《 三浦半島のパワースポット巡り その3 》
叶神社(かのうじんじゃ)
叶神社(かのうじんじゃ)は、浦賀港を挟んで、東西に2社あります。
西叶神社と東叶神社です。
「行った方がよい!」との反応を示したのは、東叶神社(ひがしかのうじんじゃ)でした。西叶神社は、そこまでの反応はしませんでした。
現在、西叶神社で「勾玉」を授かり、東叶神社で「お守り袋」にそれを入れて身に着けていると、良縁などのご利益があるとされています。
我々の行った東(ひがしかのうじんじゃ)は、江戸時代初期に、西叶神社を勧請して創建されたものです。
明治になるまでは、耀真山永神寺と呼ばれ真る言宗醍醐派仏教寺院を別当寺としていたものです。
祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
この神社は、養和元年(1181)八月十五日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って、石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、
その後、源頼朝によって、その願いが叶(かな)ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。
神社の裏山は「明神山」と呼ばれています。
よく保存された自然林で「県指定天然記念物」であり、叶神社の「社叢林(しゃそうりん)」となっています。
「明神山」は、浦賀城があった跡に、東叶神社が建てられたもので、「奥の院」「東照宮」「神明社」「稲荷社」があります。
「叶神社(東叶神社)」です。
この鳥居には、「結界」はありません。
「叶神社」の前に行った「安房口神社」も「走水神社」も、鳥居には「結界」が敷かれていました。
両神社とも「叶神社」の管理下であり、なぜお膝元の神社に「結界」がないのか・・・・釈然としませんでした。
「日西墨比貿易港の碑」とあります。
これによると、
「慶長3年(1598年)、徳川家康はスペイン(西)領メキシコ(墨)から新しい精錬技術を導入するために、スペイン領マニラ(比)からメキシコに行く前に浦賀港に寄港するように交渉した。
そのために英国人のウイリアム・アダムス(日本名:三浦按針)を顧問として雇い、浦賀などが開港されたといいます。
日本の各地にフランシス修道会が設立されました・・・以下略」
ここに出てくる三浦按針は、幕府に世界情勢を指導して、南蛮貿易で活躍したので、徳川家康に旗本に取り立てられています。
その後、幕府は「バテレン禁止令」を出したので、三浦按針は貿易港である長崎の出島に住むことを余儀なくされています。
三浦按針とともに日本に漂着したヤン・ヨーステンも江戸に招かれ、今の東京駅の近くに屋敷があったことから、「八重洲」の地名になっています。
なぜ、「キリシタン禁止令」を出したのか?
それ相応の理由があります。
スペインは、まず修道士を入国させて、その土地の文化に食い込みます。
そして、封建制を内部から崩壊させていく手段をとって、東洋の国々を植民地にしていきました。
その手段に気づいた幕府は、「キリシタン禁止令」を出したのです。
それよりも前、
豊臣秀吉の時代にも、同様な動きがありました。
これについては、我々の歴史教科書では扱っていませんが・・・・
当時のキリシタン大名は、武器が欲しくて、領内の女性を奴隷として売り飛ばしていました。人身売買です。
日本から売られた女性は、外国で悲惨な状況のなかで、その多くが死んでいきました。
これを知った秀吉は、バテレンに多額の金銭を支払い、奴隷とされた女性たちを日本に戻すように交渉しています。
このような過去のいきさつがあっての、「キリシタン禁止令」でした。
天草の島原で、江戸幕府と天草四郎を頭(かしら)とする島原の乱があり、これは史上最大の一揆です。
「隠れキリシタン」が世界遺産になっていますが、奴隷として連れ去っていた過去の歴史を知ると、少し複雑な思いがあります。
ここには、1181年に源氏の再興を願って、石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まると書かれています。
その後、源頼朝によって願いが叶ったことから、「叶大明神」として祀られています。
房総半島の里見水軍が三浦半島に攻撃をしてきたので、この明神山に水軍を配備したと伝わります。
山頂に「奥宮」があります。
この階段が参道です。
「拝殿」です。
特に波動が高いことはありません。
平凡な波動です。いたって平凡です。
しかし・・・
中をみると、良好な波動が感知されます。
よく判らない神名です。
中に入りました。
カネゴンが祈りを捧げました。
ただただ感謝だけを捧げています。
この後、我々は「奥宮」を目指しました。
この階段を登ります。
最初の石段は「恵仁志坂(えにしざか)」といいます。
これは・・・「稲荷社」でしょうか。
よく判りませんが・・・
「勝海舟断食の碑」
「万延元年(1860年)、日本で初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸艦長の勝海舟は、航海前に東叶神社の井戸で水垢離をした後、裏山の山頂で断食をしたと伝えられています」
このように書かれています。
さらに階段を登ります。
この最後の階段は、「産霊坂(むすびざか)」といいます。
ゾンスも、エッチラ!オッチラ!と登ってきます。
山頂に到着します。
正面に奥宮(奥之院)があります。
波動は高そうです。
こちらにも、2つの祠があります。
こちらも波動が高そうです。
さらに「招魂塔」があります。
戦争や事故などの殉教者のために建てられたようです。
ここが「奥宮(奥之院)」です。
何か・・・ゾクゾクするような波動です。
扉が閉まっていて中には入れませんが、かなりの高波動です。
胃の後ろにある「太陽神経叢」を整えるように思われます。
「太陽神経叢」とは、第3チャクラに関わる部位です。
活力の源泉となる部位で、多くの方がここにマイナス波動が蓄積しています。
だから―――ここを参拝すると活力が漲って来るかもしれません。
「勝海舟断食の碑」です。
この右には・・・・
「神明社」があります。
このままでは、それほどの波動ではありませんが、400年前にセットすると、このエリアの波動が強烈に高まります。
この画像は、その当時の「高波動のトキ」にセットしています。
「産土(うぶすな)の神的エナジー体」のようです。
勝海舟は、このエリアで断食修行をしたものと思われます。
勝海舟は、幕末史に残る偉人です。
幕府の全権代表として、官軍の総大将の西郷隆盛に会いに行くのに、全くの無防備で官軍の将兵たちに取り囲まれましたが、まったく動ぜず、江戸を無血開城に導きました。
彼の談話を記した「氷川清和」に詳しいですが、薩長同盟を成し遂げたとされる坂本龍馬が、勝海舟は日本をダメにする人物だからと吹き込まれて、暗殺するつもりで屋敷に乗り込んだことがありました。
ところが、逆にその人物の見識の深さにほれ込んで、弟子になったことは有名です。
こちらは、「東照宮」の祠です。
それほどの波動ではありません。
「神明社」から「奥の宮」を見ています。
山頂のエリアは波動が高いので、しばらく佇んでしました。
やはり、去りがたく・・・・
我々は、「奥の宮」の中に入らせて頂き・・・
その前に、持参のブレスレットを置いて、高波動エナジーを吸引しました。
そして、全員で「このように神的エナジー体にお遭いできたことに感謝」を捧げました。合掌
こうして、山を下りました。
すると・・・・
「不動尊」がありました。
波動は高くないです。
さらに・・・・
「身代わり弁天」とあります。
この先に、「弁天社」の洞窟があります。
祭神は、「厳島媛命(いつくしまひめのみこと)」とあります。
元は、産土神のようです。
洞窟の中は・・・暗くてよく分りません。
それほどの波動ではありません。
「身代り弁天御神徳」です。
その傍に・・・・
龍の口から水が流れ落ちています。
この水に、「硬貨」を漬けて保持していると「金運アップ」と「運気が上昇」するということです。
ただ、我々は誰一人として、「硬貨」に流水を浸しませんでした。
この井戸は、勝海舟が「断食修行のときに使用した井戸」のようです。
こうして、三浦半島のパワースポット巡りを終えました。
了
2022年1月4日記