生命体エナジー浄化の会ブログ

「生命体エナジー浄化の会」というホームページのブログです。

徳川家康は真田幸村に殺されていた 2

《 徳川家康真田幸村に殺されていた 2 》
 
 大坂冬の陣で和睦した後、徳川家康駿府へ戻り、徳川秀忠(2代将軍)は、京都の伏見城に戻ります。
 
その後、豊臣家に不穏な動きがあるとの報告を受けた家康は、
 
  • 大阪城にいる浪人を解雇するか
  • 豊臣家が大阪城を出て、他の場所に移り一大名として暮らすか
の二者択一を迫ります。
 
当然 この要求を呑めないので豊臣は、拒否します。
 
待ってましたとばかりに、家康は直ちに諸大名に京都の鳥羽伏見に集結するように命じます。
 
1615年 京都に東軍(徳川軍)15万の軍勢が集結して、軍を二手に分けて大阪城に向かいます。
 
西軍(豊臣側)は 大阪城の堀が埋め立てられて裸城となったことで、これでは勝ち目がないと判断して、多くの浪人が退去していました。
 
東軍との和平交渉をしていた織田有楽斎織田信長の弟で淀君の叔父)も豊臣家に見切りをつけて、大阪城を去っています。
 
裸城の大阪城では、もはや籠城策をとることもできず、野戦で東軍と対峙するしかありませんでした。
 
これによって各地で激戦が展開されます。
 
東軍の主力部隊の藤堂高虎井伊直孝らの先鋒5万5千の兵と、迎え撃つ木村重成、長曾我部盛親らの1万が激突して、長曾我部盛親は藤堂隊を奇襲して撃退しますが、木村重成は討ち死にします。
 
孤立を恐れた長曾我部盛親は大阪城に戻りますが、真田幸村後藤基次(又兵衛)らは、2万足らずの兵で 東軍の伊達政宗らの率いる3万5千と激突しますが、このとき後藤基次(又兵衛)は戦死します。
 
その後、幸村軍は伊達軍と交戦して、これを撃退します。
そして毛利軍と合流して、東軍と睨み合いますが、他方での敗走を聞いて、大阪城に退きます。
 
そして東軍は大阪城の南方に集結して、15万の大軍で攻め寄せてきました。
対する西軍は 三分の一の5万です。
 
幸村は わずか3千5百の軍勢で、天王寺口で松平忠直の軍勢1万3千と一進一退の攻防を繰り広げますが、「紀州の浅野長晟が裏切った」との偽の情報を流して東軍を混乱させます。
 
そして―――
 
松平軍の一瞬のスキを突いて、先鋒、次鋒、本陣の三段階の戦法を牽いていた真田軍は、家康本陣に3回にわたって攻撃をかけます。

幸村は 家康の首だけを目指して攻撃を仕掛けるため、軍勢の兵を5人一組に分け、これを3隊に配置します。

対峙する松平忠直の軍勢を、①正面②左方面③右方面の3方向から 5人一組の兵が何グループに連なって 波状攻撃を仕掛け、

そこを突破したら再度3隊が一箇所に合流して体制を整え、家康のいる本陣を目掛けて正面から奇襲をしかけるというものでした。
 
ちなみに、この作戦は限られた軍勢で大軍を突くために楠木正成が編み出したとされるもので、「九死一生の戦法」と呼ばれるものでした。

少ない兵力を分散させずに絞った相手のポイントに集中させながら、幸村はさらに情報戦で撹乱し相手を切り崩しました。
 
このとき、家臣たちによる幸村の影武者が何度も現れ「我こそは真田幸村なり」を叫びながら奇襲を仕掛けてくるものだから、誰が本物なのかがわからず敵軍は混乱したと言います。
 
この戦いで―――
 
武田信玄と三方ケ原の戦いで敗れて以来の、家康本陣の馬印が引き倒されました。軍旗も引き倒されて、絶体絶命の寸前までいったといいます。
 
旗本は恐れおののいて離散し、家康も馬で逃走を図るも、2度までも
 
切腹する!」と口走るほど狼狽して、家臣に押しとどめられた―――といいます。如何に幸村の奇襲が家康を追い詰めたがわかります。
 
恐怖と予期せぬ事態に逃げ惑い腰を抜かす旗本らとともに、家康はなんとか幸村の奇襲から逃げ切りました(俗説では)。
 
一説によると、最期は馬に乗った真田幸村たった一人で家康本陣に切り込んできたとも、また 家康の乗った籠が、槍で刺されたとも言われています。
 
江戸時代に書かれた島津家の伝承記「薩摩旧記」には
「真田は日本一(ひのもといちの)の兵(つわもの)。徳川方は半分敗北。家康は切腹も考えていた・・・・」と、記されています。
 
家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記「高山公実録」には
「お旗本大崩れ。家康の行方も一時は分からなかった・・・」と残されています。
 
家康の旗本であり、天下のご意見番とまで言われた大久保彦左衛門が記した「三河物語」には
「旗本が混乱して、家康を見捨てて逃亡した・・・・」と記されています。
 
家康が「切腹する!」とまで追い込んだ真田幸村は、数で勝る東軍の反撃で、疲労を募らせて安居神社に退き、そこを襲われて討ち死にします。
 
さて―――
 
この攻防で、家康の目前まで攻めながら打ち取ることが出来なかったとされていますが、実は・・・・
 
家康は深手を負っていました。
 
家康の「霊」を引き出して、尋ねてみました。
 
大阪城の攻防で、真田幸村の隊に襲われて、あなたは深手を負ったとされていますが、これは本当のことですか?」
 
「本当のことである。自分はその傷がもとで・・・3日後に亡くなった・・・」と述べています。
 
これについては、幾度も同じ問いを発しております。
この反応しかありませんので、恐らく・・・このことは事実であると思われます。
 
事実であれば、歴史が変わってしまいます。
 
確かに―――徳川家康は、大坂夏の陣で亡くなっていた―――とされるものは残されています。
 
1557年創建の堺市にある南宗寺(なんしゅうじ)―――
 
この一画に今も「東照宮 徳川家康墓」があります。
イメージ 1

この場所は、戦災で焼け落ちるまでは東照宮があったところだと言います。
今も 唐門には、徳川家の「葵の紋」がある瓦が使われています。
イメージ 2
徳川家の「葵の紋」
 
「南宗寺史」によると、大坂夏の陣で激戦に敗れた家康が駕籠で逃げる途中、辛くも堺まで落ち延びたが、南宗寺で駕籠を開けてみると、すでに事切れていた―――といいます。
 
「遺骸を開山堂の下に隠して、後に改葬した」との伝説が残されています。
徳川の世になって、久能山に改葬して、さらにまた 日光東照宮に移送したというのです。
 
家康の「霊」は、「二度目の大阪の陣で、深手を負って、南宗寺までたどり着いたが、三日後に亡くなった」と反応を示しています。
イメージ 3
家康の墓の寄進者の一人に、現パナソニックの創業者で「経営の神様」とまで言われた松下幸之助氏がいます。
 
松下幸之助の霊を呼び出して、どうなのかと尋ねますと―――
 
徳川家康は、この南宗寺に辿り着く前に亡くなっている」と、反応しています。「南宗寺史」の伝説を裏付けるものです。
 
家康の墓の近くに開山堂の跡があり、そこにある無名塔の隣には、幕末の幕臣で、激烈な修行を積んで、「稀代の名人」と謳われた山岡鉄舟の筆による碑文が埋め込まれているといわれます。
 
その碑文には「この無名塔を徳川家康の墓と認める」と書かれているようなのです。
 
また、1623年には2代将軍の徳川秀忠が、その1か月後には 次の3代将軍となった徳川家光が訪れています。
 
代替わりした報告をしたのかもしれません。
将軍二人が、わざわざ堺の南宗寺まで来るというのは、徳川家康に深く関わるからなのか・・・・その説を裏付けているからなのか・・・・。
 
さて―――
 
大阪城攻めの徳川秀忠には、淀君、秀頼が自害して大阪城落城前に、家康死亡の報は入っていました。
 
急きょ影武者を立てました。一説では、この影武者は小笠原秀政であった、といわれています。
 
しかし、小笠原秀政の霊は、江戸幕府を開いた後、家康が籠る「駿府には行っていない」との反応があります。
 
さらに「徳川家康の影武者にもなっていない」との反応を示しています。
 
では、誰が家康の「影武者」となったのか?
 
ここで容量オーバーとなり、続きます。