生命体エナジー浄化の会ブログ

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写真分析から裏の歴史を考える 12つづき 竜馬暗殺とその背景 4つづき

≪ 写真分析から裏の歴史を考える 12つづき≫
フルベッキ写真を分析する  その10つづき 
 
竜馬暗殺とその背景 4つづき
 
容量を超えましたので その「つづき」です。
 
さて―――
 
中岡慎太郎が 竜馬と共に刺客に襲われて、最初に駆けつけたといわれる谷干城(たにたてき)であるが、この人物に触れなくてはならないと思われます。
 
 
谷干城(たにたてき)
 
イメージ 1
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、板垣退助の率いる迅衛隊の大軍監として北関東・会津戦争で活躍する
 
その後、熊本鎮台司令長官となり、西南戦争の際には52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。
 
その後、伊藤内閣の初代農商務大臣に就任する。後に貴族院議員となっています。
 
土佐藩出身の谷は、同じ藩の下士出身者である坂本竜馬を厚く尊敬したとされています。
 
また彼自身の伝聞では、慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺されたときには、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったといいます。
 
谷は事件当初より、犯人は新撰組と決めつけていたといわれ、戊辰戦争の際には、流山で捕らえた新撰組局長であった近藤勇の尋問について、薩摩藩と殊更対立したといいます。
 
斬首・獄門という惨刑に処したのも谷であるが、彼にとっては龍馬の敵討ちであったというのです。
 
明治33年(1900年)、かつての見回り組の一人であった今井信郎が―――
 
「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は、それを聞き及ぶと
 
「お前ごとき売名の徒に 坂本さんが斬られるものか」と逆に厳しく非難したといいます。
 
このような谷干城(たにたてき)であるから、この画像から中岡慎太郎の最期を看取ったのは、「あなたですか?」と問うと―――
 
意外な返答であった。
 
「自分は、最後は看取っていない」と応えているのです。
 
さらに―――
 
中岡慎太郎は 生き延びる可能性があった。
そこで・・・・竜馬暗殺に関わったていたのは、土佐藩の人間であるということが、世間に公表されては困る と思った」
と、応えています。
 
それで―――「中岡慎太郎を 殺させた(他の人間を介して)」と、応えているのです。
 
この反応は 衝撃的なものです。
 
だから、谷は 中岡慎太郎の最期を「看取っていない」と反応しているのです。
 
すると―――
 
新撰組犯人説にこだわって、近藤勇を斬刑に処したのは このような裏が在ったということになります。
 
そもそも―――
 
大久保利通の意向では 「坂本竜馬抹殺」であったので、中岡慎太郎は含まれていませんでした。
 
後藤象二郎も、中岡慎太郎の標的としていなかった、と反応しています。
 
中岡慎太郎は 運悪く暗殺決行の日に 竜馬を訪問していて、その巻き添えを食ったというのが実態のようです。
 
土佐藩板垣退助は、竜馬暗殺には「私は一切 関与していない」と画像は反応しています。
 イメージ 2
 
明治維新に関わる裏面史は、表舞台に登場してこないドロドロの様相を呈しているように思われます。
 
小説家は、時代考証を徹底的に行い、様々な資料を集めて、史実に基づいているとはいっても、所詮小説にはフィクションが入ります。
 
例えば、司馬遼太郎の時代考察は鋭く、大量の資料に基づいて構成されているといわれますが、感動的なシーンにするために「ここは、史実と明らかに違う!」というところが散見されます。
 
だが、そのような著名な時代小説は、フィクションであっても事実として大衆に受け入れられて、いつしか「ノン・フィクション」となっていきます。
 
そのような中で、秘かに記録した裏の史実や、もはや自分は余命が少ないので、洗いざらい告白する・・・・といったものの中に、我われが知らない裏の実態が浮きあがってくるのです。
 
 
朝廷側の倒幕運動の主役である岩倉具視は、孝明天皇暗殺に関わる陰のリーダーであるようだし、伊藤博文は実行犯の一人であるとの指摘も、今の時代だから浮き上がってくるものです。
 
また、大政奉還を決意した徳川慶喜は、その愛妾であった女性の告白では、「女性がいなくては一夜たりとも過ごせなかった人物で云々・・・」と揶揄される始末です。
 
今の時代にはヒーローがいない、との指摘がありますが、日常生活まで暴露される現代では、ある意味仕方がないかもしれません。
 
表舞台での人物と、裏の素顔が一致する例は少なく、それがまた人間臭さを感じる所以でもあるのかもしれません。 
 
2014年11月18日記