2016年5月中旬に、メキシコ旅行のツアーに参加しました。
前回と、まったく同じコースでしたので、特に印象的なものはありませんでしたが、今回の旅行のメインとしていたマヤ文明の前に、少しアステカ文明の遺跡などを ご紹介しておきます。
まず、キリスト教の「世界の三大奇跡」とされているグアダベール寺院に行きました。
三大奇跡とは―――
・ファテマの奇跡
そして、メキシコの
簡単に紹介しますと―――
● ファテマの奇跡
およそ100年前の1916年、ポルトガルのファティマにいたルシア、フランシスコ、ヤシンタという子供の前に、平和の使者と名乗る謎の若者が現れました。
この若者が子供たちの前に現れてから、1年後、聖母マリアと名乗る女性が 子供たちの前に現れ、予言のような様々なメッセージを託します。
聖母マリアは、子供たちに地獄のヴィジョンを見せたとされており、このヴィジョンを見た子供たちは「本当の地獄を見た!」と、発言していました。
聖母マリアは ルシアには「あなたは・・・まだ生きて使命を果たしもらいますが、後の二人は天に召します」と伝えていて、フランシスコとヤンシタはまもなく亡くなったと言われています。
世界大戦の終焉と勃発
当時は第一次世界大戦の真っ最中でしたが、その戦争は間もなく終わる。しかし、多くの人々が悔い改めないために、さらに大きな戦争(第二次世界大戦)が起き、多くの人々が地獄に落ちてしまう―――との予言でした。
ファティマ第三の秘密
聖母マリアは、この秘密を1960年まで秘密にし、時が来たら公開するように、とルシアに命じました。
その内容は ルシアを通じて教皇庁に伝えられましたが、1960年が過ぎても教皇庁は公開せず、2000年になってから発表に踏み切ったのです。教皇庁によれば教皇暗殺の危機だとされていました。
これが聖母マリアと名乗る女性が、子供たちに伝えたメッセージの概要です。
その予言に伴い、聖母マリアは教皇に二つの要望をし、また集まった人々に奇跡を見せたと言われています。
ロシアを聖母マリアに奉献し、ロシアが引き起こしかねない災厄(ソ連という共産主義国の出現と、それによって引き起こされる多くの争い)と誤謬から、世界を救ってほしいということ。
カトリック信者は毎週日曜日に聖体拝領し、そして、よく告解し、罪を避け、敬虔な生活を送るように、人々を回心させてほしいということ。
奇跡の概要
聖母マリアは 実際に奇跡を見せると伝えており、集まった一万人の群衆は雨に濡れていましたが、太陽が狂ったような急降下や回転を繰り返し、猛烈な熱で彼らの服は乾いてしまったといいます。
これは「映画」になっており、私も観ましたので このシーンは覚えています。
世界各国の天文台で 当時こうした太陽の異常行動は確認されておらず、群衆全員が同じ幻覚を見たことになります。
居合わせた新聞記者たちも目撃して、ポルトガルのあらゆる新聞に大々的に掲載されました。
群衆を散らすために山岳兵部隊が動員されたのですが、彼らも奇跡を目撃して直ちに回心した―――と伝えられています。
駆け付けた人々の その当時の様子が新聞に報じられています。
当時の新聞
実際に多くの人々が奇跡を目撃していたこと、ヴァチカンの調査を受けたうえで、教皇庁が聖母マリアの出現を認めたことなどから ファティマは有名になり、カトリック信者の巡礼地の一つとなりました。
1858年2月11日、南フランスのピレネー山麓にあるルルドという小さな村に生まれたベルナデッタ・スビルーという13歳の娘がいました。
11歳の妹のトワネットと、12歳の友達で石切屋の娘のジャンヌ・アバディーと一緒に、村を流れるガーブ川の河畔で、薪にする流木を拾い集めていました。
ベルナデッタが 川の対岸にあるマッサビエールの洞窟と呼ばれる岩の窪みの方へ渡ろうと思い、靴と靴下を脱ぎ始めた時に、突風が吹いた様な音が聞こえたといいます。
そして、対岸の洞窟から黄金の雲が現れ、光が射し込んで、その光の中心には美しい女性が立つ姿を目撃します。
その女性は、白いドレスに白いヴェールを被り、水色の帯を締め、右手には白い玉と黄金の鎖のロザリオを持ち、足は裸足で、両足首に黄色い薔薇をつけていたといいます。その姿たるや、まさに聖母マリア。
聖母マリアはロザリオを持ち直して、十字架の印をしたので、ベルナデッタは自然とポケットからロザリオを取り出し、祈りを捧げたといいます。
そして―――聖母マリアの光は、突然にかき消えました。
ベルナデッタは帰り道に、この出来事を他の2人に話すと、彼女らは薪を集めるのに忙しく、ベルナデッタがひざまずいていたのは見たそうですが、対岸の聖母マリアの姿は、見えていなかったといいます。
この日以降、18回にわたり、聖母マリアはベルナデッタの前に出現したといいます。
9回目に出現した時に、ベルナデッタは聖母マリアから「マッサビエールの洞窟の地面を掘るように」とお告げを受けます。
言われたとおり掘ってみたところ、そこから水が湧き出して、その水はどんどん量を増していき、やがて澄んだ泉になったといいます。
片目を病んでいた青年が、この泉の水で顔を洗ったところ、数日後にその目が治ったといいます。
また、老婆が腕の痛みに耐えかね、泉に腕をつけたところ、痛みが消えたともいいます。
ベルナデッタは当初、白い貴婦人の事を 聖母マリアだとは明言していませんでしたが、1858年3月25日の16回目の出現の際、ベルナデッタが思いきって「あなたはどなたなのですか?」と質問すると―――
貴婦人は「私は無原罪の御宿りである(ケ・ソイ・インマクラダ・カウンセプシウ)」と答えたそうです。
この“無原罪の御宿り”とは、原罪なしに生まれてきたとするカトリックの教義であり、これはアダムとエヴァの子孫である人類は生まれながらに原罪を背負っているが、
聖母マリアは汚れなき存在であり、情欲の交わり無しにイエスを処女懐妊し、また、彼女自身も 同様に母アンナの体に宿った原罪を免れた存在と説くものです。
なお、この教義は ルルドの出来事が起こる4年前の1854年12月8日に、時のローマ法王ピウス9世が、公に宣言したばかりでもあったのです。
以後これらの話はみるみるうちに広まり、世界中から大勢の難病に悩む人々が、藁をもすがる思いでルルドを訪れるようになり、
そうした人々が泉の水を飲んだり浴びたりしたところ、不思議と何人も回復したといいます。
医者の見離した病人が全快した例は数知れず、現在、この泉はローマ法王庁が認めるカトリック最大の聖地となり、訪れる人の数は年間500万人を数え、長蛇の列は深夜にも及ぶといいます。
ちなみに泉の水は、天然のゲルマニウム(Ge)イオン水といわれており、1日に12万2400リットルの量を出すといいます。
いずれにせよ、ルルドの泉で病気が良くなると信じている人々は数知れず、ノーベル医学生理学賞を受賞したアレキシス・カレル博士も著書『ルルドへ
の旅』の中で泉の事を奇跡だと認めているといいます。
しかし、これまでに「説明不可能な治癒は2500件あるそうですが、教会側から正式に奇跡と認定された症例は、ここ約150年間で68例(※2009年時点)だけと少ないようです。
これは奇跡の認定に当たって、教会側が非常に厳しい基準と手続きを設けている為で、
医療行為が不可能な難病であり、治療もせずに突然完治し再発しない事、 科学的・医学的な説明が不可能である事と、さらに患者が教会において模範的な信仰者である事が条件だといいます。
1879年4月16日、ヌヴェールの修道院でシスターをしていたベルナデッタは、持病の悪化により35歳という若さでこの世を去りました。
彼女を聖人の1人として加えるかどうかを占う調査の一環で、もし奇跡的に遺体に腐敗が見られなければ、列聖するにふさわしいという事で、
30年後、1909年9月22日の朝、ヌヴェールの司教の立ち会いのもとで、 ベルナデッタの墓が掘り返され、棺が開けたところ、
なんと彼女の遺体は全く腐敗しておらず、まるで眠っているかの様だったといいます。
ヌヴェール愛徳修道院に安置されている聖ベルナデッタの遺体
1925年4月18日にも、ベルナデッタの墓が再び掘り返されましたが、遺体は未だに腐敗していませんでした。
その場に立ち会った外科医ドクトル・タロンは、3年後に医学誌にその時の報告を発表し、その中で―――
ベルナデッタの骨と筋肉が完全に保存されており、とりわけ死亡の直後に悪化するはずの「肝臓」までもが、そのままの状態で残っている事に驚きを表しているといいます。
そしてドクトル・タロンはこう結論づました。
「これは通常の自然現象では無い様に思われる」と―――。
もっとも、遺体は一定の条件が揃えば、極稀に腐敗を免がれる事もあるといいます。
ベルナデッタの遺体も、厳密には腐敗が発生していたらしく、それを覆い隠す為に精巧に作られたマスクを被せられて、
1925年8月3日、彼女の遺体はヌヴェールの聖ギルダード教会の聖堂の廟に安置され、一般に公開されるようになったといいます。
現在も、毎年多くの巡礼者達が聖女ベルナデッタの姿を見る為に、ここを訪れています。
ここで容量が超えましたので、「つづき」ます。