生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

歴史の裏を読む 小松帯刀 7つづき

≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 7つづき ≫
 
容量がオーバーしましたので、その「つづき」です。
 
 

 その後、大政が奉還されましたので、京都の薩摩藩邸で小松帯刀らは、坂本龍馬に人材登用の構想を依頼します。

 
すると龍馬は、副関白に徳川慶喜の名前を挙げます。
そして、実際に政治を司る参議の筆頭(つまり、宰相)に、小松帯刀を挙げたのです。これがいわゆる「幻の宰相」といわれる所以です。
 
その後、ご承知のように、徳川方の反旗が上がり、戊辰戦争へと突入していきますが、その直前には、かねてから苦しんでいた脚の病のために、小松帯刀は第一線を退きます。
 
日本再生の大詰めのときに、小松帯刀の姿はありませんでした。
 
そして「王政復古の大号令」が発せられ、鳥羽伏見の戦いへと突入します。
病気療養中の小松帯刀を、維新政府はどうしても必要としていました。
 
日本には、まだまだ攘夷論を振りかざす輩が多く、外交担当の判事として、小松帯刀以外に適任者はいないとして、外交首脳と親交のあった帯刀を、外国事務局判事に兼任させました。
 
そのような中で、近海を測量して、堺の町に上陸したフランス海軍兵を、土佐の藩兵が三人を斬殺、7人を負傷させて、6人を連れ去りました(その後斬殺)。
 
小松帯刀には、フランスから5か条の要求を突き付けられます。
朝廷は、15万ドルの賠償に応じ、さらに18人の下手人を捕らえて、要求通り処刑することにしました。
 
不法侵入者を断罪したという土佐藩兵の気持ちも配慮して、フランス側の前で、18人を切腹させます。
 
目の前で、堂々と切腹して斬首される武士が11人に達すると、命がけで国を守る武士の気概に打たれて、フランスは刑の執行を止めさせました。
 
さらに事件は続きます。
天皇喝見に招かれたイギリス公使パークスが攘夷派の暴漢に襲われました。
 
以前、薩摩に招かれたことのあるパークスは、小松帯刀とは親交を深めていました。
それで事なきを得ました。
外国総督の東久世は、岩倉具視に「戦争に及ぶことなく済んだ」と報告しています。
 
さらに帯刀は、混乱した政治状況を立て直すために、鹿児島に戻ります。
そしてーーー
 
領地と家格返還を申し出て、「版籍奉還」と「廃藩置県」の先鞭をつけました。
 
小松帯刀は、維新政府では「外務大臣」に相当する地位にありました。
幾度も叙勲の話がありましたが、ことごとく辞退していました。
 
維新政府は、小松帯刀に最後には無理やりに禄を与えています。
それほど「清廉潔白」な人物でした。
 
天皇に、再三にわたり江戸に共に行くことを要望されていましたが、ついに病が癒えることもなく、35歳の若さで病没します・・・・。
 
その後の物語は・・・・次回に「つづき」ます。
 
                  つづく
 
                2019年7月20日記