生命体エナジー浄化の会ブログ

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六甲カタカムナから根来寺へ 8

《 六甲カタカムナから根来寺へ 8 》
根来寺その1
 
 六甲山を後にして、翌日に和歌山県岩出市にある真義真言宗総本山の「根来寺」に向かいました。
 
根来寺」とはーーー
 
高野山の僧で、空海以来の学僧といわれた覚鑁(かくばん)に始まります。
覚鑁(興教大師)には鳥羽上皇が帰依して、荘園を寄進されて、高野山金剛峰寺の座主になって、高野山全体を統括します。
 
覚鑁は、当時堕落していた高野山の信仰を立て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めますが、多くの宗徒がこれに反発して、覚鑁一門と対立します。
 
そして、覚鑁の住居も一門の寺院もが焼き討ちになり、高野山を下りて、荘園の一つの豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移し、さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とします。
 
豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成されます。
覚鑁の没後1世紀以上経って、大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は、高野山から根来(現在地)に移ったとされています。
 
室町時代末期の最盛期には、坊舎450(一説には2,700とも)を数え、一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧兵1万余の一大軍事集団を擁したといわれます。
 
また、根来寺僧によって種子島から伝来した火縄銃により、僧衆による鉄砲隊が作られました。
そして、秀吉に敵対して雑賀攻めを招くこととなったのです。
 

近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに 秀吉方に抵抗しますが各地で敗れ、天正13年(1585年)、秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちたのです。

 

その後、紀州徳川家の庇護のもと主要な伽藍も復興され、また、東山天皇により覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜されました。

 
このような経緯を経て、現在の「根来寺」があるのです。
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入り口のすぐ傍に「案内所」があります。

そこの方が、「今日は、不動堂でゴマ供養があります」と言っていました。
 
まだ始まる前ですので、不動堂には後で行くことにして、まず本堂の見学に参ります。
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真義真言宗総本山根来寺とあります。

 
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本堂である「大伝法堂」です。
 
波動は高いです。
画像に いくつもオーブが映り込んでいます。
 
根来寺の宗祖で、空海以来の学僧といわれた覚鑁(かくばん)には、鳥羽上皇が帰依して、荘園を寄進されて、高野山金剛峰寺の座主になって、高野山全体を統括しました。
 
覚鑁(かくばん)が、20歳で高野山に入った当時、空海没後300年を経ていました。
高野山は、在地領主の子弟の多くが、僧となって治めていました。
 
覚鑁(かくばん)は、仏法興隆を目指して、僧侶の学問の場としての「伝法会」復興に取り組みました。
 
「伝法会」とは、空海の弟子が残した春秋に行う教学の会のことです。
高野山では、すでにすたれて久しいものでした。
 
この学問所としての「大伝法院」は、鳥羽上皇の支援を受けて、建立されました。
この「大伝法院」方と、金剛峰寺方とが対立して、根来寺が独立して最終的に現在の根来寺が開山していったのです。
 
覚鑁(かくばん)は、平安末期の空也上人や、浄土思想の源信上人などの民衆宗教と出会って、「一宗一派に偏っては、いくつもの流れを失ってしまう」として、
 
真言密教最高神の「大日如来」も、浄土宗の説く「阿弥陀如来」も同一である、と説きました。
 
そしてーーー密教の「身(しん)」「口(く)」「意(い)」の三蜜成仏の真言密教の教えも、それを理想と説きながら、そのうちの何か一つを熱心に学び念ずれば、成仏への道が開けるーーーという「一蜜成仏」を説きました。
 
そのような背景がって、「大伝法堂」に踏み込みました。
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正面に「大日如来
 
大日如来」は密教の本尊です。真言密教寺院ですので、これが本尊となっています。
「生きている」反応を示します。
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右側に「金剛菩薩」

これも「生きています」
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左側に「尊勝仏頂尊」

これも「生きています」
 
これら三像は、いずれも国宝です。
この三神の組み合わせは珍しいもので、根来寺を起こした覚鑁によるものとされています。
 
本堂に入って驚いたのは、「全ての像が生きている」ということでした。
これは、通常ではほとんど見られません。
 
かなり高波動の寺院、仏閣であっても、「全てが生きている」との反応はありません。
高野山でも同じです。
 
ただ、本シリーズで「目黒不動12年に一度の御開扉」のときに、本堂内の全ての像が「生きている」との反応を示しました(公開終了後は、通常の状態に戻っていました)。
それ以来の体験でした。
 
そのために、「根来寺は凄い!」と感動したのです。
ですが・・・・・なぜそうなるのかは、後で知ることになりました。
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まだ早いので、誰もいません。

 
いや、実際には多くの方々が、根来寺には来場していたのですが、ほとんどが不動堂の「ゴマ供養」に参加していたようで、本堂には我々以外には 誰もいませんでした。
我々は、一心不乱に感謝の意を「大日如来」に捧げました。
 
そのとき、この画像の右下に映る台座が妙に気になりました。
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登高座(とうこうざ)と書かれています。
「伝法大会(でんぽうだいえ)という教義研修の成果を問う論議(討論会)のとき、問答者がこの台に登ります」と書かれています。
 
勿論、ここに座っては 失礼に当たることは重々承知しています。
が、・・・・・なぜか座りたくなりました。
 
座ってみると、もの凄く身体が反応します。
高波動に包まれて、本尊「大日如来」様と一体化しました。
 
ブルっと 身体が震えるような感覚がありました。
 
そこに、「散杖(さんじょう)」がありました。
これは、器に入った浄水を散布するもので、法要を行う際に、その「空間」と「身体」を清浄にするための木製の棒です。
 
以前、密教阿闍梨の方が持つと、その棒の先から高波動のエナジーが ほとばしり出ていることを感知したことがありました。
 
そこで、私もそれを真似て、「パワースポット探索の会」の面々に、「散杖(さんじょう)」を当てがって、エナジーを注入してみました。
 
感触が良く、私も欲しくなり、いつか良好な柳の木などを見つけて、自作してみたいと思いました。
 
そしてーーーその「散杖(さんじょう)」を頭部に当てて、高波動エナジーを注入して、まさにそれだけで清浄な身体に整えることができるように、なりたい!――――このような夢を持つにいたりました。
 
 イメージ 9

国宝「大塔」

 
本尊は、「胎蔵界大日如来」です。
高さ40M、幅15Mの木造で、日本最大の多宝塔です。
 
多宝塔とは、二層になっていて、初層は方形で、上層は円形です。
内部は、四点柱が立ち、それぞれ四方向に仏像が安置されています。
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「大塔」の本尊は、「胎蔵界大日如来」で、これが正面です。


ここは「撮影禁止」です。申し訳ありません。
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これは、その側面です。

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真後ろに当たる方向から見ています。
 
内部の全ての仏像は「生きている」という反応はありませんが、波動は良好です。
ここの空間にいると、心身ともに落ち着きます。
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大師堂です。

 
内部は・・・・
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弘法大師空海上人を本尊として祀っています。
兵火から残ったもので、須弥壇と併せて 重要文化財に指定されています。
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「身代不動参道」とあります。

 
「不動堂」での「護摩焚き」が始まりますので、根来寺の入り口を出て、参道に向かいます。
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不動堂です。
「きりもみ不動尊」を本尊として、江戸時代に建立されました。
 
交通安全・厄除け祈願の「身代わり不動さま」として有名です。
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内部には、「きりもみ不動尊」が安置されています。

かなりの高波動です。
 
波動が高いのは、お不動様だけで、堂内のエナジーはマイナス波動です。
堂内での 一般参加者の欲望やエゴなどが、渦巻いているからかもしれません。
 イメージ 18


護摩焚き」には多くの方々が参列していました。
 
人が多くて、堂内には入れませんので、丘に登ることにしました。
この「護摩焚き」の影響からなのか、根来寺にも効力を示すことを、その後知ることとなります。
 
                                      つづく
 
                               2018年12月27日記