王シャルル7世はフランス王位の正当性を保ち続けることに成功していた。

イングランド軍が、1429年のパテーの戦いで失った軍事的主導権と、長弓部隊を未だ再編成できていなかった1435年に、フランス、イングランドブルゴーニュの三カ国会議が開かれた。


この会議で、それまでのイングランドブルゴーニュとの同盟関係は解消され、逆にフランスとブルゴーニュの関係が接近することとなった。

シャルル7世との百年戦争を主導し、ヘンリー6世の摂政としてイングランドの国政も担当していたベッドフォード公ジョンが14359月に死去したが、

10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。 そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力百年戦争終結の最大の要因となった。

復権裁判

百年戦争終結後に、ジャンヌの復権裁判が開かれた。

ローマ教皇カリストウス3世も公式に承認したこの復権裁判の目的は、ジャンヌに対する有罪宣告と陪審評決が、教会法の観点から 正当なものだったがどうかを明らかにすることだった。

ジャンヌの復権裁判の開廷が公式に宣言されたのは145511月である。

14566月にブレアルは、ジャンヌが殉教者であり、異端審問を主導したピエール・コーションが、無実の女性に異端の罪を被せたとする結果をまとめ上げた。

ジャンヌの直接の処刑の原因となった男装については、女性の服装に関する教会法の観点から有効とされていた。

しかしながら、有罪を宣告される過程においてジャンヌが拘束されていたことが教義上の例外に当たるとして、復権裁判では異端審問での有罪判決が覆されている。

そして復権裁判法廷は、145677日にジャンヌの無罪を宣告した。

列聖

ジャンヌは16世紀にフランスのカトリック同盟の象徴となっていった。

1849年にオルレアン大司教が、ジャンヌ・ダルクを大いに賞賛する演説を行い、フランスのみならずイングランドの耳目も集めた。

ジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909418日にローマ教皇ピウス10世からの、ジャンヌ・ダルク列福となって結実した。

さらに1920516日には、ローマ教皇ベネデョクト15世がジャンヌを列聖した。そしてジャンヌはローマ・カトリック教会におけるもっとも有名な聖人の一人となっていった。

後世への影響と評価

ジャンヌは文盲だったため、書簡はすべて口述筆記させたものだった。現存する3通のジャンヌの書簡にはジャンヌの署名が入っている。
 
ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。

ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した 5冊の年代記装飾写本が、19世紀に古文書の中から発見された。

この発見から間もなく歴史家たちの手によって、フランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。

当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の3通の書簡からは「ジャンヌ (Jehanne)」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった。
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これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている。

辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは、10代にして途方もない名声を手にいれた。

フランスとイングランドの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていたサリカ法の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。

百年戦争は、王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしジャンヌは、この両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。

あるとき、ジャンヌ・ダルクに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある。

「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だ」としている。

その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。

悪魔崇拝神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。

実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。

ジャンヌは、フランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、ときには言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を、剣の腹で殴りつけたこともあった。

しかし、ジャンヌが受けた重要な支援の中には、女性から受けたものもある。
シャルル7世の義母は、ジャンヌの処女性を支持し、ジャンヌがオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。

そしてジャンヌと敵対していたブルゴーニュ公フィリップ2世の妹で、公妃アンヌも、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった。

これにより 異端審問では、ジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。

結果的にはこのことが、後にジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。

自由主義者たちは、ジャンヌが下層階級の出身であることの重要性を力説した。
政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、出版する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの殉教をモチーフとした三色旗が使用されている。

フランス海軍にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が2013年現在までに3隻存在している。


以上ここまでは―――ウキペディアからの引用です。
 
こうして―――ジャンヌ・ダルクは フランスの英雄として、19歳で火刑に処されたことで、現在では聖女の一人として、讃えられ続けています。
 
英雄は19歳で死したことで、一段とその名声が 後世に語り継がれてきているのです。
 
ところが――――実は、ジャンヌ・ダルクは 19歳で火刑に処せられていなかった、とされる話があります。
 
このことが、事実と認定されてしまうと、国家としての問題も表出してしまうのです。
 
普仏戦争ふふつせんそう)1870年から1871年まで続いたフランスとプロイセン王国との戦争で、ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ばれています。
 
この戦争でフランスはドイツに敗北し、またフランスは、ドイツ、イタリアなどの同盟国と対立するために、イギリス、ロシアとの三国協商(1907年)を結ぶなどの苦しい時代に、カトリック教会に英雄を求めたと言われています。
 
その1907年に、ジャンヌ・ダルクを「聖人」にする運動が推進されていました。
 
ジャンヌ・ダルクは、フランス国家のために闘い、「殉教」しています。
もし―――ジャンヌ・ダルクが殉教していないなら、国民の士気は下がってしまいます。
 
どうしても―――フランスは、ジャンヌ・ダルクという英雄が、国家存亡の危機を救い、国家のために殉教した―――という史実が欲しかったのです。
 
だから―――ジャンヌ・ダルクは殉教して、火刑になっておらず、その生涯を送った・・・・ということは、国家の士気低下に関わる大きな問題となってしまうのです。
 
記録によると、火刑となった5年後に、ジャンヌ・ダルクはオレルアンにいたというのです。
 
その文書は公式の資料室に残っているといいます。
ジャンヌ・ダルクには、「ラ・ピセル」という別名もありました(乙女という意味)。
 
フレールド・ジャンヌ・ラ・ピセルという名で、火刑で殉教した5年後の1436年に、兄は妹のジャンヌに会ったと言っているのです。
 
ジャンヌの姉は、子供のころに亡くなっているので、兄が会ったのはジャンヌ以外にはいないのです。

だが、1907年に書かれた資料には、「フル・ジャンヌ・ラ・ピセル(故ジャンヌ・ピセル)」となっているのです。
 
ジャンヌの生涯を隠そうとした人物がいるのです。
 
ジャンヌ・ダルクには、今までにも様々な調査の手が伸びています。
中世の書類のコピーには、領主ロベール・ザルモワースと その妻「ジャンヌ・ラピセルド・フランス」となっています。
 
ラピセルド・フランスは、ジャンヌ・ダルクの公式名です。
夫とジョルニー城で暮らしていたようなのです。
 
ジャンヌの生まれ故郷から、約80キロの距離です。
はたして・・・・このことは・・・・真実なのでしょうか?
 
                               つづく
                              2016年6月27日記