決死の覚悟で真田幸村率いる六文銭の軍勢が、ただ一人「徳川家康」だけに的を絞って突撃して、家康の本陣に迫りながら、あと一歩のところで 家康を打ち取ることができなかった・・・・という有名なシーンがあります。
後日、このとき家康は深手を負って、この傷が元で亡くなった・・・・という説を追います。
真田軍は 小さな大名ではありましたが、2度にわたって徳川軍を撃破しています。
簡単な概要は―――
まず徳川軍は 7千の手勢をもって、真田の上田城に攻め上りますが、わずか1200の真田勢に散々な目に遭わされます。
このとき徳川軍の死者は1300人を超えたと言われています。
一方、真田軍の死者はわずかに40人程度だったといいます。
翌日、徳川軍は5千の兵を救援動員して、丸子城を攻めますが、落とすことができずに浜松に撤退します。
その前には、家康は秀吉と戦って小牧長久手の戦いに勝利しています。
満天下に「徳川家康強し」との存在感を示していましたが、
真田勢の10倍の兵力をもった徳川敗北の報は、天下に知れ渡たりました。
真田昌幸恐るべし―――と、一目置かれる存在となりました。
前回の上田城の攻防で、徳川軍はぶざまな敗戦を喫しているので、これで徳川の汚名がぬぐわれると、秀忠は喜びますが―――
これは昌幸の時間稼ぎであり、「これで準備が整ったので、一戦お相手仕る」と、やってきた徳川の使者に伝えたと言われます。
家臣によって与えられた馬で、徳川秀忠は慌てて小諸に逃げたと言われています。
この天下分け目の戦いは「長引く!」とみていた真田にとって、わずか一日で西軍(石田光成側)が敗れたとの報は、予想を覆すもので―――真田は 徳川に降伏を申し入れます。
「即刻 上田領没収と死罪を命じる」
としたようですが、徳川方の家臣となっていた真田家の長男信之(信幸)や妻の父である本多忠勝などの働きで、蟄居謹慎に留まりました。
「豊臣方と徳川方は、いずれ必ず衝突する」と父の真田昌幸は見越していたようです。そして・・・・
「まず、豊臣と徳川が争うことになったら・・・・尾張を攻撃して、そこを占拠せよ」
と、述べます。
「そして・・・徳川軍の主力が進撃してきたら、そこを引き払って、近江まで退いて、宇治と瀬田の橋を落として、敵の進撃を阻み、京の二条城を落とし、最終的に大阪城で 徳川軍を迎え撃つ・・・・」
このように言い残して真田昌幸はこの世を去ります。
これは豊臣恩顧の各大名が、豊臣側について参戦するか否かで迷っているのを、決起させることになるものです。
大河ドラマでは、このようなシーンとして描かれていました。
の主要部分は完成していましたので、簡単には攻め落とすことはできないと思われます。
実際にはどうだったのか―――私の古文献の資料には、次のように描かれています。
それは―――
父 真田昌幸は、
「ワシにひとつの秘策がある。だが・・・・この策を用いずに死んでいくのは、まことにもって残念だ。
これはお前に伝えても、おそらく用いる機会はないであろう・・・・。
残念かな、お前はまだ若すぎる。才知はワシより優れているが、戦いの場をまだ十分に踏んでいないから・・・・」
このように幸村(信繁)の父、真田昌幸は、語り始めたと言います。
「徳川との一戦を交えることになれば、大阪城(豊臣)は ワシらを招いて、ワシを軍師として迎え入れるであろう。
そこで・・・兵2万をもって、まず徳川軍を迎え撃つのに関ケ原まで出陣する。
すると徳川軍は 大軍であっても急には向かってこない。
なぜなら―――
関ケ原は 要害の地でもなく、砦もない広野なので、そこで大軍を迎え撃つというのはおかしいと考える。
家康は ワシの戦略に散々な目にあってきているから、何もないところに陣を張ることを、訝(いぶか)しむ。
不審に思うのは当たり前で、ワシとてわずか2万の兵で 大軍を相手にできないのは承知している。
家康は ワシの武略はよく知っているので、『真田はまた 何か謀略があるに違いない』と・・・怪しんで、まず守備を固めて評議するはずだ。
これで4日から5日は 軍の進軍を取りやめることになる。
そのあと忍びの者を使って、敵の様子を見ながら、兵を引き上げつつ橋を壊していく。
このため・・・・徳川の大軍はあちらこちらで滞留することになる。
真田勢だけで、関東の家康の大軍を幾日も防いだ―――と諸国に伝われば、大阪につくか関東につくかで迷っている武将は、大阪(豊臣)につくはずである。
そのとき大阪城に入って、関東(家康軍)を迎え撃つ。
家康ほどの人物であるから、大阪城を力攻めするような愚かなことはしないであろう。
敵が攻撃してきても戦いに応ぜず、敵が疲れてきたら、早朝に打って出たり、夜襲をかけたりして敵を悩ませれば、ろくに休めなくなって気疲れしてくる。
そこを、今は亡き秀吉公びいきの大名に内通すれば、混乱してしまう。
あとは、その虚をみて討って出れば、勝てるはずだ。
しかし―――
大野修理(しゅり)ら秀頼の側近派の決断力が乏しいために、最終的には 昌幸の予見した通りの展開となってしまうのです。
そして―――
- 豊臣軍が大軍であることを知った豊臣恩顧の大名たちは、寝返る可能性がある。
- また、鉄壁の大阪城は陥落することはない。とされたのです。
史実では家康はこの2年後(夏の陣の翌年)75歳で亡くなっています(本テーマでは73歳で死亡説です)。
しかし、徳川軍には兄の真田信之(信幸)がいますので、両者が共謀して呼応するとの疑いがもたれます。
「1万石出すので・・・・徳川に帰参して欲しい・・・」
断ると、さらに―――
「信濃一国と10万石」
と条件を変えてきます。
「1万石なら、不忠義者にならず、10万石なら不忠者になるとお思いか!」と、家康の申し出を断ったと言われています。
そして・・・・大阪(豊臣側)が家康と和睦した背景には、家康が高齢であったために、時間稼ぎの意味もあったようですが、大阪城の外堀を埋めるのは 夜を徹して行われたために、
あっという間に外堀が埋められて、大阪城は丸裸になります。
「約束が違う!」と言っても後の祭り、
大坂夏の陣に突入するのです・・・・。
つづく
2016年11月1日記