《 陸軍中野学校の果たした役割を追う 7 あとがき 》
あとがき
本ブログ「陸軍中野学校の果たした役割を追う」シリーズの最後に、書き留めておきたいことがありますので、それを残しておきたいと思います。
追記―――
彼は、情報機関を毛嫌いしていました。
それで、米国の情報機関を全て解散させました。
その情報機関が現在のCIAに受け継がれるまでに、2年間の空白期間があったのです。
そのために、進駐軍GHQの最高司令官のマッカーサーの元にも、十分な情報が届かなかったのです。
その間、中国では毛沢東と蒋介石が衝突して争っていて、朝鮮半島では北朝鮮の金日成が南朝鮮の支配を狙っていました。
マッカーサーは、元陸軍中野学校の卒業生らに情報提供を呼び掛けたのです。
そして、朝鮮戦争が始まる2年も前に、北朝鮮から物資を運ぶトラックが連日やってくるという情報が伝えられました。
しかし、その情報は放置されました。
その後、実際に朝鮮戦争が始まり、金日成は朝鮮半島に侵攻しています。
そして、朝鮮戦争が開始されて、日本はその特需で景気を回復することができました。
その朝鮮戦争を契機として、GHQの最高指令長官ダグラス・マッカーサー元帥は、米国の議会で次のように述べています。
「実際に日本という地政学的な立場にたつと、朝鮮半島の問題は、日本にとって最大の問題であることが解った。
日本は、地政学上 朝鮮と中国との対峙を余儀なくされている。
つまり、日本が中国大陸に進出したことは、地政学上 致し方なかったものと思われる・・・」
このように述べています。
日本が支那事変を起こしたことは、致し方なかったという立場に立ったのです。
日本は、満州国を手にしました。
この満州国で、ユダヤ系の人々迎い入れて、当時の満州国は 世界的にも大発展する要素が大きかったのです。
しかし、中国軍の罠にはまり、ユダヤも逃げ去り、支那事変から、やがて対米相手の第2二次世界大戦へと踏み込んで行ってしましました。
地政学的には、絶対に対米戦争は避けるべきことは解っていましたが、そして本ブログでも書いているように、対英戦争、対オランダなどを相手として当初からアジアに進出していれば、
後に英国首相だったチャーチルが回顧しているように
「定石通り行っていれば、あの戦争は・・・・日本が勝っていた・・・」
と、いうことになっていた可能性が高かったのです。
しかし、どうしても「戦争がしたくてたまらなかった」ルーズベルト米国大統領の策略にはまり、山本五十六は真珠湾を攻撃してしまいました。
そこで、この北朝鮮について述べておこうと思います。
戦後まもなく、「日本を滅亡させる!」をスローガンにした組織が誕生しています。
その組織は奈良で誕生して、やがて日本全土に広がっていきました。
それは、「反日思想」「反日教育」をすることで、日本人の各世代を通じて教育の現場から、「日本を滅亡させる!」ことを実践していきました。
戦後、「強い日本を二度と見たくない!」として、GHQはそれまでの教育から改革しました。
「日本は大戦でアジアの諸国に悪いことをした」「侵略した」という自虐史観を植え付けて、教育の現場から多くの学者や文化人を追放する公職追放を行いました。
その後に入ってきたのが、共産党系や誤った歴史的な事実に基づかない教育を受けた日教組の人たちです。
「日本を滅亡するために、反日思想で日本人を洗脳する」ことをスローガンにして、日本の教育現座に根付いていきました。
現在の教育現場では、5人に一人が日教組に加入していると云われています。
この日教組の背後には、北朝鮮の金日成から連なる一族がいます。
戦後70年以上が経ち、親の代から孫の代まで移り変わってきた今でも、歪んだ反日教育が伝わってきていますので、日章旗の掲揚を拒絶する教師がいまだに多くいるのが現状です。
大東亜共栄圏の思想に基づき、戦い抜いてきた日本人の先人たちには、心から申し訳ない気持ちがあふれます。
もう一つの「追記」を残しておくことで、戦後の日本人から忘れ去られた「英霊」について述べておきたいと思います。
1945年8月15日に大東亜戦争(太平洋戦争)は終結して、日本は無条件降伏をしました。
天皇陛下のラジオでの「終戦宣言」を全国民が受け入れて、武装を解除しました。
もし―――天皇陛下の言葉がラジオから流れなかったら、日本の軍人は、最後の最後まで徹底的に交戦していた可能性がありました。
陸軍中野学校の卒業生たちも、ほぼ全員が徹底的に交戦する「ゲリラ戦」を展開するつもりであったといいます。
その当時の「天皇陛下」は、国の象徴ではなく、「神」として皇国日本を率いる絶対的な君主でした。
しかし―――
ソ連のスターリンは、日本が終戦宣言をして、武装解除を行った2日後に、突如として「北海道を占領」しようとして、攻撃を開始してきたのです。
大東亜戦争(太平洋戦争)の集結が近づいてきて、もはや日本の敗戦がほぼ決まりかけていた時に、
突如として「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して、日本に攻め込んできたソ連です。「卑劣極まりない」ことをしでかすのは、当然なのかもしれません。
ついでながら―――
ロシアは、ウクライナに一方的に戦争を仕掛けましたが(理由はありますが・・・)、江戸時代の幕末にも、ロシアは突如として北海道に攻め込んでいます。
北方領土である択捉島にロシア艦隊がやってきて、略奪を開始します。
すぐに江戸の幕府軍も応戦しますが敗れます。
しかし、交渉の過程でロシア艦隊の艦長を人質にとります。
怒ったロシアは島民を人質に取りました。
幕府は断固として引き下がらず、最後にはロシアが折れて、互いに人質を交換して、ロシア艦隊は去っていきました。
これは、ペリーが来航する40年前の話です。
この話は教科書にも載っていません。
さて―――
北方領土である「占守島」で守備をしていた日本軍も、すでに武装解除していました。
そこに突然ソ連軍が攻め込んできたのです。
このとき、武装解除をして、武器も廃棄していました。
前線の守備隊の日本兵には、武器弾薬もほとんど残っていない状態でした。
その急を告げる報を受けると、『戦車隊の神様』と呼ばれた男、池田末男陸軍大佐(後に少将)は、
前線の守備隊を救うべく「(残りの全軍に)突撃命令」を発します。
池田末男
戦車では、周囲の状況は見えません。
歩兵は0(ゼロ)。一人もいません。
作戦指揮を行うために、池田は戦車の上に上半身を出していました。
これは敵の狙撃手の格好の目標となります。
まさに「死を賭して」の攻撃です。
最後に、日本軍に最後の打電をしています。
「池田連隊は四嶺山の麓にあり、士気旺盛なり。池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る。— 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男」
このとき池田大佐(後に少将)は、事前に少年兵には最後の突撃作戦から、全て外していました。
「祖国日本の将来のために、生きて日本のために尽くせ!」として、銃後に残したのです。
このとき、突撃を前にして、武装解除して「これで、故郷に帰れる・・・」と思っていた将兵を前にして、次のように述べたと云います。
池田は将校と車長を集めて次のように訓示したと伝わります。
「われわれは大詔を報じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。
しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。
そこで皆に敢えて問う。諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。
赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとするものは手を上げよ。」— 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、『戦車第十一連隊史』より
このとき、全将兵が「白虎隊」たらんとするために、手を挙げたと伝わっています。
「白虎隊」とは―――
幕末維新の戊辰戦争のときに、会津藩は全ての男子を討ち死に覚悟の出陣を促しました。
このときに組織されたのが、若い少年部隊が「白虎隊」です。
中には、志願して15歳で出陣したものや、13歳の少年も加わっていました。
新政府軍の軍備には太刀打ちができず、敗れ去りますが、若松城(鶴ヶ城)が燃え堕ちるのを飯盛山で見て、敗戦を知り、ここで自刃して果てた―――と伝わります(異説あり)。
このとき進軍してきた新政府軍は、会津若松のほとんどの女性を凌辱したと伝わります。
いつの時代でも、戦勝軍は女性を凌辱します。
そのために多くの女性が、自刃したとも伝わります。
ついでながら―――
駐日ドイツ大使館員のエッツドルフは飯盛山を訪れて、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて、「私の死後は、自分の墓をこの地に埋めてもらいたい」として、記念碑を建てています。
1928年には、イタリアの最高指導者ムッソリーニが記念碑を寄贈しています。
さて―――
池田の戦車は、ソ連兵の砲撃で火だるまになりますが、それでもジリジリと前進を続けた、と云われています。
これを見た日本の守備隊は、勇気づけられました。
この終戦直後に、スターリンによって引き起こされた北海道占領作戦は、800名の日本兵により、3000名のソ連兵を撃退して、スターリンは「北海道占領」を諦めました。
その時、祖国日本の本土を守るべく戦った日本兵は、さらにスターリンの魔の手により、シベリアに抑留されます。
そこで生き残った日本兵が解放されたのは、終戦してから「4年後」のことでした。
このような史実があったことは、日本の教科書では教えていません。
ですから―――
終戦直後に、ソ連のスターリンが北海道占領を目論んでいたことなども、大多数の日本人は知らないと思います。
スターリンとは、マルクス主義を信奉して、ロシア革命を起こしたレーニンの部下となりますが、レーニンの死後、トロッキーとの政治闘争になり、トロッキー派の大粛清を行います。
政敵達を次々と粛清していきます。
その大粛清は続き、シベリア追放など、軍内部でも数十万人が処刑、あるいは追放されました。
中国の毛沢東に次ぐ、大量虐殺で処刑した人数です。
ドイツのヒットラーの、ユダヤ人大粛清の人数を上回っています。
戦後の教育界には、日教組が入り、共産党系の教師などが多数入り込みましたので、正しい真実の教育をされていない「親」やその「子供」の代になり、
北朝鮮、ロシア系の「日本を滅亡するために、反日思想で日本人を洗脳する」ことをスローガンにして、日本の教育現座に根付いてきているのが現在です。
せめて、本ブログが大東亜戦争(太平洋戦争)での日本の軍人が果たした功績、役割を知ることの一助になれば・・・・と思います。
ありがとうございました。
了
2023年6月27日記