生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

歴史の裏をを読む 小松帯刀 2

≪ 歴史の裏を読む 小松帯刀 2 ≫
 
 長州は 「蛤御門の変」の後、単独では武器を購入することができませんでしたが、グラバーの代理人となっていた坂本龍馬を介して、武器を調達していました。
 
それには、長州と敵対していた薩摩藩が武器を購入して、薩摩藩から密かに長州藩に武器が渡されましたが、小松帯刀の指示によるものです。
 
小松帯刀は、薩摩藩の実質的な藩主である島津久光の信任が厚く、若くして家老になっており、薩摩藩の全権を委任される立場にあったのです。
 
幕府にも海軍が必要であるとして、幕府は勝海舟を所長とする神戸の操練所を設立します。しかし、副所長は土佐を脱藩した坂本龍馬でした。
 
ここには 討幕の思想を持った志士たちが大勢集まってきました。
これで幕府は、わずか1年で神戸の操練所を閉鎖します。
 
その坂本龍馬や志士を引き取ったのが、小松帶刀です。
薩摩藩家老として、大きな力を持っていましたので、彼らを京の小松帶刀の屋敷に預かります。
 
この京都の屋敷は、小松帯刀近衛家から譲り受けたものでした。
 
これは、島津久光の意向を受けて、はじめは 朝廷と幕府が協力してことに当たることを考えていました。公武合体です。
 
朝廷側の中川宮、近衛家、幕府側の松平慶永伊達宗城らと、島津久光が主導した、初めての会合でした。
 
これを取り仕切ったのは、小松帶刀でした。
このような活動が近衛家に認められて、京都の屋敷を住まいに使用して、しかも近衛家の家紋まで使うことを許されたのです。
 
この屋敷に坂本龍馬達を預かり、さらに、船も貸し与えて、それを元に坂本龍馬は、長崎で私設海軍であり、貿易・運輸などを行う「亀山社中」を立ち上げます。
 
5、60人のメンバーを養うだけでも、莫大な資金が必要ですが、グラバーが援助していたことが解っています。
 
薩摩の支援と、英国およびフリーメーソンが背後に控える坂本龍馬は、海援隊の船で武器を長州まで運搬しています。
 
薩摩・長州・土佐にも武器などを援助していたトーマス・グラバーの背後には、アヘン戦争で膨大な賠償金をせしめたフリーメーソンのマセソンがいます。
さらにその背後は、ロスチャイルドがいて、英国が控えています。
 
幕府側には、フランスがすり寄っていました。
討幕派の薩摩・長州・土佐・肥後藩には、英国が控えている代理戦争です。
 
幕府には、勝海舟の他にもう一人の人物がいました。
小栗上野介おぐり こうずのすけ)です。
 
小栗上野介について、少し触れておきます。
 
英国にしてもフランスにしても、ともに直接乗り込んで自国の兵を失いたくないので、日本の国内で内戦をさせるということで、約束手形で武器を調達したのです。
 
もちろん、アヘンでぼろ儲けした英国も、またアメリカも、日本との不平等条約には、アヘンについても取引の項目がありました。
 
中国のようにアヘン漬けにして、日本を奪い取る戦略であったのです。
しかし、アヘンは外科手術のモルヒネにする以外では、サムライも一般庶民も手を出しませんでした。
 
かって高杉晋作が、上海でみたアヘン中毒になり、欧米人に虫けらのごとく扱われている姿を見て、この情報を長州にも薩摩にも、坂本龍馬にも伝えていました。
 
このためーーー英国は、
日本をアヘン漬けにして、内戦で疲弊した時を見計らって、全国を平定するという野望は、頓挫せざるを得ませんでした。
 
中国の清とは違って、日本にはサムライ(武士)がいました。
生麦事件も起こっています。
 
島津久光大名行列の前を、平然と横切った英国人が、薩摩藩士に「無礼打ち」にされて切り殺されました。
 
これが国際問題に発展して、幕府は大きなショックを受けます。
タタ切ったサムライは、責任をとって即座に切腹しています。
 
しかし、薩摩藩は 「そんなことには一切関知していない!」としらを切り通しました。
 
このことは、欧米列強が 中国や他のアジア諸国と異なり、サムライの住む日本では、彼らの思惑通りにことが運ばないことを、痛感させる事件でもありました。
 
 
小松帯刀の霊を呼び出して、アヘンについて尋ねました。
 
Q「英国は、アヘンで中国清をボロボロにしてしまい、侵略の足掛かりにしましたが、あなた方が立ち上げた維新政府は、アヘンの国内持ち込みを許さなかったのですか?
 
A「英国も、アメリカもアヘンは持ち込んでいた。それは条約で持ち込みが認められていたからだ。 
しかし、全ての藩(県)には、アヘンの吸飲は行わないように通達していたし、清がアヘンで滅びることは 皆わかっていた。
 
また、一定の量までに制限されていて、それを超えると、日本側の判断で処分できるものであった。
 
だから、医療で用いられる(麻酔用)以外には、ほとんど日本国内には出回らなかったのである」
 
このように応えています。
 
Q、「なぜ、アヘンの持ち込みが制限されたのですか?」
 
「米国との最初の通商条約で、その条項をつけていた。
 
これは、条約に関わった小栗上野介がいたことと、米国のハリスが、英国に支配権を握らせないために、了解したものと思われる」
 
このように応えています。
 
これについては、その当時、アヘンを栽培できるのはインドでした。
そのインドを支配していたのは、英国です。
 
そこで、日本を支配したい米国は、英国の有利な条項にクギを刺す意味で、条約を調印したものと思われます。
 
米国と通商条約を結び、同様に西欧諸国と次々と不平等条約を締結していったのです。
 
これにより、無制限のアヘンの持ち込みには 歯止めがかかりました。
清国の二の舞は踏まずに済んだのです。
 
長州五傑(ちょうしゅうごけつ)――いわゆる「長州ファイブ」は、
 
江戸時代末期に 長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学などに留学した井上聞多(馨)、遠藤勤助、山尾庸三、伊藤博文(俊輔)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指します。
 
英国留学中は、マセソン商会の創業者ジェームズ・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話役となったといいます。
 
この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five) として顕彰碑が建てられています。そのことから、現在は山口市に顕彰碑が建てられています。
 
その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされているのです。
 
マセソンの上には、世界一の金融王ネイサン・ロスチャイルドの息子であるライオネル・ロスチャイルドがいました。
 

ライオネルやマセソンにかわいがってもらった5人の若者たちは日本に帰り、明治新政府ができた後、日本の最高指導者となります。

いわば、ロスチャイルド家当主の子分であった若者たちによって、明治の日本が作られていたことになります。

つまり―――
 
坂本竜馬を使って 敵対していた長州藩薩摩藩とを、武器を供与することで仲介し、その後の日本の発展に寄与するであろう若者たちを 養成していたのです。
 
その日本の指導者の背後に、英国のロスチャイルドが控えるという構図になります。
 
フルベッキはまた、日本の将来の礎になるであろう人材を育てて、その背後に控えている米国のロックフェラー系のフリーメーソンに関わっていると思われています。
 
英国系と米国系の両国に関わるフリーメーソンの代理として、日本の維新改革は成し遂げられた と言っていいかもしれません。
 

初めに日本と貿易を始めたロスチャイルド家代理人(グラバー)は、鎖国政策の幕府の体制が古いため、なかなか効率よく取引ができませんでした。

そこで薩摩藩長州藩などの下級武士に資金と武器を提供し、クーデターを起こさせたのです。

自分たちが教育し、支援した若者たちが幕府を崩壊させて、国を刷新したのです。

この彼らを通じて日本を支配し、有利な関係を結びます。


明治新政府はこのように創設されたのです。

彼らの駒として使われていた―――とも解釈できますが、サムライ魂が宿る日本人には、万民の代表として「日本国」を支える天皇一系による立場を強烈に支持する伝統と文化があります。
 

所詮英国(ロスチャイルド家)の後押しでできた傀儡政権ですから、その明治新政府に不満を持つ者も多く出てきます。

そこで、内戦が起きます。戊辰戦争です。


薩摩と長州を中心に作られた明治新政府を相手に、不満を持つ旧幕府軍が戦いました。
多くの悲劇を生んだ明治初期の内戦です。

ここで容量が超えましたので、「つづき」ます。