生命体エナジー浄化の会ブログ

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ジャンヌ・ダルクの謎を追う

≪ ジャンヌ・ダルクの謎を追う ≫
 
 ジャンヌ・ダルクとは、誰もが知っているフランスの英雄です。
 
今回は、その「聖女ジャンヌ・ダルク」に焦点を当てようと思います。
というのは――――
 
本当にジャンヌ・ダルクは、「火刑に処せられたのか?」という謎に迫りたいからです。
 
簡単な概要は―――
 
フランス東部で 農夫の娘として生まれ、神の啓示を受けて、フランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争に参戦して勝利を収め、後のフランス国王シャルル7世の戴冠に貢献しました。
 
その後ジャンヌは、ブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡されたのです。
 
イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に「異端」の判決を受けたジャンヌは、火刑に処せられてその生涯を閉じます。19歳でした。
 
ジャンヌ・ダルクが死去して25年後に、ローマ教皇カリストウス3世の命で、復権裁判が行われ、その結果 ジャンヌの「殉教」が宣言され、
 
1920年には「列聖」されて、「守護聖人」の一人となっています。
異端者として処刑されたのに、その後 カトリック教会の「聖人」になったのは、ジャンヌ・ダルク以外には存在しません。
 
以下、―――ウキペディアからの引用です。
 
ジャンヌはジャック・ダルク (en:Jacques d'Arc) とイザベル・ロメ (en:Isabelle Romée) の娘として生まれた。

父ジャック・ダルク(1380 - 1440年)が イザベル(1387 - 1468年)と結婚したのは1405年のことで、
二人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ(本人)、カトリーヌの5人の子供が生まれている。 兄三人、妹一人である。

ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた。

当時は辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころに何度が襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。

後にジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであれば、ジャンヌは1412年ごろに生まれたことになる。

ジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは1424年ごろのことで、当時12歳だったと証言している。

このとき独りで屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミシェル、聖カトリーヌ、聖マルグリットの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子を「ランス」へと連れて行き、フランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。

聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えた後に、ジャンヌは泣き崩れたと語っている。

ジャンヌは16歳のときに親類に頼み込んでヴォークルール へと赴き、当地の守備隊隊長に、シノンの仮王宮を訪れる許可を願い出た。

守備隊長は、ジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった。

翌年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、2人の貴族の知己を得た。

この2人の助けで守備隊隊長に再会したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦い で、フランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した。

当時のフランスの状況は―――

1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じて、イングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。

ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の焦土作戦によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた。

また当時のフランスは、黒死病によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。

ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。

ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王は、シャルル6世だったが、精神障害に悩まされており、国内統治がほとんど不可能な状態だった。

王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。

そして1407年にシャルル6世の弟ルイが、ジャン1世の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった。

イングランド王ヘンリー5世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。

イングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る。

そして後にフランス王位に就くシャルル7世は、兄4人が相次いで死去したために、14歳のときから王太子と目されていた。

シャルル7世が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュ公国との間に和平条約を締結しようとしたことである。

しかしながらシャルル7世が安全を保証した会合の席で、ブルゴーニュ公ジャン1世はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。

父ジャン1世の後を継いでブルゴーニュ公となったフィリップ3世は、シャルル7世を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。

そしてイングランドブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった。

1420年にシャルル6世の王妃イザボーは、シャルル6世が死去した後のフランス王位を王太子シャルル7世ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。

この条約の締結は、シャルル7世がフランス王シャルル6世の子供ではなく、王妃イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子供である、という噂を再燃させることになった。

イングランドのヘンリー5世は14228月に、シャルル6世もその二カ月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世が、イングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。

ただし、ヘンリー6世はまだ一歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政として国政を司った。

1429年の初めごろにはフランス北部のほぼ全てと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュ公国はフランス王室と関係が深いランスを支配下に置いた。

ランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。

パリとルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオレルアンを包囲した。

ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり、「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである。

そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だと見なされていた。
つまり―――

ジャンヌ・ダルクはこのオレルアン郊外での敗戦を予言したのである。

ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。
イメージ 1
1415-1429
  イングランド王ヘンリー6世の支配下
  ブルゴーニュ公フィリップ3世の支配下
  フランス王太子シャルル7世の支配下
  主戦場
 
ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった。

シノンの王宮に到着して間もないジャンヌと 余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。

「神の恩寵を聞いた」と語る 名もなき農民の娘に、いたく興味をもったという。

当時シャルル7世の妃マリーの母のヨランド・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。

ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。

フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について歴史家スティーヴン・リッチーは、崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろうとしている。

度重なる屈辱的な敗戦でフランスの軍事力も国力も瓦解し、その指導力は失墜しきっていた。

王太子シャルルが、ジャンヌの突拍子もない軍備の要求を認め、さらには軍の指揮官の一人に据えた背景には、それまで試みてきたありとあらゆる正攻法が失敗に終わったことに大きな原因があろう。

崩壊寸前の絶望的な状況に置かれた政権のみが、『母国の軍を率いて勝利せよ』という神の声を聴いた、などという無学な農夫の娘の訴えに、耳を傾けたのだ。

神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた。

しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、
ジャンヌが異教の魔女であり、シャルル7世の王国は 悪魔からの賜物だと告発されかねない、ことに危機感を抱いた。

ジャンヌを異端と見なす可能性を否定して、その高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、教理問答を命じた。

そして14294月にジャンヌの審議に当たった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えの善きキリスト教徒であることを宣言」した。

一方で教理問答に携わった神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。

「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは聖霊の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した。

ジャンヌの主張が真実であると認定されたことは、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。

イングランド軍が包囲していたオレルアンに、ジャンヌが到着したのは1429429日だった。

当時オルレアン公シャルルは、イングランドの捕虜となっており、異母弟ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。

当初のド・デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった。

しかしながら、このようなド・デュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。


容量の関係で、「つづき」ます。