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写真分析から裏の歴史を考える 12 フルベッキ写真を分析する その10 竜馬暗殺とその背景 4

≪ 写真分析から裏の歴史を考える 12≫
フルベッキ写真を分析する  その10 
 
竜馬暗殺とその背景 4
 
 
薩長同盟を成就させた立役者として、竜馬より上である、との見解が持たれていますが、残念ながら 一般にはそれほどの注目はされていないように思われます。
 
幕府体制を覆して、新しい秩序をもたらす世の中に変えようとする手段として、坂本竜馬は武力に頼らずに行おうとしていましたが、中岡慎太郎は 武力(力)で幕府を倒そうとしていました。
 
 
中岡慎太郎の略年を ウキペディアより概説しておきます。
イメージ 1
土佐に生まれて 武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。
15歳の兼(かね)と結婚し、武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。
 
1862年、長州藩久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。
 
1863年、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに脱藩し、同年9月、長州藩に亡命する。
 
以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、周防国三田尻都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となる。
 
1864年、石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い、負傷する。
 
長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる尊王攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させる(中岡慎太郎自身のこの頃の手紙による)。
 
そして、長州藩桂小五郎(木戸孝充)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を志士たちの第一の悲願として活動し始める。
 
三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本竜馬や三条の随臣・土方楠左衛門をも説き伏せて巻き込んで行った。
 
そして、1866年、京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
 
1867年、龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。
 
その後、薩土同盟についても同様に奔走し、まず、土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松帯刀・西郷吉之助との間で武力倒幕のための薩土密約の締結に成功する。
 
更に土佐藩そのものを本格的に取り込むための運動を展開し、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村道成・後藤象二郎・福岡藤次・中岡慎太郎坂本龍馬との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。
 
この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展する。
 
しかし、これらの薩土同盟・薩土芸同盟は、土佐藩・安芸藩自身による大政奉還建白書は 山内容堂の徳川宗家への強い恩顧意識のため、翌年1月の鳥羽伏見の戦いにおいて 薩長官軍側の優勢が判明するまで実質的な威力には乏しかった。
 
しかしながら、これらの慎太郎・龍馬の労苦の結晶である軍事同盟締結は、土佐藩内においては 旧態依然とした兵制を改革させる決定的契機となり、
土佐を戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめた。
 
また同時に、倒幕後の政治ビジョンを描かざるを得ないことから封建制・幕藩体性をどう変えていかなければならないかという意識改革・藩政改革を他の諸藩よりも早めに進めざるを得なくなり、
 
土佐出身者を長州・薩摩・肥前出身者同様に 幕末・明治をリードする主要政治勢力たらしめた。
 
かねてから長州で見聞していた奇兵隊を参考に「陸援隊」を組織し、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を「陸援隊」の本拠地と定める。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
 
京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負う。
 
龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語ったという。死去。享年30
 
死後、海援隊士らはいろは丸の沈没事故で多額の賠償金を支払わされた紀州藩の報復であると考え、紀州藩士・三浦休太郎を襲撃し、警護に当たっていた新撰組と戦った(天満屋事件)。
 
中岡慎太郎という人物の評価を紹介します。
 
「倶に語るべき一種の人物なり」「節義の士なり」
 
「我中岡と事を謀る往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」
 
「土州藩の使者(中岡)は頗る頑固な人で、これを辞したら殆ど刺違へぬばかりに議論をした」
 
「世間で名高くなっている坂本龍馬よりは、ある面で優れていたかと私は思っている。中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸と肩を並べて参議になるだけの人格を備えていた」
 
「誼を条公(三条実美)に通じ、交を西郷、木戸、広沢、品川、五子に結びたるは中岡、坂本、二子の恵みなり」
 
大江卓
「元来、土佐の王政復古論の筆頭は坂本龍馬だということになってはいるが、或は中岡慎太郎の方ではないかと自分は思っている。
 
一寸ここで坂本と中岡の人物を評して見るなれば、中岡は後の板垣(退助)、坂本は後藤(象二郎)という形である。中岡坂本両人共に(武市)瑞山の後継で二重鎮であった。
 
ちょうど長州を例にとっていえば、松蔭門下の久坂玄瑞、高杉東行というところである。人物の風格も似ていないではない」
 
「中岡は台閣の器であり、坂本は広野の猛獣であった。一は宰相の風があり、一は豪傑の面影があった。此の二人を土佐が早くも失ったのは返す返すも惜しいことをしたものである」
 
尾崎熊吉
「才略と胆力と人格を有し、而して彼の如く刻苦し、彼の如く忍従し、克く結び、克く尽し、回天の大業を空挙に築き、維新の元勲として功績最も多く、稀世の英傑なり」
 
香川敬三
「略を好む、大志あり」
 
川北茂馬
「中岡先生は背筋をピンと伸ばして、はるかむこうに目をやり、両手を大きく振りながら、すっ、すっと歩く人であった。えろうなる人は、子供の時から違うちょったぞ」
 
楢崎龍(竜馬の愛人)
「面白い人で、私を見ると『お龍さん、僕の顔に何か附いていますか』などと、何時も でがうて居りました」
 
「中岡先生はひとときも無駄という時間のない人じゃった」「秋の刈入れの時、先生は所用から夕方烏ヶ森を越えて帰ってくると、百姓たちが稲の取り入れに追われている。先生は家に帰り着くなり稲ざすを持って、すっと手伝いにくるといった人じゃった」
 
三宅謙四郎
「中岡は予と同年か一つ兄か位の人にて身丈も予と同様、五尺ばかりの男なりき。予と頗る馬合いにて極めて親密にしたり。
 
剣は予と同じく武市先生に学びたるも、余り熱心にてもなく、どちらかといえば文学の人なりしが、それかといいて学問も深邃なりしとはいい難し。
 
平生、大の議論好きなり。その風貌、写真の伝うのごとし。似たりとは愚か全くその儘なり。ただし眼光炯々として蒼鷹の羽ばたかんとするがごとき感なるも、実際の人となりは温和にして色白く、声音も尋常なりき」
 
 早川勇
「其誠心可感、其達見可嘉」
薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというも過言ではないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。
 
中岡は、高杉がまだ長州の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおる。ことに遊撃隊に身をおいて、その苦心は一方ならぬものがあった。
 
坂本は私どもが五卿を迎えて国に帰った後に来た人であるから、どれだけ功労があったかは知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」
 
「長州における坂本と中岡の周旋を見るに、はでなことは坂本に属するが、中岡はどうかというに、この人ほど苦心した者はないと思う」
 
「中岡氏は東群の大里正なり。その在群にあるや郷民皆その徳に伏す。其人となり深沈にして胆力あり。当時土州脱藩士五六十在せりと雖も、恐らくはその巨魁なるべし」
 
「中岡を以て策士と見做すは誤っている。彼は西郷南州と其型を一にする君子人であった」
 
「非常に真面目な男であっただけに、坂本が大ビラにお龍を連れて歩いたのに比し、彼は極めて秘密の裡に閑日月を楽しんだものである」
 
「何時か一人で外出して帰ってきて『今日、祇園で湯に入ったが、素的な代物が一緒に入っていて僕は湯から出られなくて困った』という笑い話をしたことがあった。中岡は大体謹厳な人であったけれども、一方のこともなかなか剛の者であった」
 
「中岡先生は坂本先生と終始仕事を一緒に致しましたけれども、坂本先生の名が最も広く世界に伝わって居ります。しかし、私は其の識見に於て、其の手腕に於て、中岡先生の方が遥かに優って居ったと思います。
 
維新の原動力が三条、岩倉両公にあることを達観して、両公を握手させたのも先生であります。坂本、後藤に先だって政権を朝廷に奉還せねばならんと言う意見を唱道したのも先生であります。
 
こう言う活眼の人が維新後まで生残って居たなら、吾々土佐人の肩身も一層広かったであろうと誠に遺憾に堪えないのであります」
 
「先生は弁舌さわやかで、剣をもって坂本龍馬より上であったろう。障害になる人物が現れると、先生が行けば一時間の猶予も必要でなかった。一時間以内に意のままに説き伏せて帰って来た」
 
「頗る真面目な人で即ち精神家であった。精神家であるだけ、なかなか神経質な所があって、一時は脳を悪くし養生かたがた水戸の住谷寅之介を訪ねたり、信州に佐久間象山を訪ねたりした。
 
品行なども絶対に酒色を遠ざけるという程に融通の利かぬ男ではなく、終始その起居を共にした自分としては天機漏らす可らざる事も知って居るが、大体に於いて謹厳な男で、その性格がよく西郷に似ていた。
中岡は何時も西郷の人物を推賞し、西郷もまた中岡を賞賛して居た」
 
 
さて―――
 
中岡慎太郎が 竜馬と共に刺客に襲われて、最初に駆けつけたといわれる谷干城(たにたてき)であるが、この人物に触れなくてはならないと思われます。
 
容量を超えましたので、「つづき」ます。