≪ 写真分析から裏の歴史を考える 9≫
フルベッキ写真を分析する その7
竜馬暗殺とその背景 1
いまだに坂本竜馬という人物にスポットが当てられる番組が組まれますし、国民の人気の高さが判ります。
竜馬は、当時の人々の意識が、その地域(藩)に限定されていた時代を超えており、「日本」としての視点を持っていた数少ない人物です。
彼の背後にはグラバーらを通じた「英国の戦略」があって、幕府の背後にあるフランスとの代理戦争の観は否めませんが、世界史においても奇跡的な政権交代を成就した明治維新の、陰の立役者であることは間違いありません。
私が学生時代――正真正銘の青二才の頃に、
私が学生時代――正真正銘の青二才の頃に、
「世の人は 我を何とも言わば言え 我がなすことは われのみぞ知る」
という竜馬の言葉を書き写して、財布に入れていた時期がありました。
何とも滑稽ですが、それほどのインパクトを小説『竜馬がゆく』で与えられたのです。
その後、やはり司馬遼太郎の『花神』(長州藩の大村益次郎が主人公)を読んで、強く魅了されました。
何とも滑稽ですが、それほどのインパクトを小説『竜馬がゆく』で与えられたのです。
その後、やはり司馬遼太郎の『花神』(長州藩の大村益次郎が主人公)を読んで、強く魅了されました。
緒方洪庵の下で勉強しているという自負があり、洪庵から受ける知的刺激は、塾生の心を奮い立たせたに違いありません。
『福翁自伝』で、福沢は 洪庵の講義を聞くたびに 自分達の無学さを痛感した、と記しています。
「天は、人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」
との名言を
「天は、ヒトの上にヒトをのせて、人を作る」
と、笑っていた自分を、恥ずかしく思った記憶があります。
長州藩は、大村益次郎の天才的な軍事戦略で、上方からの幕府の大軍を打ち破り、九州方面からの敵軍に対しては、これまた傑出した天才・高杉晋作によって、奇跡的な勝利をもたらしました。
高杉晋作は、「おもしろき ことも無き世を おもしろく」 ――― との言葉を残しています。
私は今、 「おもしろき この世をさらに おもしろく」 ――― と、毎日が楽しくて仕方ないのですが、あまりにも甘すぎると自粛の感が常に在るのです。
というのは―――
維新当時の実情はきわめて悲惨であったようで、通常の小説などでは描写されない激動の中で生まれた高杉の言葉の重さを、受け止めなくてはならないであろう・・・と思うからです。
吉田松陰の松下村塾(下級武士が主体)に、上級武士である高杉は、近寄ってはならぬと言われていたので、家族にも気づかれぬよう、密かに松陰の薫陶を受けていたといいます。
「常識では、とても無理!」と思えることでも、死をも厭わずに実行に移し、後を弟子に託しているのです。
斬首された遺体を引き取りに伊藤俊輔(後の伊藤博文:初代総理大臣)らが、ようやく許しを得て、首と胴体が切り離されて、血で真っ赤に染まった全裸の遺体を泣きながら運んだといいます。
この松陰の無謀と思えた行動が、長州藩の尊王攘夷運動になって、やがて世界史の中でも奇跡的な明治維新につながっていったのですから、
「あの男は、日本の役に立つ。(敵側ではあるが)生かして日本のために働いてもらおう」
という気概があったことです。
幕府軍として、最後まで徹底抵抗した榎本武揚は、函館の五稜郭で、ついに降伏を決意しました。
という気概があったことです。
幕府軍として、最後まで徹底抵抗した榎本武揚は、函館の五稜郭で、ついに降伏を決意しました。
榎本は死を覚悟していましたが、日本のためにこの書が必要であることは明らかであったからです。
黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、投獄されたのです。
が、その福沢も、助命に尽力したひとりでもありました。
福沢は黒田から前記「海律全書」の翻訳を依頼されましたが、一瞥した福沢は、その任に当たるについては 「榎本の他にその資格なし」として辞退したと伝えられています。
また、維新の十傑の一人である大村益次郎は、函館戦争で榎本と共に最後まで徹底抗戦した大鳥圭介を、
「大鳥もやはり助けねばならぬ。どうしても官軍に抵抗して一番強いが、後日のために尽くすならば、大鳥は一番賊のうちで役に立つ」
と言っていました。
これは・・・「日本国」という意識が、日本人には本能的に刷り込まれている・・・からだと 思われるのです。
どこの国であっても―――例えば、米国のような移民の国は、国際大会などでは「U(ユー!)S(エス!)A(エー!)」のコールがたちまち起きるような背景には、星条旗のもとに、一致団結させる信念を植えつける教育理念があります。
どこの国であっても―――例えば、米国のような移民の国は、国際大会などでは「U(ユー!)S(エス!)A(エー!)」のコールがたちまち起きるような背景には、星条旗のもとに、一致団結させる信念を植えつける教育理念があります。
それが国民を導く最良の手段の一つであることは、間違いないからです。
我々日本人には―――
漠然とですが、どの家であっても、家系をたどれば平家であったり、源氏であったり、その先には皇室・公家の関係者につながっているという意識がありました。
少なくとも、私がガキの頃には そのような風潮が残っていたのです。
で、坂本竜馬です。
竜馬は 勝海舟のもとで その見聞を広めます。
多くの日本人が、「藩」という限定された地域での意識しかなかった中にあって、「日本国」という大きな視点を持つようになったのも、勝の薫陶のお陰かもしれません。
竜馬は 子供のころは泣き虫で、まったく気概のない少年だったといいますが、第2生命体が宿る頃から、新たな人格が形成されたのでしょうか。
大いなる視点をもって行動を始めています。
ドラマや小説で 坂本竜馬については、詳しく表現されていますので、ここでは特に言及しません。
さて―――
明治以降から現在に至る歴史の中で、特に戦争とお金の分野では、いつもロスチャイルド家またロックフェラー家が、深く関わっていました。
彼らはけっして歴史の表舞台に出てくることはありませんが、日本の歴史上の大事件の裏には、いつも彼らの存在があったのです。
明治以降の日本の歴史は、ロスチャイルド家およびロックフェラー家、また彼らに仕える国内の政治家によって起こされてきた戦争の歴史であるといっても過言ではありません。
明治維新は、「文明開化」といわれるように今の近代化された日本の出発点です。
人々のファッションが変わり、考え方、 政治、経済、法律、 宗教にいたるまで、すべてが近代化の名のもとに ガラッと一気に西洋化していきました。
この歴史に残る一大事件を成し遂げたのは、地方の侍でした。
おもに薩摩藩・長州藩・土佐藩など地方の下級武士たちです。
中でも代表的な維新の三傑といわれるのが、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(旧名:桂小五郎)ですが、当時、敵対していた両藩を結びつけたのが坂本龍馬であるとされています。
この両者が結び付いた軍事同盟である薩長同盟の結果、倒幕運動が功を為し、明治維新に至ったとされています。今でも語り継がれる坂本龍馬による大手柄です。
しかし、実際には……すでに本シリーズでも言及しています「南朝天皇」擁立が、その背後にありますし、また―――トーマス・グラバーというイギリスの武器商人の存在がありました。
グラバーは、ロスチャイルド家の系列会社であったマセソン商会の社員として中国の上海に派遣され、その後、日本代理人として長崎に赴任し、グラバー商会を設立します。
グラバーは、ロスチャイルド家の系列会社であったマセソン商会の社員として中国の上海に派遣され、その後、日本代理人として長崎に赴任し、グラバー商会を設立します。
来日当初は、生糸や茶の卸売をしていましたが、幕末の混乱に着目して薩摩・土佐藩士など倒幕派を相手に、武器や弾薬を売り始めます。
当時、幕府に敵対していた長州藩は、長崎のグラバーから武器を買うことを幕府から禁じられていました。
当時、幕府に敵対していた長州藩は、長崎のグラバーから武器を買うことを幕府から禁じられていました。
そこで、龍馬はグラバーから分けてもらった武器を薩摩藩名義で、長州に流すことで両者を和解させることに成功したのです。
そこには、龍馬を使って薩長を結びつけ、その後、両藩を支援して幕府を転覆させるというグラバーの策略があったのです。
それ以前にも敵対していたとされる薩摩藩の五代友厚や長州藩士の伊藤博文など、両者ともに交流のあったグラバーは、彼らにイギリス留学を斡旋し、英国で 薩摩藩と長州藩を交流させています。
つまり、龍馬が両者をつなぐ以前に、イギリスにおいてグラバーの仲介で、薩摩と長州はすでに結びついていたことになります。
そこには、龍馬を使って薩長を結びつけ、その後、両藩を支援して幕府を転覆させるというグラバーの策略があったのです。
それ以前にも敵対していたとされる薩摩藩の五代友厚や長州藩士の伊藤博文など、両者ともに交流のあったグラバーは、彼らにイギリス留学を斡旋し、英国で 薩摩藩と長州藩を交流させています。
つまり、龍馬が両者をつなぐ以前に、イギリスにおいてグラバーの仲介で、薩摩と長州はすでに結びついていたことになります。
なかでも、グラバーの手引きによりイギリスに密航し留学した長州藩の5人の若者たちは「長州ファイブ」または「マセソンボーイズ」と呼ばれました。
というのも、今の価値で10億円とも推測される彼らの留学費用の大部分を負担したのは、グラバーの勤めるマセソン商会の社長、ヒュー・マセソンその人だったからです。
長州ファイブの画像
真ん中 井上勝(鉄道庁長官:鉄道の父)
左上 遠藤謹助(造幣局局長:造幣の父)
右下 山尾庸三(法制局長官:工学の父)
つづく
2014年10月30日記