生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

陸軍中野学校の果たした役割を追う 6

《 陸軍中野学校の果たした役割を追う 6 》

大東亜交流圏その6

 

 日本が、米国を相手に大東亜戦争(太平洋戦争)に至ったのは、米国により完全に石油を止められたからです。

 

日本でも、新潟には油田がありましたが、当時の日本全体の必要量の10分の一に過ぎませんでした。

 

ましてや戦争になれば、その必要量は5倍以上にもなりますので、日本としては、現在のインドネシアスマトラ島などに大きな油田地帯があり、日本としてはどうしてもアジアの石油が欲しかったのです。

 

インドネシアスマトラ島には、シェル石油のロイヤルダッチの製油所がありました。

日本がここを確保するためには、敗走するオランダ軍が、製油施設を敵に渡さないために破壊してしまう懸念がありました。

 

そこで事前に現地調査する必要があり、その命が陸軍中野学校に下されます。

そこで、陸軍中野学校の出身者が、現地調査に赴きます。

 

その結果、パレンバンの製油施設を無傷のままで確保するには、「落下傘降下」で一気にオランダ軍を排除・攻略してしまうより、他に方法はないという結論に至ります。

 

通常の攻撃を仕掛けていたのでは、敵軍が敗走する前に、製油施設を破壊して、日本軍に石油を渡すことはできないようにするのは、火を見るよりも明らかなのです。

 

この空挺作戦を実行するために、参謀本部の別動隊と共に、陸軍中野学校卒業生たちは、パレンバンの油田施設の詳細や、パレンバン市街地図、現地人の教育程度や宗教なども調査しています。

 

さらに陸軍中野学校卒業生には、精油施設の確保した後、石油施設の関連技術者や労働者を確保して、占領後に進出してくる日本軍が、施設を再稼働するのを容易にすることが命じられていました。

 

落下傘でパレンバンの製油所に降下すると、オランダ軍は350名ほどで、戦車や装甲車は出払っていることを、事前に陸軍中野学校卒業生はその情報を得ていました。

 

落下傘で降下すると、防空壕に避難していた原住民には、ビラを配りながら

「日本軍の敵はオランダ軍だ。インドネシア人は友達だ。 皆さん安心してください」

陸軍中野学校で習ったマレー語で、伝えています。

 

この落下傘部隊は、「神の神兵」と宣伝されました。

インドンネシアには、「空から白布の黄色い人が舞い降りてきて、我々を解放してくれる」という伝説があったといいます。

 

長期に渡ってオランダ人に植民地支配されていた蘭印(現在のインドネシア)では、このような伝説があったのも、日本軍がほぼ無傷で製油所を確保できたことに繋がりました。

 

では・・・・それまでの蘭印(現在のインドネシア)では、どのような状態であったのか。

 

19世紀前半、インドネシアはオランダに支配されていました。

「茶色い原住民」と蔑まれ、奴隷のように搾取される日々を送っていたのです。

 

住民同士が三人以上集まっただけで、反逆とみなされ、容赦無く撃ち殺されたといいます

植民地化されたアジアの国の中でも、オランダに支配されていたインドネシア以上に悲惨な国はなかったかもしてません。

 

町には毎日のように、暴行を受けるインドネシア人のうめき声と、それを嘲笑うオランダ兵の声が響いていた・・・といいます。まさに地獄。

 

インドネシア人を苦しめたのは暴力だけではなかったのです。
オランダは、インドネシアの「食」を破壊しました。


元々インドネシアで盛んだった稲作をやめさせ、オランダの利益になるサトウキビや
コーヒー豆を強制的に栽培させたのです。

 

その結果、主食が足りなくなり餓死者が続出します。
サトウキビでは飢えを凌ぐことも出来なければ、たいした収入にもならず、ある村では人口が1/3にまで減ってしまったというのです。


さらにオランダは、インドネシアの「教育」をも破壊しました。
当時、インドネシア人で学校に通えたのは、わずか数%…でした。


学校では、オランダ語を強制したり、体を鍛えさせないよう体育を禁止しました。
インドネシアの歴史を教えることも無くなったといいます。


インドネシア人が 知識をつけてしまえば、 厄介な反乱を起こしてくるだろう」
そう考えたオランダは、彼らを無知のままでいさせるために、教育を奪ったのです。

 

そのような統治生活が350年も続いていたのです。

 

そして―――
1942年、第二次世界大戦の真っ只中…日本軍がインドネシアに上陸しました。

 

パレンバンの石油製油所に、空から日本軍の落下傘部隊が降りてきて、アッという間に施設を制圧したのです。

 

この落下傘部隊は、「神の神兵」と宣伝されたのは

インドンネシアには、「空から白布の黄色い人が舞い降りてきて、我々を解放してくれる」という伝説があったということにつながりました。

 

シンガポールのイギリス軍が日本軍によって陥落すると、ジャワ島などの周辺の島々も、日本軍によって次々と制圧されていきました。

 

蘭印(現在のインドネシア)を植民地にしていたオランダ軍は、攻めてくる日本軍に耐え切れずに、施設の破壊命令を出していました。

 

ラジオ放送で幾度も「破壊せよ!」と命じていましたが、それよりも周波数が大きい施設のあるベトナムサイゴン放送局から、偽の情報を流していました。

 

日本軍は、ジャワ島のバンドン放送局から各地の島々にラジオ放送を流したのを、ラジオジャックして、

「こちらはバンドン放送局です。破壊命令は別命があるまで待ってください」

と流し続けていました。

 

これも陸軍中野学校の卒業生が行い成功しました。

これは―――ドイツがポーランドに電撃作戦を行ったときに、ワルシャワが陥落する数日前にドイツの挺身隊によって、ポーランドの中央情報局を占拠して、

 

ワルシャワは陥落した」との偽情報を放送して、ポーランドに大混乱を引き起こした前例がありました。

 

陸軍中野学校の卒業生は、この例に倣って、ジャワ島のバンドン放送局を占拠して、放送中断の時間すら与えずに、偽のラジオ放送を流して蘭印(現在のインドネシア)の島々を日本軍は確保していきました。

 

この偽放送は、オランダ軍が降伏するまで続けられました。

 

日本軍は、オランダを打ち破って、インドネシア統治を始めました

 

オランダの悲惨な統治を経験したインドネシア人たちは、
「あのオランダ人でさえ歯が立たなかった。 日本に占領される・・・今度はどんな酷い統治が始まるのか」と怯えていたといいます。


しかし―――
日本の統治はオランダとは全く違っていたのです。

 

インドネシアの人々は、日本の軍人と同等に扱われて、インドネシア人として必要な教育が行われていきました。


大東亜共栄圏」の思想を、文字通り実践していったのです。

自国の民は、自分の力で守り抜くとの自覚が芽生えていました。

 

そして―――目覚めたインドネシア人は、大東亜戦争(太平洋戦争)が終結して、日本軍が敗走した後に、再び戻ってきたオランダ軍を相手に、独立戦争を行います。

 

その中には、インドネシアに残って戦い続けていた日本人が、かなり多く残っていました。

インドネシアが日本を尊敬して、今でも敬っている原点がここにあるのです。

 

ビルマの独立に向けて)

ビルマ(現在のミャンマー)は、開戦直後から終戦までイギリス領ビルマで行われました。

 

このビルマ侵攻作戦の裏では、陸軍中野学校の関連機関である南機関が担当していました。

 

まず、イギリスから指名手配されている革命家の人物を、日本の羽田空港に送り、日本で革命軍の訓練をさせる―――というものです。

 

この作戦には、陸軍だけでなく海軍も関っていました。

ビルマ謀略作戦を策定しました。

 

それは、次のようなものです。

〇 将来ビルマ独立蜂起する独立運動の中心となるビルマ青年を、日本に脱出させて、軍事訓練をして、武装蜂起させる。

 

〇 軍事教育を終えた青年たちに、武器、弾薬、謀略資材及び軍資金を与えて、ビルマ国内に潜入させる。

 

〇 ビルマ国内で「反英暴動」を起こさせて、ゲリラ部隊を育てて、占領地域を広めていき、イギリス人を追い出して、ビルマ人宿願の独立を達成する。

 

イギリスの官憲、情報機関を出し抜いて、30名ものビルマ青年を、日本に脱出させるには至難の業でしたが、苦労の末に達成できました。

 

この工作員たちは陸軍中野学校の卒業生でした。

この目的達成のために、この中には現地の女性と結婚したものまでいました。

 

この日本で潜入して訓練を受けた人物の一人が、「ビルマ独立の父」となり、独立の英雄となるアウンサン将軍です。

 

現在のミャンマーの軍事政権に反旗を翻すアウンサン・スーチーは、その娘です。

 

ビルマ独立までには、その後紆余曲折がありました。

 

ビルマ青年30名の訓練から始まった武装蜂起したビルマ独立運動は、その後、東条内閣はビルマ独立を認めましたが、国家主権のない名目上の独立に反発します。

 

イギリス軍とインド軍からなる英軍を追い出すことに成功したアウンサンは、即時のビルマ独立を求めました。

 

しかし、軍部はビルマを日本軍の統制支配下に置く方向にあっために、アウンサンと衝突します。

 

そして、反日武装抗争へと発展しました。

陸軍中野学校の出身者には、日本軍とビルマ独立運動指導者との間で板挟みになっていました。

 

大東亜戦争(太平洋戦争)の終結後、アウンサン将軍はイギリスからの独立を勝ち取ります。

だが、そのビルマ独立の背景には、陸軍中野学校の出身者の活躍があったことは、確かなことなのです。

 

ビルマが独立すると、アウンサン将軍はその独立への援助をした陸軍中野学校の出身者達に、国家最高の栄誉である「勲章」を送っています。

 

 

すでにイギリスの植民地支配下で、長年苦しんいたインドを独立させた裏の働きの中に、陸軍中野学校の出身者の活躍があったことは、すでに本ブログで書いています。

 

歴史を振り返ると、大東亜戦争(太平洋戦争)の終結後―――つまり、1945年以降、米国が世界の覇者として君臨しています。

 

イギリスは、インドを失い、それ以降も次々と植民地を失っていき、「世界の三分の一を占めていた世界の覇権国家」は、没落していきました。

 

その中で、陸軍中野学校の出身者の果たし役割は、絶大なものがありました。

ある意味、イギリスを世界の覇権国家から引きずり下ろしたのは、陸軍中野学校の出身者達だったかもしれません。

 

米国は、日本という国を確保することで、その後も大きく発展を遂げています。

 

日本を進駐軍として統治したGHQによって、日本の教育を骨抜きにして、日本人の魂の基点である「天皇制」を「象徴」に変えて、

 

「日本人は、アジアの国々に悪いことをした」という自虐史観を植え付けて、今でも近隣諸国に恫喝されると、平身低頭するだけの多くの政治家を生んでいます。

 

しかし、日韓併合で韓国を日本が統治したときに、韓国の教育水準があまりに低かったので、やさしいハングル文字を導入したといいますし、まず本土の日本と同じ教育を、全国民に受けさせました。

 

韓国では、中国の属国になるか、ロシアの属国になるか、日本の統治を受けるかの三択しかありませんでした。

 

小学校までしか教育を受けられなかったのが、日本の本土と同じ教育を受けられるようになって、後の韓国大統領になった人物は、この点を高く評価しています。

 

さて、「大東亜戦争(太平洋戦争)」での日本は、大国米国を相手におよそ4年に渡り、徹底的に交戦しました。

 

わが国では、大東亜戦争(太平洋戦争)で日本のために勇敢に戦って死んでいった英霊を、心から称える教育はされていません。

 

その以前では、日露戦争で旅順要塞を陥落させた乃木希典は、英雄として全国民が尊敬して、「乃木神社」まであります。

 

しかし、大東亜戦争(太平洋戦争)で国のために戦って亡くなった英雄を称えることは、ほとんどありません。

 

しかし、日本軍と戦った相手の米国では、その戦いぶりに「畏敬の念」をすら抱いて称えることをしています。

 

そこに、世界の大国としての姿勢を伺うことができるかもしれません。

例えば、「神風特攻隊」

 

一命を賭して、砲弾を潜り抜けて艦船に突撃する姿に、多くの米国海兵部隊は戦々恐々として、それが元で精神疾患に陥った兵隊までいたといいます。

 

米国士官学校では、「カミカゼ」として今でもテキストに載せているといいます。

 

もうひとつ、大東亜戦争(太平洋戦争)で、米国が日本軍の死傷者を上回った希有の戦いがありました。

 

それが「硫黄島の戦い」です。

日米戦史に残るもので、映画にもなっています。

 

クリント・イーストウッド監督は、米国の視点のものと、日本の視点にたったものの2つの映画を製作しています。

 

父親たちの星条旗」と「硫黄島からかの手紙」です。

 

1944年8月時点での米国の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であったといいます。

台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定されていましたが、米国の統合参謀本部は台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定されました。

 

作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けらましたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることになりました。

 

1945年2月米国の海兵隊硫黄島強襲が、艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始されます。

 

当初、米国海兵隊は、5日もあれば制圧できると考えていました。

しかし、制圧までには1か月以上も要しました。

 

日本の守備隊は栗林中将(戦後、陸軍大将)を最高指揮官とする「硫黄島守備隊」でした。

その大半は、一般人で、赤紙で招集された人たちで、ほとんど軍事訓練すら受けていない集団でした。

 

日本の守備隊には、増援や救援も当初から皆無で、ただ日本の本土爆撃を遅らせる作戦に過ぎないものでした。

 

栗林中将は、地下トンネルを縦横に掘り、米軍を迎え撃ちました。

 

後に米国司令官の海兵中将は、

「栗林の地上配置は、(私の視た)第1次世界大戦のフランスで見たいかなる配備よりも、第二次世界大戦でみたドイツ国防省の配備をも凌いでいた」

と語っています。

 

大本営は、硫黄島の守備隊が玉砕したと発表しますが、その後も日本軍の散発的な遊撃戦があり、栗林中将以下最後に残った300名の日本軍の総突撃があり、散っていきました。

 

硫黄島

 

これは硫黄島の擂鉢山の頂上に星条旗を立てる姿を撮影したもので、史上最も有名な報道写真です(ピュウーリッツアー賞を受賞しています)。

 

この像が、アーリントン墓地に建てられて、海兵隊の記念碑となっています。

そして、、硫黄島の守備隊として、最後まで戦い抜いた栗林中将は

 

「これより、最後の突撃を開始する。私は誰よりも先にいる。全員、私のあとからついてくるように・・・・」

と言い残して突撃していったと伝わります。

 

この栗林中将を、米国の海兵隊では今でも「敵軍の英雄」としています。

敗戦国の一軍人である栗林中将を、

アメリカが対峙した史上最強の敵」

として、今でも米軍の畏敬の対象として、語り継がれているのです。

 

しかし、日本ではその名前すら知らない人がほとんどです。

 

「中野は語らず・・・」として、戦後生き残った陸軍中野学校の卒業生も、そのほとんどが亡くなっています。

 

大東亜共栄圏」の使命を果たし、人知れずに亡くなっています。

その昔、

 

撃墜王坂井三郎氏が生き残っていて、外国人記者クラブだったかで講演することがありました。

その中で、「あなたにとって、大戦の意義とはどのようなものですか?」と質問されたときに、

この英雄は次のように答えています。

 

「あの大戦は、意義のあるものだった。

あの大戦があったから、多くのアジアの国々が独立することができたのだし、国際連合も生まれて、小さな国であっても意見を言えるようになっているのだから・・・・」

 

一つの事実をご紹介しておきます。

 

インドネシアでは、「独立記念日」に、インドネシアの国旗とともに、日本の「旭日旗」を掲げています。

 

旭日旗」は、今でも韓国や中国が、この国旗を異常に毛嫌いしています。

 

しかし、「大東亜共栄圏」といういう欧米列強からのアジア支配から解放させて、その国の独立を勝ち取るという日本の戦略方針には、アジアの国々は今でも敬意を表しているのです。

 

私も、日本という国に生まれて、つくづく幸せだと思えています。

 

ここで、本ブログは終了するつもりでした。

 

しかし―――

どうしても、この際だから記しておこうと思い立ち、次回に本ブログの「あとがき」を残しておきたいと思っています。

 

               次回「あとがき」がつづく

 

               2023年6月20日記