六甲の保久良神社(カタカムナ神社)その2
彼は、戦後(1949年)に一時期、六甲山の山中で「地磁気」の研究をしているときに、平十字(ひらとうじ)と名乗る仙人のような風姿の人物が夜中に尋ねてきて、
「あなたのやっている研究で、このあたりに住んでいる鳥や動物たちが困っている。 その研究を止めてくれないか」
と、言われます。
そのお礼として、神社に代々伝わるご神体(上古代文献)の写本を許されます。
そのご神体こそが、「カタカムナ文献」です。
保久保神社には、この平十字(ひらとうじ)の痕跡はありません。
まったく反応しないのです。
ただ、保久保神社から見て、その上方の金鳥山に向かって左側の斜面には、反応するエリアがありそうです。
私の反応では、平十字(ひらとうじ)は楢崎皐月に邂逅して、2年後には亡くなったように思われます(1951年)。
それはーーー
昭和44年に、文部省教育会館で楢崎主催の考古物理学の講演会の時、演壇に立った彼は「いつになく強い波動を感知」します。「どこから出ているのか・・・・」多くの聴衆の中に、一人の女性を見出します。
ほとんどが男性の参加者であるのに、一人の女性が発する気に共鳴したのです。
この女性こそ、宇野多美恵(以下敬称略)であり、カタカムナによる「相似象学会」を率いることになる人物でした。
楢崎皐月が、その後を託すことになる人物です。
彼女は、会誌「相似象」を主宰します。
ここで発刊された会誌「相似象」が、多くの方々の手に渡り、カタカムナに取りつかれたかのような研究が日本の各地で起こってきたようです。
私も、20代の頃に、この相似象学会の会員となっていた友人がいました。
彼からこの「相似象」の会誌を何冊か借りて、読んでいました。
とても難解な小さな会誌でした。
簡単には理解できないーーーこのように感じたのを覚えています。
その彼は、現在はAKAの手技療法を駆使する医師となっています。
その当時、彼は相似象学会の研究会に参加して、自然の山々の現地に赴き、谷と谷を結ぶラインの交点と、山の頂と頂を結ぶ交点のラインの接点では、前者が「ケカレチ」となり、後者は「イヤシロチ」となるーーーこのようなことを言っていました。
「ケカレチ」では、その土地の電位が低く、直ぐにモノが腐るし、身体には良い影響を与えないが、「イヤシロチ」では、その土地の電位が高いので、モノが腐らずに、良好な状態を保つと言っていました。
古い神社・仏閣の地下には、「炭が埋まっている」との情報も、私に言っていました。
今から40年も前のことですから、「イヤシロチ」「ケカレチ」については、忘れていました。
その後、この問題には仕事で関わることが多くなっています。
それは、船井幸雄氏の多くの著書で、「イヤシロチ」「ケカレチ」の言葉出てくることなどから、土地の「磁場」に関わる問題を、実際に治療家として向き合うことになっているからです。
「ケカレチ」(気が枯れる地)は、ジオパシックストレスが代表です。
その他にも「地縛霊」のいるエリアや、土地の電位が低いエリアなど、長くとどまると「いやな感じがする」ところは、「ケカレチ」となります。
身体にとってストレスとなり、体軸が歪みます。
そのようなエリアに長時間、長期間留まりますと、やがて病気となっていきます。
一方で、「心が和む」「気持ちがいい」と感じるエリアの多くは、「イヤシロチ」となっていて、電位の高いエリアで、生体に良好な反応を及ぼすところです。
多くの「パワースポット」といわれるところは、「イヤシロチ」であることが多いようです。
自然環境の中でも、「癒される」「気持ちがいい」と感じるところは、身体にとって良好な反応をもたらして、身体の電位が高まるエリアとなります。
いよいよ境内に入ります。
波動は良好です。
ここの境内に入りますと、しっかりと体軸が整います。
この神社に行く前の「事前調査」は、いつものように一切行いませんでしたので、ここは「カタカムナ神社」であると思い込んでいました。
現地に行って、「カタカムナ」の「カ」の字もないことに、いささか驚きました。
イッチは「(当然であるかのように)カタカムナとは、どこにも書いておりません」と言っていたのです。
それがなぜ、カタカムナが注目されているかーーー
やはり、「相似象」の会誌が元になって、全国各地で「カタカムナ」の研究が行われていて、様々な現象が生み出されてきたからだと思われます。
楢崎皐月が読み解いた「記号」の解釈から、人々は多くのことを学んでいます。
この○(マル)の中に記号があり、楢崎皐月は 「ヒ」「フ」「ミ」「ヨ」「イ」とカタカナを当てはめて解読しました。
この「時計回り」の渦に対して、真ん中の記号は「反時計回り」です。
「ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ」
これを思念するだけで、「異次元のエナジー」が立ち上がるーーーともいわれます。
この第5首は、天体から極微の世界まで、正と反の旋転(時点)と循環(公転)の動きによる球の性(マリ性)によって抽象されることを表している、といわれています。
確かに、体軸のブレしている方に、この「図象」を注入しただけで、即効で体軸が整います。
次の図象も、同じく注目されている第6首です。
これも思念するだけで、「異次元のエナジー」が立ち上がるーーーともいわれます。
もっといえば、9次元と繋がるもの、と解釈できます。
「カタカムナ」を読み解くと、現在起こっている現象には、その全てに潜象(異次元)の働きがあるーーーということが、解ってくるようです。
このような直感的なヒラメキから、多くの方が 「相似象学会」の発行する会誌「相似象」を手にして、研究していったのです。
私は、難解なので 直ぐに放棄しましたが、楢崎皐月の解説する文章を「繰り返し読み解く」ことで、様々な思念・思考を得ることになっていた方が、日本の各地に生まれることになったのです。
楢崎皐月という天才物理学者について、もう少し説明します。
楢崎は 優秀で、東北帝国大学に進む予定でしたが、試験の前日に行った遊覧船の事故で遅刻して、北大には行けなかったのです。
が、日本初のレントゲン研究者と巡り合い、その方(川喜多氏)の設立した専門学校で学びます。
社会人となり、数々の発明と事業で成功して、若干26歳にして、当時としては超一流の丸ビルに事務所を構えるに至ったのです。
そしてーーー製鉄の結晶には、良好な鉄を生み出す溶鉱炉の周辺には、植物の生育が良く、悪い鉄を生み出す溶鉱炉の周辺は、荒れ地で雑草すら育っていなかったことから、目に見えにない「何か」が影響しているのではないのか、というヒラメキを直感していたといいます。
このようことから、大地電気や重量波の研究に向かって行ったのです。
そんなときにーーー
ある寺の老師に招かれて、お茶をごちそうになります。
それは、数枚の葉を揉んで、お茶を沸かす釜に点火しただけなのに、熱湯になっていました。
「木の葉五、六枚の熱量で湯が沸くはずがない」なぜなのかーーー老師にその製鉄の釜を譲り受けて調べたいと申し出ます。
数度尋ねて申し出ますが、「これは寺に伝わるもので手放すことができない」と断られます。
しかしーーー「これは日本で造られたものである」と教えられます。
さらにーーー老子の古伝として、上古代の日本の地に、「アシア族」という高度な文明を持つ種族が存在していて、「八鏡の文字」を創り、特殊な鉄を造り、様々な生活技法を開発していたことと、
それが中国に伝わって、「易」の思想や、素問・霊樞の医学に展開されていったということを教えられます。
ところでーーー
終戦後、多くの科学者は国の内外に離散(頭脳流出)します。
ソ連などによって、国外に幽閉された科学者もいたようです。
楢崎は、仲間の同志となる科学者と、秘密裏に「日本のために貢献すること」を誓い合ったといいます。
研究内容を秘密にしたのは、各国のスパイやマスコミの暴力から逃れるためでもありました。
楢崎は、馬鹿を装ってこれを逃れましたが、楢崎の右腕となっていた同志の一人、元海軍技術研究所長は、ソ連から申し出を断り続け、三日三晩付け狙われて、ついに交通事故を装われて殺されてしまったーーーといいます。
彼らが手掛けていたのは、「原子転換」「植物波農法」「反電磁場振動子(原爆を無力にする装置)」「静電処理器(植物の種子や土壌処理に実用化)」さらには、石油、石炭、ウランに代わる効率の良い「発電技術」など、多岐に渡るものでした。
また、「反電磁場の研究(核エネルギーを無力化する技術)」の最終実験を行ったうえで、無償で政府に提出する最終局面で、関係者に資金を持ち逃げされて挫折してしまったこともあります。
そして、全て無償で全国を回り、実地に指導しましたが、そのような労苦が報いられず、誹謗中傷まで受けたのです。
これに嫌気がさして、習志野に引きこもります。
科学技術開発に関わっていた弟子とも別れ、講演依頼もすべて断り、原稿を書くことも辞めて、「カタカムナ」解析に没頭します。
「カタカムナ」を追究していると、直感的な「サトリ」が得られるようになることから、「イヤシロチ(電位が高い環境地)」を選んで、上古代のように直感的な高波動の物理現象を引き出すために、
楢崎皐月は、宇野多美恵に自分の後継者として認めて、彼女を通して「相似象会誌」に解説を載せてきました。
では、この宇野多美恵とは、どのような人物なのかーーー
政治家でもあった父は、五門のうちの三番目の門をくぐれる家柄であったといいます。
そんな厳しい父母の元で育った彼女は、18歳で女学校を卒業した後、明治生まれの女性解放に目覚めた師、中沢美代子と出会います。
国際的な人生経験を通して、様々な知識教養を持つ女性を教育していたのです。
そこは「昭和の松下村塾」ともいわれていました。
ここで世間一般のトラブル解決法として、「徳に報いるに徳を以ってし、恨みに報いるに 直を以ってせよ」とする論語に、この「徳」と「直」はどう違うのか?
信頼する親子が「怨」となったとき、「直」を以ってせよとは、どういうことか?
宇野のこのような質問に、師の中沢は次第に答えきれなくなっていきます。
私の年になるまで勉強して、私の解らない事まで、私を超えていってほしい・・・・」
このように言われます。
その頃通っていたこの塾の帰りに、同じ塾生に源氏物語の講義を聞きに行くことを誘われます。
そこで富永半次郎と出会います。
釈迦の悟りの思想を究明する54歳の人物を、20歳の宇野多美恵は「生涯の師」となる衝撃を受けていました。
というのは、私塾の中沢美代子は「決して諦めてはならない」と諭していたのに、富永は「あきらめ」とは、明らかに極めることであり、人は「あきらめなければならない」といっていたのです。
森鴎外も その文学の辿り着いた境地は「諦観(ていかん:あきらめ)」でした。
師は高尚な研究に明け暮れて、昭和40年に亡くなります。
ここで容量を超えましたので、「つづき」ます。