《 吉野路紀行 その1 》
壺阪寺―金峰山寺―吉野神宮―丹生川上神社下社―天河弁財天―丹生川上神社中社
壺阪寺 その1
2022年4月22日から、かねてから「行かなくてはならない!」と反応していた「吉野」に行きました。
このとき―――
行きの新幹線の中で、皇子が「これは、どうですか?」と聞いてきました。
「十一面千手観音菩薩像」です。
かなりの高波動でしたので、吉野の金峰山寺に向かう途中にありますので、「まず・・・ここに行こう!」となりました。
「壺阪寺」―――聞いたことのないお寺の名称です。
その名を今回参加者の誰も知りませんでした。
しかし、予想を超える波動の寺院でした。
「壺阪寺参道」とあります。
それほどの期待はありませんでした。が・・・・
参道を進みます。
途中で作業小屋のようなところに、無造作に4体の仏像が並んでします。
通常であれば、このようなところではなくて、それなりのエリアの置くべきものですが、このような場所に置かれていることに、この寺の資産は とてつもなく大きいことが予想されました(実際に、その通りでした)。
入山料600円です。
今まで「壺阪寺」という聞いたこともない寺院に入るのに、600円は少し高いと思いましたが、
「せっかく来たにだから・・・・」と入場しました。
後で調べて判ったのですが、この「壺阪寺」とは―――
南法華寺(みなみほっけじ)が正式名称で、号が「壺阪山」で通称「壺阪寺」となるようです。
西国三十三所第6番札所となっています。つまり、古刹です。
草創については不明ですが、伝承によると大宝3年(703年)の創建とされて、後に元正天皇の祈願寺となったといいます。
大宝3年(703)に元興寺の僧弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵におさめ、感得した観音様のお姿を模刻して祀ったのが始まりといわれています。
平安時代に、京都の清水寺が「北法華寺」と呼ばれるのに対して、当寺は「南法華寺」と呼ばれていたようです。
そしてなによりも、貴族たちの参拝も盛んで―――
清少納言の『枕草子』には、「寺は 壺阪、宝輪・・・」と霊験の高い寺院の筆頭に挙げられれていました。
往時は36堂60以上の堂舎がありましたが、喜保3年(1096年)の火災で、大伽藍のほとんどが灰塵に帰したといいます。
その後も戦国時代の戦乱に巻き込まれて、残ったのは室町時代の礼堂と三重塔ぐらいであったといいます。
慶長年間に入ると、豊臣秀長の家臣が伽藍の復興に尽力して、江戸時代には高取藩の庇護を受けて栄えたといいます。
本尊の「十一面千手観音菩薩」は眼病封じの観音様として親しまれ、眼病に霊験があるといわれています。
この画像を視て、我々は「壺阪寺」に引っ張られたのです。
お里・沢市の夫婦愛をうたった人形『壺阪霊験記』の舞台として有名となっています。
「妻は夫をしたわりつつ・・・夫は妻を慕いつつ・・・」という浄瑠璃です。
また、他にも国の内外で福祉事業を展開しているようです。
昭和39年(1964年)には、インドで行っているハンセン病患者救済活動への尽力に対する返礼として、インド政府から提供された古石を使用して、昭和58年(1983年)に完成した「天竺渡来 大観音像」は、高さ約20m、総重量1,200トンの壮大なものがあります。
その他、インド渡来のものとしては、「天竺渡来 佛伝図レリーフ」、「天竺渡来 大石堂」などがあるようです。
これらを、これから見ることになります。
坂道の先に、巨大な仏像が見えて、三重塔も見えます。
これを見て、かなりの規模であることが判りました。
小さな子供の像がいくつも置かれて、
「我が国初の盲老人ホーム」が造られたとあります。
観音様が救う七難とあります。
ここに、
「怨賊難(おんぞくなん)」「火難」「悪鬼難」などがあります。
この観音像の説明文には
「お里、澤市 壺阪霊験記ゆかりの地」とあります。
お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺阪霊験記』の舞台となった「地」であることが、このことから伺えます。
中に入ると、多くの仏像があり、そのエリアは良好な波動です。
右側の掛け軸は波動が高いですが、それ以外は凡庸です。
「増長天」です。
良好な波動です。しかし、「生きてはいません」。
「薬師如来」です。
「生きてはいません」。
隣の
「不動明王」像も、「生きてはいません」。
波動も凡庸です。
お大師様のようです。
ここの波動も凡庸です。
この画像の中心にある「大日如来」像は、「生きています」。
しかし、
その他にも多くの仏像などがありますが、紹介するほどのものはないようです。
外に出て、参拝順路に従います。
「仁王門」があります。
仁王門の守護する「仁王像」です。
これは、それほどの波動ではありません。
「多宝塔」です。
大きな大仏の姿が見えてきました。
後ほど、ここに行きます。
この中心の像は「生きています」。
この像は「生きていません」。
この像も「生きていません」。
遠くに大きな大仏の姿が目に入ります。
「多宝塔」の中にある像の、特別拝観」とあります。
このままでは、「秘仏」の反応を示しません。
次元を変えると―――「生きている」高波動になります。
画像は次元を変えています。
各所に、この寺の中心となる「千手観音」の像があります。
三重の塔です。
ここまでくると、この壺阪寺には豊富な資金があって、予想を上回る規模の寺院であることが判ってきました。
ここに来るまでは、その名称すら知りませんでしたが、平安時代から続く「古刹」であり、伝統と格式のある大きな規模の寺院であることが判ってきたのです。
ようやく「本堂」の案内がありました。
「眼病封じの寺」とあります。
奉納金500円を支払うと、木札を納めて、御朱印をいただくようです。
「不動明王」像です。
このお不動様は、「生きています」。
本堂の内部です。
ここに―――
「眼病封じ祈願」とあります。
「壺阪寺」は、「眼病に効験がある!」ところとして有名です。
さらに言うと―――
1961年(昭和36年)には日本で最初の養護「盲」老人ホーム「慈母園」が建てられています。
今でこそ全国各地に「老人ホーム」がありますが、ここがその走りであったようです。
この奥に、我々が目にした「千手観音像」があります。
高波動です。
期待を持って、さらにその奥へと進みました。
つづく
2023年12月5日記