生命体エナジー浄化の会ブログ

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日光を探索する 2

《 日光を探索する 2 》

東照宮その2と輪王寺その1

 

 日本一美しい豪華絢爛な「陽明門」を通ります。

いつまで見ていても見飽きないので、「日暮らしの門」とも言われています。

 

「陽明門」は、このままでは高波動にはならないかもしれません。

 

そこで、完成した当時、一般庶民ではこの門にすら入れなかった当時の高波動の状態に、画像を再現します。

この画僧は超絶の高波動を再現しています。

ですから―――

この「陽明門」をイメージで通過するだけで、身体の体軸は整います。

 

「膝痛」「肩痛」あるいは「腰痛」でお困りの方は、この「陽明門」の下に立っているとイメージしてみて下さい。

問題となる個所は修正されると思われます。

 

日光の東照宮は、徳川家康の「東照大権現」を、朝廷から「東照宮」としてよいとの認可受けているものです。

 

東照宮」としての神に徳川家康がなったことから、全国に「東照宮」「東照社」が次々と建てられました。

 

言葉にならないほど豪華・絢爛な門です。

 

明治維新の時に、幕府軍はこの日光東照宮に立て籠ったことがありました。

戊辰戦争の時です。

 

しかし、新政府軍の板垣退助は、日光東照宮戦火を交えて破壊するには忍びないとして、立ち退くように僧侶に働きかけます。

 

それを受けて、幕府軍日光東照宮から立ち退きましたので、無傷のまま日光東照宮は残りました。

 

このような華麗な陽明門などが、国内の戦争で破壊されていたら、後世の大きな痛手となっているところでした。

 

「祈禱殿」です(左側)。

ここでは、結婚式や初宮などのご祈祷が行われます。

 

陽明門を抜けると、その先に「唐門」があります。

ここも豪華絢爛な門です。

 

この「唐門」の後ろに「本殿」があります。

その「本殿」の後方の奥に、「奥宮」があります(この画像からは見えません)。

そこに家康の「奥社宝塔」があります。

 

 

「唐門」は、東照宮の本殿を守護している真正面の門です。

ここより先に入れるのは、幕臣や大名に限られていました。

 

大名の藩士なども、この先には立ち入れなかったようです。

将軍に拝謁できる身分の者でないと、この手前で待つことになります。

 

この「唐門」の奥が「本殿」です。

中には入れませんが、外からイメージで中に入り込みますと―――

 

身体に痺れが伝わるほどの高波動に包まれます。

 

反応では、陰陽道系のエナジーが主体のようで、

「大権現」のエナジーのようです(東照大権現ではありません)。

 

私が感知したエナジーは、「大妙見大権現」です。

北極星」を神格化したエナジーのようです。

 

「神興社」です。

 

 

この先に有名な「眠り猫」があります。

左甚五郎作で、東回廊にあります。

眠り猫

 

国宝となっているもので、「生きている」反応を示します。

この「眠り猫」が、本当に左甚五郎作なのかは定かではないようですが、「生きている」反応を示しますので、そうだと思います。

 

左甚五郎は伝説の彫刻師で、作品には「魂が宿る」とされて、彫刻された作品は夜な夜な動き出すとの逸話が残っています。

 

奥宮につきました。

ここに「奥社」がります。

 

 

これが「奥社宝塔」(家康の墓)です。

昭和40年までは、一般には公開されなかったようです。

 

徳川家康は、死期が迫ってきた間際に、金地院崇伝、南光坊天海、本多正純らを呼び寄せて、遺言しています。それは―――

 

遺体は「久能山」に納め、御法会を江戸の増上寺、霊牌は三州大樹寺、御周忌を終えたら、日光山に小堂を造り、京都の金地院に小堂を造り、所司代はじめ武家に拝ませるように―――と命じています。

 

元和2年(1612年)、家康は駿府城で亡くなります。

棺は久能山に運ばれ、久能山の東照社(現 久能山東照宮)が建造されました。

 

これに伴い朝廷は翌年に「東照大権現(家康)」の神号を宣下して、家康は神格化されました。

 

これを受けて、各大名家に「東照社」を競って造営し、三代将軍家光は諸大名に「東照社」造営を薦めたこともあって、全国に「東照社」「東照宮」は500社以上(廃絶したものも含めると約700社)が確認されています。

 

しかし、明治維新廃仏毀釈が行われて、廃社や合祀が相次いで、現在は約130社となっています。

 

私は昭和の時代に育っていますので、昔は徳川家康といえば「たぬきオヤジ」など悪いイメージが強く、漫画の真田十勇士などの影響で、常に悪役でした。

 

それが山岡荘八の「徳川家康」の長編小説が世に出て、「忍耐の人」「人生とは、重き荷を背負いて坂道を行くがごとし」と、評価が一変したことがありました。

 

ついでながら―――私は、山岡荘八の「織田信長」を読んで、斎藤道三の娘の「濃姫帰蝶)」が影の主役として描かれ、本能寺の変のときの女性の死者の中に、「その名を『おのう』という」という最後のシーンが妙に心に残りました。

 

徳川家康は、「東照大権現」となり、全国に700社を超える神社(東照社)が造営されるまでになりましたが、徳川政権を盤石なものにして、しっかりとその後の徳川家に諸大名が従うようにした功績は凄いと思います。

 

というのは、本ブログ「歴史を考えるシリーズ」の中で、私は「徳川家康真田幸村に殺されていた」として、描いています。

 

大阪冬の陣で豊臣方と徳川方が和睦した後、堀を埋められて丸裸となった大阪城では、もはや豊臣方に勝ち目はなく、真田幸村は最後の一戦を仕掛けます。

 

それは―――今でも読み直して興味が湧きますので、その時の文章を綴ります。

 

1615年 京都に東軍(徳川軍)15万の軍勢が集結して、軍を二手に分けて大阪城に向かいます。

 

西軍(豊臣側)は 大阪城の堀が埋め立てられて裸城となったことで、これでは勝ち目がないと判断して、多くの浪人が退去していました。

 

東軍との和平交渉をしていた織田有楽斎織田信長の弟で淀君の叔父)も豊臣家に見切りをつけて、大阪城を去っています。

 

裸城の大阪城では、もはや籠城策をとることもできず、野戦で東軍と対峙するしかありませんでした。

 

これによって各地で激戦が展開されます。

 

東軍の主力部隊の藤堂高虎井伊直孝らの先鋒5万5千の兵と、迎え撃つ木村重成、長曾我部盛親らの1万が激突して、長曾我部盛親は藤堂隊を奇襲して撃退しますが、木村重成は討ち死にします。

 

孤立を恐れた長曾我部盛親は大阪城に戻りますが、真田幸村後藤基次 (又兵衛)らは、2万足らずの兵で 東軍の伊達政宗らの率いる3万5千と激突しますが、このとき後藤基次 (又兵衛)は戦死します。

 

その後、幸村軍は伊達軍と交戦して、これを撃退します。

そして毛利軍と合流して、東軍と睨み合いますが、他方での敗走を聞いて、大阪城に退きます。

 

そして東軍は大阪城の南方に集結して、15万の大軍で攻め寄せてきました。

対する西軍は 三分の一の5万です。

 

幸村は わずか3千5百の軍勢で、天王寺口で松平忠直の軍勢1万3千と一進一退の攻防を繰り広げますが、「紀州の浅野長晟が裏切った」との偽の情報を流して東軍を混乱させます。

 

そして―――

 

松平軍の一瞬のスキを突いて、先鋒、次鋒、本陣の三段階の戦法を牽いていた真田軍は、家康本陣に3回にわたって攻撃をかけます。


幸村は 家康の首だけを目指して攻撃を仕掛けるため、軍勢の兵を5人一組に分け、これを3隊に配置します。


対峙する松平忠直の軍勢を、正面左方面右方面の3方向から 5人一組の兵が何グループに連なって 波状攻撃を仕掛け、


そこを突破したら再度3隊が一箇所に合流して体制を整え、家康のいる本陣を目掛けて正面から奇襲をしかけるというものでした。

 

ちなみに、この作戦は限られた軍勢で大軍を突くために楠木正成が編み出したとされるもので、「九死一生の戦法」と呼ばれるものでした。


少ない兵力を分散させずに絞った相手のポイントに集中させながら、幸村はさらに情報戦で撹乱し相手を切り崩しました。

 

このとき、家臣たちによる幸村の影武者が何度も現れ「我こそは真田幸村なり」を叫びながら奇襲を仕掛けてくるものだから、誰が本物なのかがわからず敵軍は混乱したと言います。

 

この戦いで―――

 

武田信玄と三方ケ原の戦いで敗れて以来の、家康本陣の馬印が引き倒されました。軍旗も引き倒されて、絶体絶命の寸前までいったといいます。

 

旗本は恐れおののいて離散し、家康も馬で逃走を図るも、2度までも

 

切腹する!」と口走るほど狼狽して、家臣に押しとどめられた―――といいます。

如何に幸村の奇襲が家康を追い詰めたがわかります。

 

恐怖と予期せぬ事態に逃げ惑い腰を抜かす旗本らとともに、家康はなんとか幸村の奇襲から逃げ切りました(俗説では)。

 

一説によると、最期は馬に乗った真田幸村たった一人で家康本陣に切り込んできたとも、また 家康の乗った籠が、槍で刺されたとも言われています。

 

江戸時代に書かれた島津家の伝承記「薩摩旧記」には

「真田は日本一(ひのもといちの)の兵(つわもの)。徳川方は半分敗北。家康は切腹も考えていた・・・・」と、記されています。

 

家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記「高山公実録」には

「お旗本大崩れ。家康の行方も一時は分からなかった・・・」と残されています。

 

家康の旗本であり、天下のご意見番とまで言われた大久保彦左衛門が記した「三河物語」には

「旗本が混乱して、家康を見捨てて逃亡した・・・・」と記されています。

 

家康が「切腹する!」とまで追い込んだ真田幸村は、数で勝る東軍の反撃で、疲労を募らせて安居神社に退き、そこを襲われて討ち死にします。

 

さて―――

 

この攻防で、家康の目前まで攻めながら打ち取ることが出来なかったとされていますが、実は・・・・

 

家康は深手を負っていました。

 

家康の「霊」を引き出して、尋ねてみました。

 

大阪城の攻防で、真田幸村の隊に襲われて、あなたは深手を負ったとされていますが、これは本当のことですか?」

 

「本当のことである。自分はその傷がもとで・・・3日後に亡くなった・・・」と述べています。

 

これについては、幾度も同じ問いを発しております。

この反応しかありませんので、恐らく・・・このことは事実であると思われます。

 

事実であれば、歴史が変わってしまいます。

 

確かに―――徳川家康は、大阪夏の陣で亡くなっていた―――とされるものは残されています。

 

1557年創建の堺市にある南宗寺(なんしゅうじ)―――

 

この一画に今も「東照宮 徳川家康墓」があります。

徳川家康の墓

この場所は、戦災で焼け落ちるまでは東照宮があったところだと言います。

今も 唐門には、徳川家の「葵の紋」がある瓦が使われています。

 徳川家の「葵の紋」

 

「南宗寺史」によると、大阪夏の陣で激戦に敗れた家康が駕籠で逃げる途中、辛くも堺まで落ち延びたが、南宗寺で駕籠を開けてみると、すでに事切れていた―――といいます。

 

「遺骸を開山堂の下に隠して、後に改葬した」との伝説が残されています。

徳川の世になって、久能山に改葬して、さらにまた 日光東照宮に移送したというのです。

 

家康の「霊」は、「二度目の大阪の陣で、深手を負って、南宗寺までたどり着いたが、三日後に亡くなった」と反応を示しています。

 家康の墓の寄進者の一人に、現パナソニックの創業者で「経営の神様」とまで言われた松下幸之助氏がいます。

 

松下幸之助の霊を呼び出して、どうなのかと尋ねますと―――

 

徳川家康は、この南宗寺に辿り着く前に亡くなっている」と、反応しています。「南宗寺史」の伝説を裏付けるものです。

 

家康の墓の近くに開山堂の跡があり、そこにある無名塔の隣には、幕末の幕臣で、激烈な修行を積んで、「稀代の名人」と謳われた山岡鉄舟の筆による碑文が埋め込まれているといわれます。

 

その碑文には「この無名塔を徳川家康の墓と認める」と書かれているようなのです。

 

また、1623年には2代将軍の徳川秀忠が、その1か月後には 次の3代将軍となった徳川家光が訪れています。

 

代替わりした報告をしたのかもしれません。

将軍二人が、わざわざ堺の南宗寺まで来るというのは、徳川家康に深く関わるからなのか・・・・その説を裏付けているからなのか・・・・。

 

さて―――

 

大阪城攻めの徳川秀忠には、淀君、秀頼が自害して大阪城落城前に、家康死亡の報は入っていました。

 

急きょ影武者を立てました。一説では、この影武者は小笠原秀政であった、といわれています。

 

しかし、小笠原秀政の霊は、江戸幕府を開いた後、家康が籠る「駿府には行っていない」との反応があります。

 

さらに「徳川家康の影武者にもなっていない」との反応を示しています。

 

では、誰が家康の「影武者」となったのか?

 

それは―――榊原康政の家臣で、家康の影武者の一人として仕えていた者であるようです。

 

榊原康政は武闘派で、徳川四天王の一人です。

 

「私の家臣が家康の影武者となった」と、「霊」は反応します。

 

影武者の年齢は、65歳とまでしか解りません。

 

その当時では高齢なので、戦場ではただ影武者としての役目しか負っていなかったようです。

 

大阪夏の陣(1615年)の翌年1月に倒れて、4月に死去しています。

 

死因は、長く「天ぷら」による食中毒説が流れていましたが、近年「胃がん」の症状に似ていることから、「ガン死」とされています。

 

2代将軍の徳川秀忠江戸城にいるときに、家康は駿府にいて「大御所政治」と言われていましたが、影武者にとっての直接の殿様は、榊原康政です。

 

どうやら榊原康政は、大阪城落城のあとも、翌年影武者が亡くなるまで駿府の城にいたように反応します。

 

諸大名には 江戸にいる徳川秀忠が拝謁して、駿府の家康の基には参じさせなかったようです。

 

 こうして、影武者として役目を終えて、旅立っていったようなのです。

 

 さて―――真田幸村ですが、

 

大阪城落城の時、淀君豊臣秀頼の自害に伴って、幸村の嫡男大助も運命を共にしました。

 

豊臣秀頼の子:国松は潜伏しているところを捕らえられて、処刑されました。

ただ一人、娘の天秀尼だけは 仏門に入ることを条件に、助命されました。

 

これで豊臣家は滅亡したのです。

 

後日談として―――

真田幸村軍は伊達政宗率いる伊達軍と激突しました。

 

なんとか伊達軍を退けましたが、後藤又兵衛は討ち取られました。

討ち取ったのは、正宗の家臣「片倉重長」です。

 

この攻防の時、幸村は片倉重長に一通の書状を託しました。

徳川家康本陣に向けて、最後の一戦を挑む前日です。

 

それは―――自分の娘の「阿梅(おうめ)」を保護してほしいと頼んでいました。

なんと敵方の伊達政宗の家臣に、自分の娘を託したのです。

 

武士(もののふ)として光栄に感じいった片倉重長は、大阪城から出てきた真田幸村の三女阿梅を、陣中に匿います。

 

さらに男子3人も匿いました。

 

幸村の子供を匿ったとなれば、徳川に不審に思われて、主君の伊達政宗にも影響すると考えましたが、主君の正宗とも相談して、領内に連れ帰り、養育します。

 

次男の守信は、後に仙台藩士となりました。

三男幸信は、三好姓を名乗り、出羽亀田藩に仕えました。

四男之親は、讃岐の石田家の養子になったと伝えられています。

 

その後、徳川家から真田の子供を匿っているのではないかと、嫌疑をかけられますが―――

 

自分の養子にして、片倉姓を名乗らせて、「すでに死んでいる」と報告して、幸村との約束を守ったと伝えられています。

 

ついでながら、長男の真田信之(幸村の兄)は 大坂の陣の後、信濃に移封されて、真田家は、明治の版籍奉還まで大名として存続していました。

 

こうして真田幸村の武名とともに、真田の血は 後世まで受け継がれていったのです。

 

「奥社」です。

特に波動が高いということもありません。

 

 

帰路は、また本殿までの山道を下ります。

 

これは、本殿を拝謁する「拝殿]です。

本殿には、

主祭神の「徳川家康公」、脇祭神には「豊臣秀吉公」、が祀られています。

 

脇祭神の「豊臣秀吉公」が祀られているのには、少し驚きがありました。

徳川家康は、源氏の出自としていますので、鎌倉幕府をひらいた征夷大将軍の「源頼朝」を脇祭神とするのは、納得します。

 

脇祭神に「豊臣秀吉公」を祀ったのは、明治になってからのようです(これなら納得できます)。

 

「本殿-石の間-拝殿」についての説明があります。

 

通常の大名は、「拝殿」まで進めます。

「本殿」と「拝殿」を繋ぐ「石の間」には、水戸、紀州尾張徳川御三家のみが、ここまで進めて参拝できるところです。

 

「拝殿」に入ります。

 

「拝殿」での撮影は許可されていませんが、ブログのために失礼をお詫びいたします。

 

中に入ると・・・・思ったほどの波動ではありませんでした。

 

参拝者の霊的な垢が落とされています。

 

 

内部は、立派ですが、少し物足りなさを感じます。

しかし―――

 

天井を見上げると、その波動の高さに心を打たれました。

 

ここは「石の間」だと思われます。

この先の「本殿」には入れません。

 

中は暗いので、よく映りません。

 

こうして、東照宮の見学を終えて、次に向かう「輪王寺」へ踏み出しました。

 

「隋神門」を抜けると―――

 

薬師堂(本地堂)があります。

 

ここは東照宮の中でも最大規模の建物で、この中に「鳴龍」の天井画があります。

縦6M、横15Mの巨大な龍の絵です。

 

この絵は、1961年に焼失しましたが、日本画の巨匠・竪山南風(かたやまなんぷう)によって復元されました。

 

日光東照宮を造営した天海大僧正は、天台宗の高層ですが、「山岳信仰」「神道」「天台宗(仏教)」を習合した、いわば神仏習合神道を目指しました。

 

その最高教理に「山王神道説」があり、天海はそれを「山王一実神道」という新たな教理を生み出して、「山王大権現」として、仏教の最高格「大日如来」と神道の最高格「天照大神」を習合させました。

 

これにより、家康の「東照大権現」は「天照大神」に比定される格としたのです。

 

薬師堂(本地堂)は、明治の神仏分離令から、東照宮神道)にありながら隣にある輪王寺(仏教)の所管となっています。

 

内部は暗くて、ほとんど映りませんでした。

 

 

再び「仁王門」を出て、今回の日光の旅で最も行きたかった「輪王寺」に向かいました。

 

            つづく

 

         2023年5月9日記