生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

陸軍中野学校の果たした役割を追う 3

《 陸軍中野学校の果たした役》割を追う 3 》

大東亜交流圏その3

 

 陸軍中野学校は、1945年昭和20年8月15日の「終戦の日」をもって閉校しました。

二俣分校を含む卒業生の総数は、2500余名です(一説に2131名とされています)。

 

創立したのは1938年ですから、陸軍中野学校はわずか7年間しか存在しなかったのです。

 

しかしながら、前回見たように―――たったの3か月しか訓練を受けていなかった小野田元少尉のように、上官の命令があるまでは投降しないとして、29年間も残置諜者の活動を継続している原動力がありました。

 

なぜこれほどの原動力が生み出せるのか、どのような教育が行われていたのか、多くの謎が秘められていますが、ここに「陸軍中野学校の教え」という本があります。

 

著者は福山隆氏で、副題として「日本のインテリジェンスの復活と未来」とあります。

 

この中で、「2500名の少数精鋭だけで、大英帝国の植民地を次々と独立させて、イギリス支配を刷新した。中野卒業生は世界を変えた」と述べています。

 

それほどの業績を上げたのに、終戦とともに陸軍中野学校に関わる全ての資料が焼却されています。

 

資料を償却するのに4日もかかったというので、膨大な資料があったといいます。

「中野は語らず」という不文律があり、卒業生の多くは何も語らずに戦後に亡くなっています。

 

陸軍中野学校出身者は、その当時は民間人のように振る舞い、軍人の素振りも見せませんでした。

自分の正体は、家族にさえ秘密にしていました。

手紙の宛先も「陸軍省兵務局防衛課着付」でした。

 

学生の宿舎は任務別に区別されて、互いの往来は禁止されていました。

スパイ組織では「芋づる式に逮捕」されるのを防止するためです。

 

生き残った中野卒業生は、固く口を閉ざしたまま、その多くが他界しています。

そこで少しでも閉ざされた歴史をあぶりだすために、本シリーズを開始したのです。

 

さて―――

終戦の日」をもって陸軍中野学校は閉校しましたが、その一部はそれ以降も活動を継続していたとみられています。

 

米国の占領軍が日本に上陸してきたら、ゲリラ攻撃を計画していたといわれます。

 

しかし―――

天皇陛下自らの終戦宣言をラジオで放送されたことから、この計画は頓挫しました。

 

だが、中には身分を偽装して進駐軍GHQの内部に潜入して、内部攪乱を図った者もいました。

 

なかでも田中徹雄大尉は、マスコミに報道されて有名になりました。

後に山梨県副知事などを歴任しています。

 

田中徹雄氏は、終戦直後の上海で「濱口幹子」と名乗る女性が娘を連れて上海市内の公館に拘束されていることを知りました。

 

調べると、実は満州国皇帝・溥傑夫人であることが判ります。

彼女を放っておくと川島芳子のように戦犯として処刑されると判断した田中は、単独で救出することを決心します。

 

一人でクルマに乗り公館の裏から忍び込み、溥傑夫人を娘と共に救出します。

このとき警備の中国兵が発砲しますが、クルマを飛ばして逃亡に成功します。

 

そして、上海からの最後の引き揚げ船に乗って佐世保に着き、実家のある横浜市日吉まで送り届けています。

 

因みに、川島芳子とは、清朝の皇族・愛新覺羅顯玗(あいしんかくら けんし)のことで、「男装の麗人」として知られた人物で、終戦後中国国民軍に捕まり処刑されています。

 

また、進駐軍GHQの対日工作機関「キャノン機関」の破壊にも、陸軍中野学校の出身者が関わっていました。

 

「キャノン機関」とは、GHQの対日工作機関で情報部門を統括する「スパイ組織」です。

日本人の工作員を傘下に入れて、戦犯免除と引き換えに協力者にしたといわれています。

 

米国とソ連の対立が顕在化してきて、北朝鮮朝鮮半島での対立が高まってきて、日本の共産主義勢力の弱体化にも利用したといいます。

 

「キャノン機関」の関与が疑われた国鉄三大ミステリー事件「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」にも関わったとされています。

 

また、ある作家を拉致監禁して、逆スパイになることを強要して、その事件が発覚して

「キャノン機関」は解散します。

 

このような一連の問題に、陸軍中野学校の出身者が関わっていたといいます。

その後本国に帰っていたキャノン少佐は、自宅で遺体で発見されています。

 

陸軍中野学校の教え」(著者福山隆)には、

中野学校の設立が、もし15年、少なくとも10年早ければ、日本の歴史は変わっていたのではないかと思う」とあります。

 

どういうことなのか―――

 

ソ連・ロシアには、世界中に共産主義者がいて、情報を提供しています。

ユダヤ人も、世界各地にユダヤ系の民族がいますので、互いに情報を提供しています。

中国にも、世界中に中国人街が形成されて、華僑からの情報がもたらされます。

 

しかし、日本の場合、多くの情報は大使館や一般企業の現地派遣社員からのものが大半を占めています。

 

もっと早く、このような情報を得るシステムを形成するために、日本にもこのような組織が造られていたら、日本を取り巻く世界の情勢は変わっていたのかもしれません。

 

「敗者(ソ連・ロシア)は学び、勝者(日本)は学ばず」という言葉があります。

日露戦争では、明石元二郎大佐がロシアの内部工作を進めて、近隣諸国の独立をあおり、国内にクーデターを引き起こしたことから、日本は日露戦争に勝利をしました。

 

これを契機としてレーニンスターリンは、明石元二郎大佐から諜報・謀略の大切さを学んで、日本にリベンジしなくてはならないと決意させています。

 

一方、日本では情報軽視の体質がありました。

戦国時代から、情報、謀略などの背後で活躍する「諜報者(忍者)」の地位は低いものとしてみられていました。

 

武士として正々堂々と戦わず、背後で暗躍する集団を重要視はしていましたが、「スパイ軽視」の風潮で重くはみていませんでした。

 

それというのも、徳川時代に「武士道」の規範が制定されて、

「武士たるもの人の秘密を覗いたり、情報を盗み取ることは諌めるべきである」

としたのです。

 

これは幕府安泰のために、忍者を重用した徳川幕府の方策でしたが、この考え方が根強く残っていたのです。

 

明石元二郎大佐も、日露戦争後も日本軍の中では「スパイ軽視」の風潮が根強く、明石は左遷されています。

 

現在の自衛隊の中でも、「情報分野」には、二流、三流の人材が行くものであるとの風潮があるといいます。

 

しかし、世界では逆です。

情報は一流の人間が付く仕事であるとされているのです。

 

まず、陸軍中野学校の創設に尽力した人物について記しておきます。

 

3人の中佐が中野学校の創設に関わっています。

まず、岩畔中佐です。

岩畔豪雄中佐が、総責任者です。

 

岩畔中佐は、1941年の日米交渉に関り、この日米交渉で岩畔中佐と接した米国の国務長官ハルは、

「あれほど優秀な部下がいたら、どんなに助かるだろうか・・・」

と語っていました。

 

「謀略の岩畔」の異名について、「表面的には何事も起きていないように物事を進めるべきで、『謀略』というよりも『工作活動』というべきだろう」と語っています。

 

具体的な活動としては、1936年に外国大使館の電話盗聴や郵便検閲、さらには偽札製造などにも従事しています。

 

その後、中国国民党蒋介石に対抗する人物・汪兆銘(おうちょうめい)を支援して、日中関係を重視する親日政権を樹立する工作に従事しています。

 

さらに、インド工作の特務機関である岩畔機関を立ち上げて、自由インド仮政府の樹立に向けた工作を行って、インドの独立に備えていました。

 

また、軍人として取るべき行動規範である「戦陣訓」は、岩畔中佐が発案したものであるといいます。

 

もう一人の中佐は秋草俊中佐で、ハルビン特務機関で諜報活動に長く従事して、ソ連専門家となっています。

 

陸軍中野学校の前身である「後方勤務要員養成所」の初代所長で、ドイツに赴き、ドイツが後にソ連に侵攻した際にも、ロシア(ソ連)の情報をもたらしていたといわれています。

 

秋草中佐は、関東軍情報部長(ハルビン特務機関長)で終戦を迎えますが、逃亡を薦める部下の進言を断り、ソ連に抑留されています。

 

秋草中佐は、対ソ連諜報のトップであり、ソ連軍は昼夜を分かたぬ厳しい尋問を行ったようです。

終戦4年後の1949年に獄死しています。最終階級は、「少将」でした。

 

では、どんな人物が陸軍中野学校で選別されるのか。

これいついては、ハーバード大学エズラ・ボーゲル教授の言葉があります。

 

ボーゲル教授は、米国の社会学者で「ジャパン・アズ・ナンバーワンーーアメリカへの教訓」の著者です。

 

その教授は、次のように語っていたといいます。

 

「CIAは、常に二重スパイの裏切りに悩まされてきました。

そのために、最近ではモルモン教徒を諜報要員にリクルートしている。

なぜか―――

厳しい戒律を実践するモルモン教徒は、人や組織を裏切らない。

 

同様の理由で、モルモン教徒はアメリカの企業のお金に関する部署に採用されている。

18歳から25歳の若い時代に、約2年間のボランティア宣教師として、世界各地で布教活動を行っている。

その間に、その国の文化や歴史なども学ぶので、CIAがリクルートするのに適しているのです」

 

敵陣に捕まって、相手に取り込まれていますと、二重スパイとなり、これが最も大きな脅威となるのです。

 

では、陸軍中野学校ではどのような人物を集めたのか。

 

諜報活動に就く者は、広い知識と柔軟性、融通性が必要です。

そのために、まず陸軍予備士官学校出身の将校が適任とされました。

 

例えば、終戦直前では150名がいて、その90%が一般の大学出身者でした。

東京帝国大学が最も多く、次いで拓殖大学東京外国語大学、早稲田、慶応でした。

 

なぜ、拓殖大学生が多かったのか。

学長に新渡戸稲造(武士道の著者)がいた影響もあるようです。

 

なぜ一般大学の出身者が選ばれたのか。

陸軍士官学校出身は、軍人としての規律や高度な軍事知識は身についていますが、その知識や慣習は一般の社会人とは偏っているため、判断を誤る恐れがあると思われたのです。

 

態度にも軍人らしい雰囲気が出てしまうために、商社マンや新聞社通信員などの民間人を装っての諜報活動では妨げになると考えられたのです。

 

また、諜報の任につけば、出世も名誉も捨てて、裏社会の中に身を潜めて、国家のために尽くすことになります。

 

「強い自覚」と「お国のために」という誠の精神がなければ、務めて成し得ない過酷な任務なのです。

 

陸軍中野学校には、「甲種学生」から5つの分類がありました。

就業期間は2年間です。

 

最上位の「甲種学生」は、「乙種学生」「丙種学生」を経て、秘密裏に実践を体験した優秀な将校を対象としたものでしたが、陸軍中野学校は7年間しか存続しなかったので、実質採用されずに終わっています。

 

また戦争末期には、就業期間は1年間ないし8か月になっていました。

ルバング島に29年間潜伏して活動を続けていた小野田元少尉は、二俣分校で3か月間しか訓練を受けていませんでした。

 

ついでながら―――

小野田元少尉は、日本国政府から見舞金として100万円を贈呈されますが、これを拒否しています。

 

また、全国から寄せられた見舞金、義援金の全てを、戦没者の御霊が眠る「靖国神社」に寄付しています。

 

さらに、昭和天皇への謁見も断りました。

というのは、昭和天皇が自分に謝罪するようなことになっては、大変に無礼であるとしていたからです。

 

「国のため、天皇のために戦い続けた自分」に対して、もしも天皇陛下様が「謝罪」などすることになれば、とても恐れ多いことだと考えたからです。

 

 

陸軍中野学校は、大東亜戦争(太平洋戦争)が悪化してきて、修業期間が短くなっていきました。

1年間だったものが、10カ月になり、8カ月になりました。

 

それというのも諜報要因の需要が増えてきて、育成に急を要したことになります。ななぜか―――

 

ミッドウエー海戦で日本は手痛い敗北をきっして、ガタルカナルの大敗を期に、日本軍はどんどん後退していき、日本軍は守勢に転じざるを得なかったことに一因があります。

 

態勢を挽回するために、

〇 敵の攻撃を遅らせ

〇 敵を消耗させて

〇 立て直しの時間を稼ぐ

ことが求められたのです。

 

そのために

〇 陸軍は遊撃戦(ゲリラ戦)も採用することにした

〇 遊撃戦(ゲリラ戦)は、正面から戦っても勝てないので、敵の背後や側面から攻めたのです。

 

ニューギニアの戦場において、中野卒業生と台湾の高砂族が協力して、米国、英国、オーストラリアの軍隊と渡り合ったことがあります。

 

そのとき、高砂族は「靴を脱がせてくれ。軍靴が重すぎる。裸足になりたい・・・」と言って、音もなく敵兵の背後に忍び寄り、銃ではなくナイフで刺殺したといいます。

 

この時の戦闘記録をもとに「遊撃戦の参考」というマニュアルが作られて、その後開校した二股分校では、遊撃戦教育が行われました。

 

この教育は、大本営のある松代の防衛や、沖縄戦を含む本土決戦を想定してのものであったのです。

 

大東亜戦争(太平洋戦争)の末期に想定した沖縄戦、本土決戦の遊撃戦は、イラクアフガニススタンでのゲリラ戦に似ています。

 

米軍は、初戦では圧倒的な戦力で敵を制圧しますが、その後の占領統治では、ゲリラ戦になって、多くの米兵が殺傷されて、苦戦を強いられました。

 

天皇陛下のご聖断によって、本土決戦は回避されましたが、日本本土に進駐軍が進行してきて、最高司令官であるマッカーサー占領政策が許容出来ないものであれば、

 

陸軍中野学校の卒業生の中には、マッカーサーの暗殺やゲリラ戦の準備を行っていたといいます。

 

このことは、実際に起こり得ることだったかもしれません。

 

陸軍中野学校では、本当に使用されていたら、米国本土に大きな被害を及ぼすことになっていたかもしれないものもありました。

 

陸軍中野学校は、特務機関などに必要な諜報要員を養成して、また供給する機関ですが、その中野学校に様々な資材、機器を提供する登戸研究所がありました。

 

スパイ用の無線機や不法電波探知機、携帯用録音機、紫外線・赤外線型秘密インク(秘密文書を敵に見つからずに渡すために、紫外線・赤外線を当てると浮かび上がる特殊インク)、時計式時限爆弾、万年筆型偽装拳銃、夜間撮影用写真機、毒針を仕込んだ万年筆(敵の殺傷用、自分の自殺用)など・・・。

 

不法電波探知機は、日本でスパイ活動を行っていたゾルゲを摘発する決め手になりました。

 

この登戸研究所が開発したのが、「風船爆弾」です。

太平洋を横断して、アメリカ本国を攻撃するために開発されたものです。

 

終戦まじかで、本土決戦が迫っている時期に、「風船爆弾」は完成していました。

参謀本部では、生物兵器の使用も考えていました。

 

炭疽菌(たんそきん)」「ペスト菌」の搭載を想定していました。

実際には、「牛痘ウイルス」20トンを製造して、使用可能な状態まで完成していました。

 

天皇は、「風船爆弾」の作戦自体は許可しましたが、「細菌」「ウイルス」の搭載は許可しませんでした。

 

風船爆弾」は、和紙とコンニャク糊で造られたもので、9300発が発射されましたが、その10%程度が本土に到着しています。

 

原爆製造の工場の送電線にひっかかり、停電を引き起こしましたが、予備発電に切り替えられて、大きな被害にはなりませんでした。

 

米国本土の直接攻撃を仕掛けたのは、この「風船爆弾」と、巨大な伊15型潜水艦から発進した小型水上飛行機で、2回焼夷弾を投下させたものだけでした。

 

民間人の大量虐殺を狙った原爆投下への、ささやかなリベンジでした。

 

もしも・・・・この「風船爆弾」で「牛痘ウイルス」や「炭疽菌」などの投下を行っていたら・・・・、米国本土は、現在のコロナウイルスのような大騒動になっていたのかも・・・・しれません。

 

そうならなかったのは、天皇陛下が「報復には、報復の連鎖が始まり、日本の未来には決してよくないことが起こる」と英断されたのは、今思うと正しい判断だったかもしれません。

 

             つづく

 

           2023年4月11日記