生命体エナジー浄化の会ブログ

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熱田神宮から伊勢神宮への旅 3

《 熱田神宮から伊勢神宮への旅 3 》

日本最高波動の地――外宮多賀の宮

 

 熱田神宮から、伊勢神宮の「下宮」に向かいました。

「下宮」は、「内宮」よりも、もう一段波動が高いレベルにあります。

 

しかし、多くの方は「内宮」までは参拝しますが、「下宮」を無視する方が多いように思われます。

 

しかし―――

この「下宮」にこそ、「超絶の高波動エリア」があるのです。

 

伊勢神宮の「下宮」に来ました。

 

夕方になっていて、閉門の時間が迫っていましたので、「下宮」の本殿には行かずに

すぐに目的地に向かいました。

そこは―――

まず、参道の左側の階段を上りました。

 

多賀宮(たがのみや)」ここが、今回の旅の目的地です。

「日本最高波動の地」とされる知る人ぞ知る、日本の最高のパワースポットです。

 

ここが現在の「多賀宮(たがのみや)」です。

 

ここの隣の「地」に―――

空地があります。

 

伊勢神宮では、20年に一度の「式年遷宮」があります。

次の「遷宮の地」が、この左側の「地」です。

 

ここの地下10Mに、日本が世界に誇ることのできる「お宝」が眠っています。

 

モーゼがエジプトからイスラエルの民を率いて、シナイ山の山頂で神から「十戒」の石板を与えられたことが伝わっています。

 

この「十戒の石板」は2枚あり、一つは破壊されていますが、残りの一つは「モーゼ」自らが東方の地「日本」の能登半島に到着して、それが伊勢神宮の「下宮」に埋められたと伝わります。

 

その「地」こそ、この「多賀宮(たがのみや)」の左側の「地」とされています。

 

世界中の関係者が、血眼になって探し回っている「十戒の石板」がこの「地」にあると思われます。

 

この地下10Mには、もの凄い超絶の高波動が反応します。

そこにセットしますと、身体全身が痺れるほどの波動を感知します。

 

恐らく理解できないと思われますので、その日本最高次元の超絶の波動を引き出したときの状態に、この画像をセットします。

 

通常であれば、高波動のこの画像の中に、自分自身が入り込みますと、「体軸が一瞬でとれて、最高の状態にセットされる」のですが、ここでは―――

 

そのあまりの超絶の高波動のために、多くの方は「体軸が崩れる、歪む」という状態に陥るかもしれません。

 

それでも―――

長くそこに留まりますと、やがては・・・・身体が同調されてくるものですが、ここではほとんどの方が同調できないかもしれません。

 

あまりにも、その波動が高すぎて、強すぎるからです。

同調できる方は、かなりの高波動です。

体軸がしっかりした方以外には、恐らく難しいものと思われます。

 

イメージで、この画像の中に入り込み、自分自身の「体軸」のチェックを行ってください。

〇 良好な体軸になっていたのなら⇒ かなりの高波動の心身をお持ちです。

〇 体軸が歪んだままで、正常化しない⇒ 普通の方か、もしくは

自分でもよく判らない方です。

 

となりの地は崖ですが、高波動です。

 

 

多賀宮(たがのみや)」の先は、「立ち入りが禁止」です。

どうしても、そこが見たくてここまで来させて頂きました。

 

「日本最高波動の地」を存分に味わってください。

 

参考までに―――

 

世界中の方々が、モーゼの「十戒の刻まれた石板」を探し回りました。

キリスト教ユダヤ教イスラム教も、聖地は「エルサレム」と定めています。

 

この一神教の聖地を、「エルサレム」としていることから、遠い過去から現代に至るまで、宗教的な争いを続けていて、いまだにその争いは続いています。

 

この「エルサレム」には、紀元前1000年頃に、ヘブライ王国の第2代国王のダビデによって「都」とされました。

 

第3代国王のソロモンにより、「エルサレム神殿」が築かれました。

 

その後、いくつかの歴史が繰り返されて、アレクサンドロス帝国からローマ帝国へと移り、ローマ帝国に反発したユダヤ人が蜂起して、「ユダヤ戦争」が起こると、ローマ帝国軍に攻略されて、「エルサレム神殿」も破壊されました。

 

この経緯から、エルサレムは「ユダヤ教の聖地」となっています。

一方、イエス・キリストはこの地で活動して、「処刑された地」です。

 

コンスタンティヌス1世によって、キリストはゴルゴだの丘で処刑されて、復活を遂げています。

ですから、エルサレムキリスト教の聖地となっているのです。

 

さらに、エルサレムイスラム教の支配下に置かれて、十字軍のキリスト教勢力とイスラム教勢力の覇権争いが繰り広げられます。

 

イスラム教にとっては、エルサレム創始者ムハンマドが、岩のドームから白馬に乗って神の御前に向かった場所とされて、第1次大戦でオスマントルコが敗れるまで、イスラム教の支配下でした。

 

さて、このような経緯の中で、キリスト教の十字軍に助太刀したのが「テンプル騎士団」です。

 

彼らは、イスラム教からエルサレムを奪還すると、その地を掘り返し、その神殿に埋まっていると考えられていたモーゼの「十戒の石板」を掘り出した―――といわれています。

 

この石板は、光り輝くので、直接見つめると身体が焼けてしまうというほど強く、常に布が被せられて、『契約の箱』といわれる「お神輿」の原型となったものに入れられていました。

 

その『契約の箱』の中に入っていたモーゼの「十戒の石板」を、「テンプル騎士団」は見つけ出して、代々それを保管していたと伝わっていました。

 

旧約聖書によると―――

『契約の箱』は、純金で覆ったアカシア材で作られ、蓋の両側には翼を広げた天使像が記されていたと云います。

 

イスラエルを統一したダビデ王は、『契約の箱』を首都エルサレムに運び、ソロモン王は神殿の中に安置したと伝わっていました。

 

その『契約の箱』とモーゼの「十戒の石板」を、「テンプル騎士団」は掘り起こしていたと推測されていたのです。

 

その他にも、

 

その箱と石板は、まさにイスラエル民族の信仰の拠り所なのです。

 

しかし―――

新バビロニア軍の襲来前に、預言者エレミアが持ち去って深い洞窟に隠したという説もあります。

それは今ヴァチカンの地下にあるとも云われ、死海の畔のクムランに埋没している、ネボ山に隠されているなど、更に諸説に分かれています。

さらに言うと―――

「契約の箱を保管している」と主張する教会もあります。
エチオピアの地にも、契約の箱が存在しているという言い伝えもあります。

1世紀頃、エチオピア北部にアクスム王国という国が建国されました。

この国は4世紀頃にキリスト教を国教として繁栄していましたが、7世紀以降は衰退し、辺り一帯はイスラム化して行きました。

伝説によると、アクスムの初代国王は、ソロモン王とシバの女王の間に生まれたメネリクという人物で、そのメネリクが契約の箱を神殿から持ち出し、アクスムまで運ばせたというのです。

 

またエチオピアのファラシャ族は、現在も自分たちは契約の箱を運んで来たユダヤ人の子孫だと自任しています。

エチオピア正教会は、アクスムのマリア・シオン教会に、何百年も前から契約の箱を保管していると公に主張しています(今現在も変わることなく主張しています)。

 

アクスムの教会で行われる年に一度のティムカット祭では、契約の箱のレプリカである「タボット」が、マリア・シオン大聖堂から出て巡幸を行なっています。

 

しかし、ここに本当に契約の箱があるのかは謎のままなのです。

契約の箱の行方を捜す試みは、世界中で今も続けられているのが実態です。

 

そして、話は「多賀宮」になります。

ここの地下には、このイスラエルの民族が捜し求めている「契約の箱」と共に、モーゼの「十戒の石板」が埋められている―――このように思われます。

 

それは何よりも、その超絶の高波動がこの地に見いだされるからでもあります。

 

その「多賀宮」の地下10Mにセットすると、大多数の方がそのあまりにも強烈な波動のために、正常な体軸が確保されない状態になることからも、このことがうかがわれます。

 

モーゼの一行は、能登半島に上陸したと伝わります。

実際に、今も能登半島には「モーゼの墓」があり、宝達山に来たと伝わります。

 

その出典は、古文献である「竹内文書」です。

この中に、モーゼ一行は「宝達山に降り立った」と書かれているようなのです。

 

そして、伊勢神宮「下宮」の「多賀宮」に行くまでに、各地を巡行しました。

そのときの『契約の箱』が、現在日本の各地に伝わる「お神輿(みこし)」の原型であると云われています。

 

信じるか信じないかは、「あなた次第です」。

実際に伊勢神宮「下宮」の「多賀宮」に行って、確認してみてください。

 

 

さて―――

 

ここまで来たら、毎回「下宮」に来ると訪れる「地」に向かいました。

 

ここは「土宮(つちのみや)」です。

ここの「波動も良好」です。

 

しかし―――我々が行きたいのは―――

ここは「土宮(つちのみや)」の後ろ側にある名もなき「祠」です。

 

この周囲の波動は、かなり高波動です。

私は昔からこの「地」が好きで、この周辺の「地」の「中」に自分の身体を投入して同調します。

 

この先は、行き止まりで「進入禁止」となっていますが、どうしてもこの先に踏み込んで、「多賀宮」の下の「地」に踏み込みたいと思いました。

 

その結果・・・・は、ここではお伝えしないことに致します(ご想像にお任せいたします)。

 

              つづく

 

             2023年9月5日記