《 陸軍中野学校の果たした役割を追う 5 》
大東亜交流圏その5
前回の本シリーズの中で、陸軍中野学校での教えの特徴として、
「個人の地位や名誉、そして命もいらない、国のためであれば『埋め草』になれる」
というものがありました。
「いらぬは手柄 浮雲のごとき意気に感ぜし人生こそは 神よ与えよ万難我に」
とあります。
そこから、西郷隆盛の「遺訓集」が思い起こされて―――
「命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は 仕末に困るものなり。
この仕末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
という有名な言葉に行き当たりました。
まさに、国のためであれば『埋め草』になれる覚悟が、この歌から見えてきます。
陸軍中野学校のもう一つの教えの特徴は、「民族解放の戦士」を養成することでした。
これは、欧米の白人たちがアジアに進出して来て、各国を占領して植民地化した政策から、日本が解放する「大東亜共栄圏」を具体化するものでした。
このことが諜報・謀略の目的とされたことは、南方作戦の「大義・聖戦」の旗印になるものでした。
このようなことについて、前回は書き綴っています。
今回は、いよいよこれらが どのような経過で実践されていったのかを、書いていこうと思います。
そして、陸軍中野学校のいう「謀略は誠なり」の真価を伝えていこうと思います。
「寺子屋方式」とは―――
教官による一方的な講義ではなくて、教官と学生とが議論を重ねながら学習して、研究を進めていく方式です。
「松下村塾」で吉田松陰がたった2年間で、明治維新を引き起こす志士たちを輩出した方式と同じです。
毎日が試行錯誤を連続で、そのような中で考え、議論を積み重ねていく中で優秀な人材が育っていきました。
特に一期生では18名の少数精鋭だったこともあり、全員が寝食を共にして、切磋琢磨したので、多くの優秀な人物が育って行ったといいます。
これは―――福沢諭吉が学んだ「適塾」の指導方針とも似ています。
「適塾」とは尾形洪庵が開いた私塾で、「蘭学」を中心に蔵書を解読することが中心で、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨して研鑽することで、「松下村塾」に似ています。
「適塾」には、日本国中から勉学に励みたいという人材が集まりました。
橋本佐内(安政の大獄で処刑された。西郷隆盛も一目置いた逸材)や佐野常民(日本赤十字社初代総裁 )、あるいは大鳥啓介(蝦夷共和国の陸軍奉行。学習院院長。駐清公使)、さらには手塚良仙(手塚治虫の祖祖父)などがいます。
最後の「塾頭」は、柏原学而で、緒方洪庵病没後、徳川慶喜の侍医となった人物です。
ここでは、「塾頭」になることが争われて、福沢諭吉は「塾頭」の席を守るために、その席でひたすら勉学に励みました。
その席で寝て、その席で食事を摂り、ひたすら勉学に励んだといいます。
また、やはり「塾頭」の一人であった大村益次郎は、長州藩にあって、本土から攻めてくる幕府軍を、ことごとく殲滅して、徳川幕府の権威の失墜を招き、大政奉還に至らしめた一方の英雄でした。
一介の長州の村医者から適塾の「塾頭」にまでなり、倒幕軍の総司令官としての活躍を描いた司馬遼太郎の「花神」を読んで、ここまで当時の人は飽くなき勉学に励み、日本の将来への礎とならんとした心意気に打たれたことがありました。
では、陸軍中野学校では、どのような教育がされていたのか。
その具体的な教育内容は、次のようなものでした。
諜報――相手側の意図や動静を探ること。つまり「スパイ活動」
謀略――相手側を不利な状況にするような工作を行うこと
防諜――相手側のスパイ活動を察知して、事前に摘発、防止すること
宣伝――一方的な情報を流して、相手側を混乱させること
占領地行政――支配下に置いた領域、領民に行う統治活動
これに加えて、後に「本土決戦」に向けて、
遊撃戦――ゲリラ戦
が加えられました。
この中にある「宣伝――一方的な情報を流して、相手側を混乱させること」については、『陸軍中野学校の教え』(福山隆著)には、実例が示されています。
日本軍が渇望していた石油獲得のための作戦で、インドネシアのジャワ島にある弱小のラジオ局の電波を乗っ取り、偽情報を流したものです。
オランダが植民地支配するジャワ島の石油施設、機材などの破壊を阻止するために、
「破壊することは、別命あるまで待ってください」「撤廃令は取り消します」
などの強い電波で放送して、
オランダが「先ほどの破壊中止命令は、日本側の偽放送です」と躍起になって打ち消しましたが、出力の差で日本の謀略放送には太刀打ちできませんでした。
この作戦は、陸軍中野学校二期生の発案で実施されたものです。
では、実際の教育内容には、どのような科目があるのか。
これは多岐に亘ります。
戦争学、外国事情及び兵要地誌(英国、米国、独国、仏国、支那、蒙古その他)、政治学、経済謀略・政策、思想・労働問題など
さらに
外国語として、英語、ロシア語、支那語など
さらに
武術として、剣術、柔術。細菌学、薬物学、心理学、忍術、法医学など、多岐に亘ります。
武術は、柔道よりも一撃必殺の効果の高い「植芝流合気道」が必修科目とされました。
我々が知る「合気道」は、互いに技をかけ、かけられるものですが、実践的な敵を倒すための「合気道」ですので、相手の骨を折り、気絶させるレベルのものです。
スリの名人からの特別講義も受けています。
服役中のスリの名人を招いて、相手の財布から中身を抜き取る神技を見せられて、受講生も驚嘆したといいいます。
また、「忍術」とあるのは、甲賀流忍術十四世名人の「藤田西湖」が教師に招かれていました。
私は、この方の自伝書を読みましたが、実に面白い内容でした。
ヤクザに逆恨みされて、そのヤクザに付け狙われますが、自分からそのヤクザのもとに行き、そのヤクザが持っていた短剣を出させて、肉を切るには「こうするのだ!」といって、自分の太ももに突き立てて抉り取ったことがありました。
そのヤクザは恐れ慄いて、平身低頭して逃げ去ったといいます。
藤田西湖は、実際に諜報活動にも従事したといいます。
そして、忍者の覚悟について
「死は卑法な行為であり、生きて生き抜いて任務を果たすのが務めである」
と、教えました。
金庫のカギを針金一本で開錠する試験もあり、皆高い技量を持っていました。
また、
仮装、偽装の講義もあり、絶世の美女(実は男)から変装方法なども教わっていました。
軍用犬の追跡をかわすために、瓶詰にした雌犬のフェロモンをばら撒いたり、川を横断することで匂いを消す技法なども教わりました。
さらにまた、
日本軍は、偽札を製造する特殊な機関や麻薬に関わる機関など、いくつもの「特務機関」がありました。
日本の政治の背後で暗躍した児玉誉士夫の「児玉機関」もありました。
戦後のどさくさの中で、1億7500万ドルもの資金を持ち出して、戦後の政治を背後で操っていた人物です。
右翼の大物で、CIAのエージェントでしたが、決して表舞台には立たず、背後で日本の政治を操っていました。
今の自由民主党が国政に進出する背後で、資金を提供していた男です。
田中角栄元首相が逮捕されたときに、表舞台に引きずり出されて、様々な裏工作に関わっていたことが暴露されました。
このような様々な「特務機関」がありましたが、日本の諜報活動について、「太陽の沈まぬ国」といわれて、世界の三分の一を占める国を植民地にしてきた英国は、
戦後、 日本の諜報機関について徹底的に調査を行いました。
というのは―――
英国のように、伝統ある諜報機関もなく、にわかづくりの日本の諜報機関の秘密を知りたかったのです。
「情報に疎い日本が、英国のような歴史のある優れた諜報機関もなく、戦争開始の直前になって、諜報員養成所(陸軍中野学校)を立ち上げたのに、
にわかづくりの諜報・工作を行っただけで、後にインド独立に繋がるインド国民軍を作り上げて成功を収めることができたのは・・・なぜか?」
という疑問を持っていたからです。
その当時、クアラルンプールの刑務所に拘束されていた藤原岩市少佐に、
「あなた(藤原少佐)は、もともと情報系の人間でないし、参謀本部の情報・宣伝・防諜業務には、短期間しか関わっていない。
秘密工作や特殊工作の訓練も受けていないし、実務経験もない。
マレー語も話せないし、事前にマレーやインドの地を踏んだこともなければ、現地関係者との人脈もなかった。
部下の陸軍中野学校出身者も、海外勤務の経験もなければ、この種の実務経験もほとんどない、いわば素人の若輩将校だった。
それなのに、驚くべき成功を収めたのは・・・なぜか?」
このような質問がされました。
これに対して、藤原少佐は次のように答えています。
「(世界大戦の)開戦直前に、何の用意も準備もなく、しかも貧弱極まる陣容で任務に就いたとき、すでに英国、オランダの植民地経営は成功していた。
だがその実態は、現地の住民を無視して、貧困を放置して、圧迫と搾取が目的とされていた。
民族の独立と自由への悲願を抑圧していた。
人間愛が乏しく、思いやりも何もない。
我々は、この弱点を衝き、至誠と純粋な人間愛と情熱をモットーとして、民族解放運動を実践・支援したのである。
これが成功の要因だと考える」
この言葉に、英当局は唖然としたといいます。
これこそ、陸軍中野学校でいう「謀略は誠なり」の精神のなせる業であろうと思います。
この「誠」の精神は、キリスト教文化の基盤に立つ欧米はもとより、ロシアや中国の諜報との根本的に相違するものだと考えられるのです。
このことを、もう少し詳しく説明します。
この藤原岩市少佐とは陸軍中野学校の教官をしていた人物ですが、諜報の専門家ではなかったといいます。
藤原少佐は、大東亜戦争(太平洋戦争)の当時、山下奉文率いる南方作戦に協力した陸軍の「F機関」と呼ばれる特務機関を統率していました。
この「F機関」は、陸軍中野学校出身者を中心にした小規模の組織で、増強された後でも30名足らずの小さなものでした。
「F機関」に与えられた任務の一つに、英国、オランダなどの植民地支配下におけるマレー人、インド人、華僑などを味方につけることも、重要な任務の一つでした。
大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦以降、藤原少佐は「大東亜共栄圏」の夢に向かい、実直にその実現に邁進しました。
日本軍は、破竹の勢いでマレーに進撃する中で、英国軍の一大隊がマレー半島の西岸の町で退路を断たれて孤立していました。
その大半は、英国の植民地だったインド人兵士でした。
その中に、藤原少佐は一切の武器を捨てて、大隊の中に入っていきました。
そして、真剣に投降することを勧めます。
そして―――
約200人のインド兵が投降します。
その投降した大隊の中に、中隊長のモーハン・シン大尉がいました。
そのモーハン・シンの主導で、インド国民軍が創設されます。
日本軍は、このインド国民軍を支援する約束が交わされました。
英国人にインドは植民地支配されていて、「絶対に白人には敵わない」と思われていたのが、同じ黄色人種の日本人が、英国軍を降伏させていくのを目のあたりにして、
「我々でも英国軍を打ち負かすことができる。独立することができる」と気づかされて、
その後インド国民軍は、5万人近くに達しました。
というのは―――
藤原少佐とモーハン・シン大尉は信頼しあう中になっていました。
日本軍が、インド人兵士の心を捉えた経緯については、インド兵捕虜とF機関との合同食事会について、モーハン・シン大尉は次のように述べています。
「勝利軍である日本軍が、敗戦のインド兵捕虜、それも下士官、兵士まで加えて、同じ食事で会食をするなどとは、英軍の中では夢想だにできなかった。
藤原少佐の、勝者、敗者を超えた、民族の相違を超えた、温かい催しこそ、インド兵一同の感激であり、日本のインドに対する心情の、千万言にまさる実証である」
勝者が、敗者を同じように会食をしてもてなすなど、少なくとも白人国家では考えられないものと思われます。
この藤原少佐の「F機関」と、その中に多くの陸軍中野学校出身者がいたことが、「大東亜共栄圏」を掲げて、「謀略は誠なり」の陸軍中野学校の精神を実践したことが、この根底にあります。
モーハン・シンの主導で、インド国民軍が創設された後、日本軍はシンガポールを占拠します。
このシンガポールの英国軍の中には、多数のインド兵がいました。
シンガポールを陥落させた日本軍の藤原少佐は、その翌々日にインド兵捕虜5万人を前に説得工作のスピーチをします。
「日本軍は、インド兵諸氏が祖国解放のために忠誠を誓い、インド国民軍への参加を希望するのであれば、捕虜の扱いを止め、諸君の闘争の自由を認め、全面的に支援をする」
これにより、英国の植民地となり、動物並みの扱いを受けていたインド兵は、祖国解放のために忠誠を誓い、インド国民軍への参加を決めたのです。
インド国民軍は、その後はいくつかの経緯を経て、日本の敗戦が決まるとともに、英国はインド国民軍を見せしめの意味もあり、徹底的に叩きます。
が、それに怒った世論が沸騰して、各地でデモが勃発します。英雄のインド国民軍を見捨てませんでした。
これに同調して、英国軍の艦船をインド人が占領します。
20隻の全ての艦船を乗っ取り、武器庫も押さえます。
これで日本との大東亜戦争(太平洋戦争)に勝利した英国軍ですが、インド独立を承認します。
ガンジー、ネール、チャンドラ・ポーズなどにより、長い英国の植民地支配から脱しました。
まさに「大東亜共栄圏」を掲げて、「謀略は誠なり」の陸軍中野学校の精神を実践したことが、インド独立の原動力を生み出したことになります。
さて、「F機関」の藤原少佐ですが、英領マレーで強盗団のボス(首領)として活躍していた谷豊に目をつけます。
この谷豊とは、その昔テレビドラマで「怪傑ハリマオ」のモデルとなった人物です。
今でも覚えています―――
「真っ赤な太陽 燃えている・・・・果てない南の大空に・・・・」
この主題歌は、なぜか今でも心に残っています。
私のような団塊の世代には、なつかしいドラマでした。
その「怪傑ハリマオ」は、福岡県に生まれて、二歳のときに一家でマレー半島に移住しています。
その後、祖父に預けられて日本の尋常小学校に通います。
卒業後、マレーに戻りますが、20歳のときに日本に戻り、徴兵検査を受けますが、身長が足りずに、戦時の必要なときに召集される丙種合格だったといいます。
それで日本の企業に就職するが、満州事変で怒った華僑がマレー半島に住んでいた妹を殺害します。
それで「怪傑ハリマオ」谷豊は、単身マレーに戻り強盗団を結成して、華僑を次々と襲い、懸賞金20万ドルがつけられていました。
そして部下の一人がタイで無銭飲食をして捕まります。
それを谷豊は、身柄引き取りに行きますが、自分が捕まってしまいます。
その谷豊を「F機関」が救い出して、日本軍に協力することを依頼します。
だが、最初は拒否されますが、「F機関」所属の唯一の一般人であり、陸軍中野学校出身者の説得に応じて、その人物がイスラム教に帰依すると約束したことから、日本軍に協力します。
そして「ハリマオ強盗団」は、英国軍の要塞構築の妨害工作を行ったり、英領マラヤとタイ国境に構築された防御陣地から敗走する英国軍が橋に仕掛けた爆弾の解体や、通信線の切断などの活動をして、日本軍の活動に寄与しています。
日本軍がシンガポールを攻略して1か月後に、谷豊はマラリアで命を落とします。
享年30歳でした。
この「怪傑ハリマオ」谷豊は、日本には何の恩義もなく、イスラム教徒として英領マレーで活動していたのが、陸軍中野学校出身者の説得に応じたのも、「謀略は誠なり」の陸軍中野学校の精神が背後にあったことが理解できるのです。
このことは、大東亜戦争(太平洋戦争)での日本軍の活躍が、白人種の植民地支配から脱する起点になったのです。
日本軍の活躍がなければ、もしかしたら未だにアジアの人民は欧米の白人支配から脱却できなかったのかもしれないのです。
では、この大東亜戦争(太平洋戦争)での日本軍の活躍で目を覚ましたアジアの諸国が、いかにして大戦後に独立を果たしていったのか、またそれを裏で支援した日本軍、陸軍中野学校出身者の果たした役割に焦点を当てていきたいと思います。
つづく
2023年5月23日記