≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀2(つづき) ≫
容量が超えましたので、その「つづき」です。
そこで、内戦が起きます。戊辰戦争です。
薩摩と長州を中心に作られた明治新政府を相手に、不満を持つ旧幕府軍が戦いました。
多くの悲劇を生んだ明治初期の内戦です。
戊辰戦争は、まず新政府軍 V.S 幕府軍の主導権争いの京都「鳥羽・伏見の戦い」に始まり、次は「東北戦争」、さらに北上して、旧幕府軍の最後の抵抗となる「箱館戦争」で幕を下ろしました。
当初、京都の戦いでは両軍の兵力は、新政府軍の約5000人に対し、 旧幕府軍が15000人。旧幕府軍側が3倍ほど数で上回っていました。
しかし、朝廷が薩長軍を官軍と認定し、錦の御旗(みはた)の使用許可を与えると形勢が逆転します。
サムライ魂が宿る日本人には、天皇一系による「日の本の国」という伝統と文化があります。
徳川慶喜が軍を捨てて 京都から江戸に逃走したことも重なり、新政府軍の圧勝に終わります。
原因は、幕府側の背後についていた「フランス」です。
このフランスが、幕府軍を手助けするから、「薩摩をよこせ!」と申し出たことにあります。
官軍よりも、明らかに幕府軍(徳川家)の方が、数の上では圧倒的に勝っていました。
しかも、九州の一部をフランス領にされてしまいますと、その後は取り返しのない事態に陥っていたと思われます。
あるいは、「北海道をよこせ」と言われた、との説もあります。
ともかく―――
この両者は、袖を合わせることは、まったくありませんでした。
これは日米修好通商条約批准のために米国に渡って、地球を一周して戻りました。
そのために、当時としては 世界の多くの国々を見知っている知識人でもありました。
そのため小栗上野介は、討幕を画策していた勤王の志士たちから、怪物のように恐れられた人物です。
これについては、後日談があります。
この時、小栗上野介は
「新政府軍(討幕軍)が箱根関内に入ったところを、陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて、後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する」という挟撃策を提案したとされています。
後にこの策を聞いた大村益次郎は「その策が実行されていたら、今頃我々の首はなかったであろう」と恐れた、と伝わっています。
あまりにも面白すぎる小説でした。
長州藩で、数々の奇跡的な活躍を演じた騎兵隊の高杉晋作が、若くして亡くなるときに、枕元に集まった騎兵隊の幹部が、「(高杉晋作の)後は誰がよいか?」と尋ねるとーーー「大村・・・」と語ったと伝わっています。
それほどの軍事の天才である 大村益次郎を震え上がらせる策を主張した小栗上野介でしたが、
ですが、
さてーーー
明治政府が安定してきて、様々な角度から歴史が見直されますと、小栗上野介の評価はグンと上昇します。
司馬遼太郎は、「明治の父」とまで記していました。
小栗上野介は後世の日本に、大きな財産を残しています。
それは横須賀の造船所です。
彼はその建設を立案し、実行に移した人物として、後世に高く評価されました。
「日本海軍が勝てたのは横須賀造船所のおかげである」
と小栗上野介の遺族を自宅に招き、礼を述べたと伝わっています。
また、
後年、日々女性が、添い寝しない日はないとまで 側近に暴露された徳川慶喜でしたが、
日本国の将来に、取り返しのつかない過誤を残すことなく江戸に逃げ帰ったことは、「勇断であった」と考えられて、明治政府から認められて子爵に列したといわれています。
フランスに日本の一部でも押さえられていたら・・・・後世に大変な過誤を残すことになりました。
この小栗上野介には、まだ我々には知らされていない秘密がありました。
つづく
2019年5月3日記