《 日光を探索する 4 》
二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)と「大猷院(だいゆういん)」その1
二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)とは、日光の御神体山である日光三山を祀る神社です。
日光三山は、男体山(なんたいさん。古名を二荒山:ふたらさん)、女峰山(にょほうさん)、太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っています。
江戸時代になって、幕府によって日光東照宮等が造営されると、二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営されています。
二荒山神社は、日光社寺の最奥に鎮座していて、その奥宮は男体山の山頂にあります。
この後に訪れる滝尾神社は、女峰山登山口の奥にあります。
二荒山神社の境内(御神域)は、日光連山や中禅寺湖などの 奥日光から日光の中心地までをカバーしています。
これは伊勢神宮に次いで、日本で2番目に広い境内地となっています。
「二荒山神社」とある鳥居から入ります。
この鳥居には、「結界」が張られています。
実は、我々は「東照宮」から「輪王寺」に、自転車で行きましたので、「東照宮」から「二荒山神社」へと通じる参道を通っていません。
この参道は「上神道(かみしんみち)」と言われる「龍道」で、生気の通り道と言われています。
この参道は杉の並木道で、歩くだけで「龍道」からのパワーを貰えると云われています。
「むすび大国」とあります。
ここでは「縁結びの神」としています。
この右隣には、「縁結びの御神米」とあります。
良好な雰囲気の「参道」です。
これは本社ですが「拝殿」です。
ご神体である標高2486メートルの「男体山(二荒山)」の「拝殿」となっています。
この本社(拝殿)が、いつ頃建てられたかは判っていませんが、勝道上人が767年に日光山を開基したという記録が、最も古いものとして残っています。
現在の本社や社殿は、2代将軍の徳川秀忠の発願によって建てられています。
ご祭神は「大己貴命(おおなむちのみこと)」、「田心姫命(たごりひめのみこと)」、「味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」の親子3神です。
「拝殿」の中は、このようになっています。
この奥に「本殿」があります。
それほどの波動ではありません。
ご祭神の神的エナジーを引き出そうとしましたが、ご祭神の「大己貴命(おおなむちのみこと)」などのエナジーは反応を示しません。
しかし、ご神体山である「男体山」のエナジーは、反応を示しました。
やはり―――日光は修験道の聖地であることを、再認識させられました。
ここは、関東有数の「縁結びパワースポット」です。
ここは、男体山の男性的で力強いパワーを感知できるエリアです。
また、
女性的で、良縁、愛情運、金運、健康運などのご利益があるとも言われていますので、
この二荒山神社は、2種類のパワーを頂けるエリアだと云われています。
境内は広いです。
社務所です。
この右の銀杏の木が、何か注意を惹きました。
ここの近くに――――
このような御神木の跡があります。
かっては・・・・この境内を守っていたのでしょうが・・・・今は、枯れています。
「拝殿」の後方にある「本殿」の屋根が見えます。
徳川家の「葵の紋」が目に入ります。
「本殿」からのエナジーは、ここから感知されます。
御神体の「男体山」のエナジーと、「拝殿」では感知できなかったご祭神の「大己貴命(おおなむちのみこと)」などのエナジーも、ここからだと体内に取り込むことができそうです。
このあと、「大猷院(だいゆういん)」に行きました。
「大猷院(だいゆういん)」とは、徳川三代将軍「家光公」の廟所(びょうしょ)(廟所=墓所)です。
祖父である「家康公」(東照宮)を凌いではならないという遺言により、金と黒を使用し重厚で落ち着いた造りになっています。
三代将軍「家光」は、徳川家康を心から尊敬していて、死後も「家康公」に使えるとの遺言により、四代将軍「家綱」によって建造されました。
ですが―――
中に踏み込みますと、その素晴らしい建造物に目を奪われました。
まず「仁王門」があります。
金剛力士像があります。
この「仁王門」は、仏敵が中に入り込むのを防ぐ、守護神となっています。
右側の仁王像です。
これは「阿行(あぎょう)」で、口を開いています。
怒りの表情を露わにしている像です。
これはまた、「宇宙の始まり」を意味しています。
左側の仁王像です。
これは「吽形(うんぎょう)」で、口を閉じています。
怒りを内に秘めている像です。
これはまた、「宇宙の終わり」を意味しています。
「御水舎(おみずや)」
御影石の「御水舎(おみずや)」です。
「天井には、狩野永真安信の描いた龍の絵があります。
水面に映る姿から、「水鏡(みずかがみ)の龍」と呼ばれていました」
このように説明されています。
御影石の「御水舎(おみずや)」です。
「御水舎(おみずや)」ですが、このように豪華絢爛たる建物となっています。
狩野永真安信の描いた龍の絵――「水鏡(みずかがみ)の龍」です。
すぐ近くの龍口から、水が流れ落ちていました。
ここに・・・・
不思議な仏像(正面のやや右)があります・・・・これは!!
深夜0時を過ぎますと、ここに近づきますと・・・・ほとんどの人が歪みます。
まあ・・・深夜に ここに立ち入る方はいないでしょうが・・・・。
ここは「龍光院」です。
「立ち入り禁止」ですが、この先の参道は良好な波動です。
この「龍光院」には、将軍家光の8歳下の家臣であった梶貞良(かじ・さだよし)が住んでいました。
家光亡き後も日光に移り住んで、87歳で逝去するまで、毎日霊前に「靈膳」を捧げることを日課としていました。
火災や水害の際には、私財を投じて日光の人々に尽くしたので、地元民から「梶(かじ)さま」と慕われていました。
「二天門」です。
この「二天門」は絢爛豪華です。
186体の彫刻がされています。
東照宮の「陽明門」を彷彿とさせます。
この「二天門」は、その規模で「陽明門」を凌いでいます。
高さ11.6M、幅9,6Mで、陽明門よりも高さが50センチ、幅が2,5Mほど大きく、日光では最大の大きさです。
「二天門」を上から見たもので、その大きさが伺えます。
「二天門」ですので、「天」系の神がこのエリアを守護しています。
どういうことなのか―――
「二天門」を守護する神々の配置図です。
前面の左右に「持国天」と「増長天」が守護して、後面の左右には、「雷神」「風神」が守護しています。
「持国天」です。
絢爛豪華としか言いようがありません。
「持国天」は四天王の一人で、東方を守護します。
しかし、
残念ながら「生きていません」。
「増長天」です。
「増長天」は四天王の一人で、南方を守護します。
これも残念ながら、「生きていません」。
「風神」です。
これも残念ながら、「生きていません」。
「雷神」です。
「増長天」も「持国天」も、インド神話では「雷神」の配下です。
そのことから、前面を守護する「増長天」も「持国天」も、インド神話ではこの雷神(日本では帝釈天)が親玉なのかもしれません。
これも残念ながら、「生きていません」。
石灯籠です。
この解説によると、
「幡の礎石(ばんのそせき)」といって、境内には仏教様式の旗を掲げるときに用いる基礎石で、境内には80個所あります」
とあります。
これは右側にある「鐘楼(しょうろう)」です。
ここに「釣鐘」があります。
これは左側にある「鼓楼(ころう)」です。
ここに「太鼓」があります。
大きな法要があるときには、この「釣鐘」と「太鼓」が打ち鳴らされました。
「夜叉門」です。
ここから、「大猷院(だいゆういん)」の凄さを実感することになりました。
つづく
2023年7月4日記