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幕末の天才・小栗上野介を分析する

《 幕末の天才・小栗上野介を分析する 》

 明治維新は、世界史でも特異に映る現象となっています。

たった30年間で、日本という西欧諸国から見れば、東の最果ての国がたちまち頭角を現して、世界の列強の一国となっていまいました。

 

このことを歴史学者で著名な分析家・アーノルド・トインビーは

「西欧で100年以上かかったか改革を、日本はたったの30年で成し遂げてしまった」

といっています。

つまり―――

日本国の突然の繁栄は、「世界史の奇跡である」とまで言っているのです。

 

それに対して、日本という国は、その当時の文明も世界水準を超えたものであり、それは当然の帰結であるとして、様々なデータを駆使して、そのことを裏付けている人もいます。

とくに江戸の文化は、世界水準でも当時から抜きん出ていた、というのです。

 

明治政府は―――それまでの江戸幕府の政策は非文化的なものであり、日本の発展は新政府が行った「明治維新」の政策があったからである。

 

つまり、江戸幕府の政策では、世界の列強とはまともに対峙できない状況であったが、我々新政府の決断と対処があったから、日本はこうして発展を遂げたのである。

 

明治政府は、それまでの江戸幕府の政策を否定して、すべて「明治新政府」が行なったことで、現在の日本国の発展があったのである、と主張し続けてきました。

 

それは違います。

日本という国が、突然世界の中に躍り出たのは、それだけの国力が背後にあったからで、「江戸時代」というのは、世界史からみても260年間も一切の争いのない「平和な時代」であったのが、世界史では「奇跡的なこと」であったのです。

 

しかも、その「江戸時代」の文化は、世界から比べても、群を抜いて発展する土壌があったことが解るのです。

 

どういうことなのか―――

 

話を古代の日本に向けます。

我々は、中国や朝鮮から文化を取り入れて、日本の国は発展してきた―――このようなイメージで、我々は学校で習いましたし、漢字や稲作などの文化も取り入れてきたので、日本は発展した・・・・と思ってきました。

 

子供のころに教わったものは、深く人の心の奥底に根付いています。

「古代の日本は、中国や朝鮮半島を経由して、大陸からの文化を取り入れ 発展してきた国だ」と言われていますが、 そうではありません。

世界的な美術史家であり、歴史学の権威の東北大学名誉教授の田中英道氏は、

 

「古代日本は中国や朝鮮など、 実は海外こそ、日本に憧れ、 多くの人々が渡来人としてやってきたのです」

と言っています。

 

どういうことなのか―――

 

正倉院は、聖武天皇光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。

その御物には唐や西域、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。

 

また、多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。


しかし、それだけなのでしょうか。日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか。

日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が、日本人の根底にあります。

特に戦後、この見方が浸透しました。

 

太平洋戦争(大東亜戦争)で日本が敗れて、米国の進駐軍GHQが来て、日本が二度と立ち上がれないように、徹底的に日本の文化を叩き潰したことで、まず日本の教育を根本から変えてしまい、北朝鮮と繋がる組織、日教組の台頭を黙認していました。

 

そのために、日本の文化は常に西欧諸国よりも遅れていて、古代から日本は中国や朝鮮経由での文化を取り入れていた―――という教育が浸透してきたのです。

 

その代表例は遣隋使、遣唐使です。


607
年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。遺唐使の最初の派遣は630年です。日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学び、それによって日本は発展したということになっています。

 

我々もそのように教育されてきましたので、そのように思い込んでいます。

しかし、事実はまったく違うのです。

たとえば小野妹子の遺隋使のときですが、

こちらから行っただけでなく、隋からも位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です。

唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。その人数がまたすごいのです。

たとえば、669年には2000人あまりの人が来ています。671年にも2000人が来日、という具合です。

ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、30数回も来ています。
いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回も来ているのです。

遺隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです。


では、彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか。ほかでもありません。
日本の文化を摂取するために来たのです。経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。

 

8世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高まりました。
文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。

 

鑑真が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名ですが、鑑真がなぜこれほどまでに日本に執着したのか。

聖徳太子の思想をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。

鑑真だけではありません。インド人、ベトナム人、ソグド人の僧侶も日本の仏教を学びにきています。

 

奈良時代、日本も唐もその他の諸国も文化的には対等で、相互に学びあい、物を交流させていたのです。

だから―――遺隋使や遣唐使と呼ぶのが誤解のもとなのです。


正確には交流使というべきだと、田中英道氏は指摘しています。

日本に、これほどたくさんの人々が移ってきたというのは、日本の文化が高く評価される水準にあったことを証明しているのです。

では―――
彼らは日本の何に憧れてやってきたのでしょうか?

 

日本には、上古代から優れた文化・文明があり、それが「神話」ともなっているものが日本の魅力であり、そこに魅了されたといいます。

他国からみると素晴らしいものと映っていたようなのです。

 

では一体、なぜ日本から「神話」が消えてしまったのか。
初等科「国史」という教科書はなぜ使われなくなってしまったのか?


それは、戦後、GHQによって「焚書」されてしまったからです。

GHQが7年にわたる占領活動で、日本の数々の教科者や本を「焚書」したのは―――


〇 日本の言語空間をコントロールし、 日本をアメリカの都合のいいように扱うこと。
〇 日本の軍部だけにとどまらず、 日本全体を弱体化させること。


これを果たすために、「焚書」を行ない、日本から神話を消したのです。


「十二、十三才くらいまでに 民族の神話を学ばなかった民族は、 例外なく滅んでいる」

歴史学者であるアーノルド・トインビーはこのように語ったと言われています。

 

確かに、欧米諸国がアジアの大半の国を植民地化して、搾取していましたが、

この植民地政策として、現地語を話させない、支配国の言語に統一する、伝統の文化を学ばせない等々がありました。

 

アジアの国の中で、欧米諸国からの植民地化をされなかったのは、「日本」と「タイ」だけです。

大きな理由の一つに、言語統一がありました。全国民が、同じ言語を使っていたのです。

 

しかし、ただ「神話」といわれても、私たち日本人にとっては馴染みのない少し遠い存在のものと感じると思います。

ましてや、神話を学ばないことで民族が滅ぶと言われても、多くの方はピンとこないかもしれません。

 

確かに、私たちの使ってきた歴史の教科書に「神話」が載っていることは99%ありませんし、そもそも学校では、神話は空想の出来事に過ぎない、非科学的な絵空事だとして教えられてきました。

 

そんな「神話」ですが、実は、世界では、常識として扱われているのです。
例えば、世界の人口の約33%を占めるキリスト教徒は、「聖書」に書かれた「神話」によって繋がっています。

 

紀元前1776年ごろ、何十万もの古代バビロニア人をまとめあげた「ハンムラビ法典」も一種の「神話」です。
北米大陸にあったイギリス植民地の人々が連帯し、アメリカ合衆国をつくりあげる際にも、「独立宣言」という「神話」が重大な役割を果たしました。

 

このように、世界で常識として扱われてきた「神話」ですが、戦前の日本でも、小学生以上なら誰もが知り、常識として扱われていたという過去があるのです。

 

では一体、日本では「神話」という常識がどのような役割を果たしたのか。
なぜアメリカが日本から「神話」を消してしまったのか。

 

それは―――神話に描かれる世界は、日本の皇室――天皇に繋がるからです。

日本人が、当初考えていたよりも はるかに強く、大東亜戦争(太平洋戦争)でも、アメリカでさえ あれ以上に戦争を長引かせていては、国が傾く可能性があったからです。

 

日本人の強さの根本に、日本人一人一人が先祖を辿ると皇室の天皇に繫がるとされていたからで、どの家にも家系図の先祖は、天皇家に何らかの形で接点を持っていたからです。

 

そのような神話に繫がる「国史」の教育の場を奪う必要があることを、日本人の強さの根源を剝奪する必要があったからなのです。

 

また、江戸幕府の260年間に及ぶ古臭い政治から、明治政府から近代化されて、日本は飛躍的な発展したという認識を、明治政府がとっていたので、

現在の多くの日本人は、「江戸までの日本は古臭く、遅れていて、間違っていた」といった認識を持っています。

 

しかしながら―――

江戸の外交は、中世アジアで最も成功していた外交として評価されているのです。

江戸時代の日本は、外交交渉だけで拉致問題を解決し、一方的な侵略への謝罪も勝ち取っているのです。
これがペリー来航の約40年前の外交です。

 

ペリー来航の40年前に、ロシアは一方的に択捉島に上陸して、略奪を始めました。

江戸幕府はすぐに迎え撃つが、負けてしまいます。

 

そこでロシア艦隊の艦長を人質にとり、交渉します。

ロシアも島民を人質にとり、交渉が開始されます。

しかし江戸幕府は断固として突っぱねて、ついにロシアは折れて、互いに人質を渡して、ロシア艦隊は帰路に就きました。

 

たしかに、いくら無事に解放しているとはいえ、他国の人を人質にとることは褒められる行為ではないかもしれません。
ですが、この時の日本はウクライナのように侵攻されていたのです。


今の日本のように、北朝鮮に自国の国民が拉致されようとも、アメリカを始めとする他国に理不尽な要求を突きつけられようとも、無言を貫く姿勢とは全く違う堂々とした日本の姿がそこにはありました。

「よく、日本が植民地化されなかったのは明治の志士たちの力だと言われます。
それはそうでしょうけれど、同時に江戸幕府は堂々とした外交を行ったこと、しかも平和外交を行い、それに成功したという江戸幕府の外交力も、日本の植民地化を防いだ大きな理由の1つではないか考えております」

このような発言する評論家もいます。


しかし、なぜこのような外交がロシアとあったにもかかわらず、私たちは「弱腰な江戸幕府」のことしか教わらなかったのでしょうか?

 

ペリーが浦賀に来て、「日本と外交したい!1年後にまた来る」と要求してきたときに、幕府の面々は慌てます。

 

しかし、その難局を見事に治めたのは、江戸幕府であり、その残った記録を読み解く限り、当初は武力で脅そうとしていたペリーですが、幕府の役人の対応に打ち勝てず、捕鯨船などの緊急時に「助ける」、また必要な物資を調達することができる。

また、上陸する期間も制限されていて、簡単に日本に上陸して砦を造ることなどできない条項になっていました。

 

つまり、江戸幕府の外交は、一般に云われているほど、軟弱なものではなかったのです。

では、なぜ? 

江戸幕府の外交は、軟弱なものだったと評価されているのか―――


一言で言うと、明治維新、そして欧米を一方的に礼賛する学者やメディアのせいです。

 

彼らは、「日本が成長できたのは、古臭い日本を捨てて、欧米の技術を取り入れたからだ」「それ以前の江戸はダメだった」と主張します。
しかし、そのような聞こえの良い主張によって、いつしか江戸史は偏ったイメージに塗り替えられてしまいました。

 

そして、間違った江戸のイメージはいま、大きな問題を生んでいます。

それは―――「欧米に付き従えば、何でも解決できる」という間違った幻想が生まれてしまったことです。

その結果、現在の日本は外交では、腰抜けとしか思えないような醜態を晒してきました。

例えば…「もし中国が尖閣を攻めてきても、安保(あんぽ)があるからアメリカが守ってくれる」「憲法9条があるから、戦争は起こらない」「北朝鮮による日本人拉致問題も、アメリカに交渉議題に上げてもらおう」といった、他力本願な発言を平気でしてしまうのです。

このように、日本の政治家は「日本の国益のために何をすればいいのか」
を自分で判断できなくなってしまい、アメリカに付き従うようになってしまいました。

 

日本は江戸のように、「自分のことは自分で守る」という姿勢を忘れてしまったのでしょうか…?敗戦からすでに80年です…このおよそ80年でいかに政治家が平和ボケしてきたかが、今回のウクライナ危機で明るみになり始めています。


もういい加減、日本を否定し、欧米を礼賛する政治家にはこりごりしていませんか?
江戸の例のように、日本は本来高い外交のポテンシャルを持っています。

 

「欧米人が称えた江戸文明の研究・外交編〜知られざる黒船前夜:勝利を重ねた江戸幕府の外交戦略」

というレポートを読みますと、これらのことが納得させられます。

 

前置きが長くなりましたが―――

本題の「小栗上野介(こうずのすけ)」(正式の名称は小栗忠順(ただまさ)。ここでは通称の「上野介」で話を進めます)ですが、

彼は幕末の徳川幕府では、「天才」的な能力を買われて、幕府政治に尽力しました。

 

小栗上野介とはどういう人物だったのか、その概要を紹介します。

 

文政10年(1827年)に幕臣の家系に生まれます。

三河小栗家の12代当主です。

 

知行地として、安政6年(1859年)豊後守、文久3年(1863年)に群馬県の「上野介」に任じられます。

その才をかわれて、「勘定奉行」「江戸町奉行」「外国奉行」を歴任します。

 

安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のために、渡米しました。

そして、地球を一周して、帰国しました。

 

その後は勘定奉行」「江戸町奉行」「外国奉行」を務め、江戸幕府財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行います。

 

徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されます。

それで、領地である上野国群馬県)の権田村(現在の高崎市)に隠遁します。

 

同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出しますが、逮捕されます。

そして、

その翌日、斬首されてしまいます。

 

逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、

勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられていますが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていないのです。

のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると、小栗の評価は見直されます。

 

大隈重信東郷平八郎など、幕府側から近代化政策を行った人として評価されているのです。

歴史小説家の司馬遼太郎は小栗を「明治国家の父の一人」と記しています。

―――これが、ざっとみた「小栗上野介」です。

もうすこし、「小栗上野介」について、詳しく述べていきます。

 

 

文政10年(1827年)、旗本・小栗忠高の子として、江戸の駿河台の屋敷に生まれます。

小栗の禄高は2500石でした。

 

坂本竜馬と同じように、幼少の頃は「暗愚」で、悪戯好きで、周囲から「悪童」とされていました。

将来の見込みはない、と思われていましたが、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し始めます。

 

ある藩士は、

小栗上野介は、年僅かに十四歳のころであったが、初めて建部家の客となりて来邸せられし折、あたかもその挙動、全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々、応待つ堂々としてすでに巨人の風あり。

 

未だ十四の少年にてありながら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつつ、一問一答建部政醇藩主と応答し、人皆その高慢に驚きながら、後世には如何なる人物となられるであろうかと噂しあった」

といいます。

 

「高慢さ」には、小栗上野介について廻るようで、学問の師についたときにも、平気で呼び捨てにする態度を示すので、「やってられない!」といって辞められたエピソードがあります。

 

文武両道に秀でた才を持ちながら、礼節を重んじる態度に欠けていたようで、後年になって、重職につきながらも罷免される一因が、すでに子供の頃にあったのかもしれません。

 

一方で、「容貌柔和、沈黙にして、しかも大胆であり、米国より経済財政の原書を買い入れていた程の賢明なる人材であった」

との評価もありました。

 

8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積昆斎の私塾「見山桜」に入門します。

武術については、島田虎之助に師事します。

 

島田虎之助とは、時代小説にも度々登場する人物で、西郷隆盛(維新軍代表)と幕府軍代表として対峙し、江戸無血開城を成し遂げた維新の英雄である勝海舟の剣の師匠でもあります。

 

坂本竜馬が、勝海舟を暗殺する意思をもって赴いたところ、その慧眼の深さに感動して、その弟子になったという有名な逸話があります。

その勝海舟は、島田虎之助の門人であり、免許皆伝を受けています。

 

勝海舟は、島田虎之助のもとで「禅」にも励んで、深夜の今の飛鳥山公園あたりの杜の中で、座禅を組んで夜明けを迎えることが多々あったことを、自叙伝である『氷川清和』で述べています。

 

島田虎之助は、男谷信友、大石進と並び、「幕末の三剣士」と言われた人物で、

虎之助は、剣術以外にも「儒教」や「禅」を学び、

 

「其れ剣は心なり、心正しからざれば、剣また正しからず。

すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」

と述べています。

 

もう少し、島田虎之助について語っておくと―――

 

文化11年(1814年)に、豊前中津藩士の子として生まれます。

10歳ころから藩の剣術師範に学び、16歳ころには藩内では相手になるものがいないほど上達して、九州一円を武者修行して、その名を九州に轟かせていました。

 

広瀬淡窓などの元でも学問を修め、江戸を目指して出立します。

江戸に出て、当時「日本随一」といわれた 直心影流の男谷信友に試合を挑みます。

 

男谷信友とは、日本人にはそれほど知られていませんが、歴史に残る剣豪であったようで、生涯2勝1敗を貫き通したと語られています。

その凄さの全容はほとんど誰にも知られることがなかった―――と云われる人物で、

 

相手には、必ず1本は取らせるのですが、生涯2本を取った人物はいなかった、とも言われています。

坂本龍馬が千葉道場の免許皆伝で、剣豪の一人でもありましたが、

 

その師の千葉周作は、気合一閃 打ち込むときに床板を踏み抜いた逸話の持ち主です。

その千葉周作が男谷信友に挑んだ時も、やはり「2勝1敗」でした。

 

そのとき男谷信友は、「あれほどまでに鍛錬するには、そうとうの稽古をやってきたのであろう・・・・」と人に語ったと云われています。

それほどの、当時「日本一」と云われた男谷信友に、島田虎之助も挑み、「2勝1敗」でした。

 

虎之助は、その後も続けて直心影流三羽烏と言われた剣豪・井上伝兵衛に挑みます。

しかし、手加減しない井上伝兵衛に、さんざん打ちのめされたのです。

 

すぐに弟子入りを申し出ますが、井上伝兵衛は虎之助のスジの良さを見込んで、男谷信友への入門を勧めたといいます。

しかし、

虎之助は、「すでに手合わせはしましたが、評判ほどのことではありませんでした」

と答えます。

 

すると―――井上伝兵衛は、

「キミは観察が甘い。あの人は、どこまで強いのか底が知れない。

1本取れたのは、キミに花を持たせたにすぎないのだ。

私が紹介状を書いてやるから、もう一度行って来い」

と言われます。

 

紹介状を見た男谷信友は、「では!・・・」

と言って再度立ち合いますが、男谷の眼光に威圧されて、道場の片隅まで追い込まれて、平伏するしかなかったといいます。

 

島田虎之助は、男谷信友の道場で師範代を務め、その後自分の道場を開きます。

この道場に、男谷信友の紹介で勝麟太郎(後の勝海舟)が入門してくるのです。

 

この島田虎之助の弟子であった勝海舟が、幕府軍の代表として、官軍の中に単身で乗り込んで、薩摩屋敷で「江戸無血開城」の誓約を執らせたときに、堂々として西郷隆盛に臆することなく、「江戸無血開城」を成し遂げてことを、国外の専門家は一様に「奇跡」だと述べています。

 

西欧及びアジアの歴史においても、政権が変わる時には、前政権の面々の悉くが、殺されています。

前の政権の座に座っていた人物で、生きながらえた例はほとんどありませんでした。

それが―――德川政権のトップのほとんどは、何も起こりませんでした。

 

ただ、一部の人によって戊辰戦争が行われましたが、新政権となった官軍の最新兵器の前には、まったく太刀打ちできない状態でした。

 

しかしながら、もしも、本ブログの主人公である小栗上野介が、江戸幕府軍の軍略の参謀についていたら―――

官軍は、「明らかに負けていた・・・であろう・・・」と云われているのです。

 

戦略の天才といわれた長州藩大村益次郎が、後にその軍略を聞きつけて、

小栗上野介がいなかったことが、我々に天恵をもたらしてくれた。

彼がいたら・・・・官軍は殲滅していた」

と言ったことが伝わっています。

 

大村益次郎とは、司馬遼太郎の小説「花神」のモデルとなった人物で、靖国神社日本陸軍創始者として銅像が建っています。

 

江戸幕府長州藩に対して攻め込んだ時に(長州征伐)、長州藩の兵の指揮をとり、完膚なきまでに幕府軍を打ちのめし、江戸幕府の衰退を満天下に晒させた人物です。

 

この人物が、江戸幕府軍の軍略を提言していた小栗上野介の存在を知り、

「小栗が幕府軍にいなかったことが、我々の壊滅を救ってくれた・・・」

と語っていたのです。

 

ついでながら―――幕府軍の長州征伐軍に対して、大阪から続く中国道側の要所を指揮したのは、大村益次郎ですが、

もう一方の九州側から長州藩に攻め込もうとする幕府軍もおりました。

 

これを壊滅したのが、民間人を組織して「奇兵隊」を創始した高杉晋作です。

この人物も、吉田松陰の門下生ですが、抜きんでた才能を持っていました。

 

夜間に下関から九州に上陸して、幕府軍の艦船に壊滅的なダメージを与えています。

これに懲りて、九州の大名は 幕府の「長州征伐」の意向に従わなくなってしまいました。

 

高杉晋作とは―――まさに、傑出した人物であったようです。

 

長州藩が「攘夷」を合言葉に、外国船を砲撃したことへの報復として、

イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国の連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されました。

 

高杉晋作は、一度長州藩から脱藩しています。

ですが 脱藩の罪から赦免されて、和議交渉を任されました。時に高杉晋作24歳でした。

 

交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多くの条件とともに「彦島の租借」を要求してきたのです。

 

高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れましたが、この「領土の租借」についてのみ、頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功したのです。

 

これは上海に留学して、清国の見聞を経た高杉が、「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろう、と伊藤博文は自伝で記しています。

 

高杉晋作が、諸外国連合軍の要求に屈服していれば、そこを植民地として、彦島は「香港」になり、下関は「九龍半島」になっていたかもしれません。

 

そうなれば、日本は大変な事態に陥っていたと思われます。

若干24歳の高杉晋作には、あらためて感謝する次第です。

 

さて―――

 

徳川15代将軍の徳川慶喜は、朝廷に政権を返上して、官軍には抵抗しない「恭順」を示しましたが、

「恭順」をせずに、徹底抗戦を主張する派閥もありました。

 

その筆頭に、小栗上野介がおりました。

しかし、「恭順」派の代表格である勝海舟などの意見に、徳川慶喜が従ったことで、小栗上野介は邪魔な存在となり、役職御免となります。

 

これを契機に、小栗上野介群馬県の「上野国(現在の高崎市周辺)」に隠遁してしまいます。

一方で、幕府軍の中で徹底抗戦を主張する榎本武揚などは、遠く北海道の「地」函館で、新たな政権を打ち立てることを目論見ます。

 

大鳥圭介新撰組の生き残りであり、副長・土方歳三などが新政府軍(官軍)と対峙して、敗れ去りました。

 

新政府軍が政権を掴み、斬首刑に処したのは、新撰組隊長であった近藤勇小栗上野介の2名です。

榎本武揚など最後まで官軍に抵抗した人物も、「あの男は、明治の新政府にとって必要な人材だ!」といって、最後まで抵抗した首謀者でしたが、生き残って、その後の明治政府で要職についています。

 

近藤勇は、京都での見回りの役を会津藩から与えられて、多くの幕末の維新の志士を切りましたので、長州藩にしてみれば、恨み骨髄の人物であったので、これは理解できるのです。

 

しかし、小栗上野介が斬首になったのは、未だに明確な根拠がなく、謎のまま残されています。

今回は、このことを探っていきます。

 

さて―――

江戸幕府内でも、抜きんでた能力を持っていた小栗上野介勝海舟(本名・勝麟太郎)ですが、ことごとく意見が対立していたようです。

 

15代将軍の徳川慶喜の命を受けて、官軍のトップである西郷隆盛と対峙したとき、

勝海舟には、いざとなれば江戸に火を放ち、簡単には江戸城を落とせない覚悟を持っていました。

 

また、それなりの手配も完了していました。

しかし、大西郷の「いろいろと事情もあるでしょうが、こちらのことは、おいどんが責任をもって対処いたします」

という言葉に、後に「西郷の赤心に心を打たれた」と回顧しています。

 

「あの男の前では、一切の小細工は通用しない。

自分も、それなりの策もあるし、それをやる覚悟もできていたが、赤心には、赤心を持ってコトを行った・・・・」

と、後に述べています。

 

余談ながら―――

「新政府軍が江戸城に入るときに、中には極度の緊張のあまり、下足を履いたままで上がった者がいたといいます。

そのようなときに、西郷隆盛江戸城の引き渡しの儀のときに、こっくりこっくりと居眠りをしていた・・・・」

と、伝わります。

その度量の大きさが伺えるエピソードです。

 

西郷隆盛が、新政府軍の中枢の一人として、岩倉具視大久保利通、木戸孝充等が外遊しているときに、明治の新政府を率いて、様々な改革を行いましたが、これらのことは西郷だからできたことで、西郷なくしては、簡単には遂行できなかった―――と、云われています。

 

しかし、大久保らが帰国すると、西郷隆盛は韓国を攻めるのではなくて、「自分ひとりが韓国に行く」と主張したとされる「征韓論」に敗れて、さっさと明治政府の新政権中枢の座を降りて、鹿児島に引きこもります。

 

その後、西郷の元に多くの人物が集まり、明治政府もこれを見過ごすことができずに、「西南戦争」が勃発します。

この時、近代的な装備の政府軍に対して、旧式の装備の西郷軍は敗れます。

 

このとき、故郷の鹿児島目指して軍が引き上げるとき、西郷軍に付き従っていた中隊長の増田栄太郎は、同志を集めてこう言ったと伝わります。

 

明治政府に不満を持つ、各地の同志が西郷の薩摩軍を構成していました。

その中の中津からの隊員たちに、

 

「ここまで従ってくれてありがとう。

諸君は、鹿児島が故郷ではない者もいるし、もはやこれ以上の戦いは無意味である。

投降するものを政府軍は処罰しないであろう。

だから、後は自分自身の判断に従って、故郷の中津に帰ってくれ。

 

私?・・・私は、あのお方(西郷どん)に最後まで従って行くつもりだ。

 

私はここに来て、初めて西郷先生に親しく接することができた。

あのお方は、一日接すれば一日の愛を生ずる。

三日接すれば、三日の愛を生ずる。

 

親愛 日に日に高まって、もはや先生の元を離れることはできない。

今は生死を超えて、先生と共に死生を共にするのみである」

このように語ったと伝わります。

 

昔、「男心(おとこごころ)に・・・男が惚れて・・・」という歌がありました。

また、

「士は、己(おのれ)を知る人のために死す」

といって、大義を抱いて死地に赴いた武士(もののふ)も少なくありませんでした。

 

西郷隆盛のような人物の政治家が、今の日本に出てくれたならば・・・・、と常に思っています。

「この人のためならば・・・・死をも厭わない!」

と思えるような人物がいなくても、日本の政治家として誇りに思えるような人物が出てくれることを、願っています。

 

 

本ブログ「写真分析から裏の歴史を考える その5」において、次のように述べています。

 

西郷隆盛には 「西郷南洲翁遺訓」が遺されています。

この編纂は、薩摩人の手によってではなく、旧庄内藩藩士達によって刊行されたものです。

 

庄内藩は明治22年憲法発布に伴い 西郷隆盛西南戦争による賊名が除かれ、正三位を追贈されました。

 翌年1月に旧庄内藩で遺訓集を作成して、4月から6人の藩士達がこの遺訓集を携えて全国を行脚して、広く頒布したと伝えられています。

 

「南洲翁遺訓集」が庄内(現在、山形県鶴岡)から出版されたというのは―――

 

明治維新の前夜、庄内藩は三田の薩摩屋敷を焼き払い、多くの死傷者を出しました。最期まで抵抗した庄内藩の維新後の処理として、どんなひどい目に合わされるかと、心配していました。

 

だが、西郷の慈愛を持った寛大な処置により事なきを得たのです。

それに感謝した藩主が家老を伴い七十数名が、政府の要職を去って鹿児島に引退していた、西郷を訪れて親しく教えを受けたのです。

 

その後も庄内藩士が引き続いて西郷隆盛を訪ね、西郷が生前語られた言葉や教訓を記録した手記を、持ち帰って遺訓集を作成したと伝えられています。                                                 

 

この遺訓集は 41箇条からなりますが、西郷隆盛の「名言」として 今に残っています。

 

  •  命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。

 

この後には 

「されども、かような人は 凡俗の目には見抜くことができない」と言われるので、

 

それでは孟子(古い中国の聖人)の書に 『人は天下の広々とした所におり、天下の正しい位置に立って、天下の正しい道を行うものである。

 

もし、志を得て用いられたら一般国民と共にその道を行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。

 

そういう人はどんな富や身分もこれをおかす事は出来ないし、貧しく卑しい事もこれによって心が挫ける事はない。

 

また力をもって、これを屈服させようとしても決してそれは出来ない』 と言っているのは、今、仰せられたような人物の事ですかと尋ねたら、

 

いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければ、そのような精神は得難い事だと答えられた。

 

 これは第30条の遺訓ですが、このような教えがつまっています。

解りやすい 一般的な「名言」を 以下に掲げておきます。

 

  •  道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。

己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。

 

  •  人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。

 

  •  己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ。

  人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる。 

  •  小人は、己を利することを欲し、 君子は、民を利することを欲する。 
  •  我が家の遺法、人知るや否や、 児孫のために美田を買はず。
  •  幾度か辛酸を経て、志、初めて堅し。 丈夫は、玉砕に及んで、瓦全を愧じる。 
  •  天は人も我も同一に愛し給ふゆえ 我を愛する心をもって人を愛するなり 
  •  事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず
  •  過ちを改めるにあたっては、自分から誤ったとさえ思いついたら、それで良い。そのことをさっぱり思いすてて、すぐ一歩前進することだ。 
  •  功のあった人には禄を与えて、能力のある人には位を与えよ 
  •  人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。
    だがそこには人間としての「道」がなければならない。 
  •     
  • 功立ち名顕るるにしたがい、いつしか自らを愛する心起こり、恐懼戒慎の意、緩み、驕矜の気、しばらく長じ、その成し得たる事業をたのみ、いやしくも我が事をし遂げんとまずき仕事に陥り、終に敗るるものにて、みな自ら招くなり。ゆえに己に勝ちて、見ず聞かざるところに戒慎するものなり。 
  •  
  •  天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても驕(おご)らない。
  •  
  •  事に当たり、思慮の乏しきを憂うることなかれ
  •  
  •  正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論(へきろん)である。
  •  
  •  万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)を戒(いまし)め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。

 

<続き>然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業はは遂げられ間敷也。

  • (税制は)上を損じて下を虐(しい)たげぬもの也。
  •  
  •  租税を薄くして、民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成する也。
  •  
  •  徳に勤むる者は、これを求めずして、財自(おのず)から生ず。
  •  
  •  断じて行えば鬼神もこれを避ける。

 

さらにもう少し、西郷隆盛について、その時のブログに書いた文を載せておきます。

 

勝海舟は――― 

「(自分が)西郷に及ぶことができぬのは、その大見識と大誠意にある。

おれのひと言を信じて、たった一人で江戸城に乗り込む。

おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠は、おれをしてあい欺くことができなかった・・・・」

と、述べています。

 

西郷ほど 人々の人望を集め信頼を博した人物は、いないと思われます。

傑出しています。古今東西でも見出し得ないかもしれません。

 

中江兆民が、 維新後のていたらくに接して

「西郷さえいれば、日本はこんなふうにはならなかったろう」と嘆じ、

 

新渡戸稲造が 「日本にリンカーンのような人物はいるのか?」と問われて、

「それが西郷隆盛だ」と 答えた―――といいます。

 

内村鑑三が『代表的日本人』の5人の筆頭に 西郷を挙げています。

「日本の維新革命は西郷の革命であった」と言い、次のように書いています。

 

「内政については木戸や大久保の方が精通しており、革命後の国家の安定を図るには三条や岩倉の方が有能でした。

 しかし必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、天の全能の法にもとづき運動の方向を定める、西郷隆盛の精神であったのです」

 

さらに―――

 

勝海舟は「氷川清話」の中で 坂本龍馬は初めて西郷と会った時の感想を、勝海舟に次のように語っていたことを述べています。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木(しゅもく)が小さかったのが残念でした」

 西郷を「釣り鐘」に、龍馬自身を「撞木(しゅもく)」に例えているところが、いかにも幕末の風雲児である坂本竜馬の言葉らしいのです。


この龍馬の西郷評を聞いた勝は、

 「評される人も評される人。評する人も評する人」

と語ったと伝えられています。

 

西郷隆盛については、様々な伝が伝わっています。

 

勝海舟は「今までに天下で恐ろしいもの二人見た」と述べています。

それは―――西郷南州(隆盛)と横井小楠(よこい しょうなん)です。

 

氷川清和の中で、

・・・横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だ・・・。

西郷と面会したら、・・・いわゆる天下の大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいか・・・」

と述べています。

 

はたして、勝海舟の予告通り 「西郷隆盛は官軍の総司令官」として現れてきたのです。

この東征軍の司令官は、名目上は総督である”有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)”と言う事になりますが、実際は、参謀であった西郷隆盛がこの東征軍(官軍)の司令官でした)

 

勝海舟は、西南戦争後にまだ朝敵西郷隆盛に対して世間の目が厳しい時期に、東京葛飾の古刹に西郷隆盛の顕彰碑を私財を投じて建立するなど、西郷に対する敬愛・思慕は大きなものでした。

 

また、西南戦争の原因ともなった西郷の『征韓論』に関しても、「西郷は征韓論など主張していなかった」と論陣を張るなど、 弁護に努め、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う、西郷隆盛の特赦・汚名返上・名誉回復への足掛かりをつくりました。 

 

勝海舟は「江戸無血開城」を成功させて、江戸の町を官軍の総攻撃から救ったことを終生の誇りとして、その相手であった西郷隆盛の顕彰に努めていたのです。

 

このように幕末から明治維新にかけて活躍した勝海舟と、本ブログの主人公である小栗上野介は、二人共に島田虎之介という剣の師匠についていながら、江戸幕府の内部で互いに対立する関係であったようなのです。

 

島田虎之介という剣の師匠は、

すでに述べたように、「剣は心である。心正しからずば、剣もまた正しからず」といっていた幕末の剣豪の一人です。

 

その師の元で剣の道で修行を行っていた二人が、幕末から明治維新にかけて、裏の歴史でその名を残しているのです。

 

                  つづく

 

            2024年1月23記