生命体エナジー浄化の会ブログ

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歴史の裏を読む 小松帯刀 3(つづき)

容量がオーバーしましたので、その「つづき」です。


調整役でもあった小松帯刀がいなくては、薩摩藩明治維新は達成できなかったかもしれません。
 
薩摩藩からは、西郷隆盛大久保利通などの幾多の英傑が生まれていますが、『維新の三傑』のもう一人 小松帯刀の存在は必要不可欠なものでした。
 
このような調整役がいなくては、大事は成し得ません。
小松帯刀は、『幻の宰相』と呼ばれる所以です。
 
幕府が、政権を朝廷に返上するという「大政奉還」の前に、土佐の後藤象二郎が、藩主山内容堂の名で、「大政奉還建白書」を幕府に送るとき、薩摩の西郷隆盛大久保利通小松帯刀に同意を取っていました。
 
坂元龍馬の発案が元になっていたものです。
朝廷は、上下二つの議政所を設けて、全ての政令をここから出すというものでした。
 
しかも、この段階では徳川家をこの組織のトップに据えていました。
だが、幕府側は、あくまでも大政奉還に反対して、幕府の元で兵制を改革して事態に備える、というものでした。
 
幕府主導で、諸藩はその指示に従うという姿勢を崩しませんでした。
しかし、徳川慶喜は、小松帯刀が同意していることを知り、大政奉還」に傾いたといわれています。
 
というのも、島津斉彬と水戸家出身の徳川慶喜は懇意であり、小松帯刀とも徳川慶喜は懇意であり、その人物を高く評価していたからだ、といわれています。
 
有名な二条城の大政奉還」を決する会議には、徳川慶喜が諸藩を集めて、薩摩の城代家老となっていた小松帯刀が、土佐の後藤象二郎と共に出席していました。
 
後藤象二郎は、この会議が物別れとなった場合には、「生きて帰らぬ」覚悟で臨んだといい、それを支えた坂本龍馬も、将軍徳川慶喜海援隊が待ち受けて、「不倶戴天の敵を討つ」とまで述べていました。
 
この席で、躊躇している幕府側の徳川慶喜に、諸藩の出席者が口をつぐんで奉答できず、ただ茫然と見ているの中にあって、小松帯刀一人が、
 
「政権を奉還することはやむなし。それが国家にとって急務である」ということを強く論じたといいます。
 
正理にかなった公の道から判断しても、公明正大の行為であることを論じた小松帯刀の進言により、幕府も朝廷に政権を返上しないわけにはいかなくなった、と言われています。
 
坂本龍馬は、大政奉還後の日本のかじを取るために、具体的な「案」を出していますが、実質的に国を動かすことになる『宰相』のポジションに、小松帯刀
を想定していました。
 
                    つつく
 
                  2019年5月11日記