《 麻賀多神社 その1 》
2021年12月3日に、千葉県の「麻賀多神社(まがたじんじゃ)」を目指しました。
まだ、世間では「コロナウイルス騒動」で、互いに人を警戒している最中のことです。
我々は、「コロナウイルス」には、まったく関心がありませんでしたし、警戒もしていませんでした。
ワクチンを打っていないので、その悪影響の心配も一切ありませんでした。
ワクチンを打って、最も強烈な防御である「自然抗体」の形成を損なうこともなく、健全な「自然抗体」が形成されていたことも確認していました。
私はすでに「麻賀多神社(まがたじんじゃ)」には行っていましたが、同行者は「ぜひ、行きたい!」と口をそろえるので、再び神社を目指しました。
その途中で、「宗吾霊堂」という看板が目に入りました。
成田市にあります。
「麻賀多神社(まがたじんじゃ)」にも近いですし、よさそうな反応なので、そこを目指しました。
宗吾霊堂とは、いったい何なのか―――
ここの開基は古く、古刹のようです。
桓武天皇の時代に、征夷大将軍の坂之上田村麻呂が、房総を平定した時に戦没者の供養のために建立したと伝わります。
ここはお寺で、鳴鐘山東勝寺といいます。
なぜ、「宗吾霊堂」なのか?
それは―――
今から360年前の、江戸時代初期の4代将軍徳川家綱の時代です。
凶作が続き、過酷な重税の苦しむ農民を救うために、木内惣五郎(佐倉宗吾)ら6人の名主が、幕府に農民の窮状を訴えました。
しかし、その訴状は受け入れられず、木内惣五郎(佐倉宗吾)はご法度である、当時禁じられていた将軍への直訴を決行します。
この直訴によって、農民を苦しめていた重税が見直されて、村々の農民は救われました。
だが、御法度の将軍への直訴を行ったことで、木内惣五郎(佐倉宗吾)とその一族の全員が、刑に処せられました。
承応2年(1653年)に、幼い子供らまでもが全員が処刑されたのです。
まさに、命がけの直訴でした。
それから100年後、佐倉藩はその失政を悔いて、木内惣五郎(佐倉宗吾)の名誉を回復するために、「宗吾道閑居士」の法号を諡号(しごう)し、以来「宗吾様」と呼ばれるようになったと伝わります。
今でも「義民・佐倉宗吾」として、ここに祀られています。
この看板に
江戸時代に農民の救済を 4代将軍に直訴した、木内惣五郎(佐倉宗吾)の菩提寺です」
とあります。
なぜかこの釣鐘は波動が高く、我々はこの中に入りました。
この釣鐘の下に入りますと、身体が整います。
体調の悪い時に、この中に入り込みますと・・・・身体が整います。
勝手に鐘を打ってはダメなので、我々は小さく叩いて、振動波動を全身に染み渡らせました。
大本堂は大正10年に建立されています。
なかなか立派な建物です。
本尊は佐倉宗吾です。
「はりつけの刑」に処せられた人物を、「本尊」としています。
ここに
とあります。
「佐倉藩の悪政のために、生活に苦しむ人々を救うために、四代将軍家綱に直訴して、10万の人々の命が救われました。
しかし、その罪により本人と四人のお子様は刑に処され、その遺骸を現在のお墓の跡(当時の刑場跡)に埋葬されました。
その後百年祭のときに、佐倉藩主より「宗吾」の法号を贈られて・・・「宗吾霊堂」と称するのであります」
このような案内がされています。
「御護摩奉修」とあります。
ここでは朝に「護摩焚き」が行われているようです。
「護摩焚き」が行われると、お堂の中は高波動に満たされます。
密教の「護摩焚き」には幾度も立ち合いましたが、不思議なほど「高波動の空間」になります。
その「堂」にあるすべての仏像が「生きている」反応に変わります。
ある密教の阿闍梨の方の、護摩炊きではなくて、家の浄化を行う「場」に立ち会ったことがありますが、お経を唱えていると・・・・・あたり一面に 御大師様のエナジーが無限大に満たされました。
この「宗吾霊堂」も真言宗系ですので、恐らく御大師様のエナジーが無限大に満たされるのではないか・・・・と、想像しました。
「宗吾靈」の扁額があります。
この扁額の「靈」は、日本本来の文字の「靈」と字には、「口」の字が真ん中に3つ並んだ文字です。
この文字が、強い霊力をもたらします。
この「靈」の文字は、進駐軍GHQによって、使用が禁じられたものです。
通常の「霊」には、残念ながら特に霊力はありませんが、古来から用いられた「靈(みたま)」の文字には、強い霊力が宿ります。
私は、この「霊(みたま)」の文字が好きで、折に触れてこの文字を書き込んで、手帳などに挟んで所持しています。
この「宗吾靈」の中は、高波動に満たされています。
日々真言密教の「護摩炊き」が行なわれていることが確認できます。
こうして―――我々は、今回の目的である「麻賀多神社」に向かいました。
「総社 麻賀多神社」
私は、すでに一度「麻賀多神社」に来ていますが、入口に来てみると―――
「以前に来たところとは・・・・違うのかな?」
と疑問が湧きました。
この鳥居に見覚えがありません。
本当に、「ここは麻賀多神社なのか?」と思いながら、鳥居を潜りました。
あとで判りますが、この「麻賀多神社」は「奥宮」でした。
この近くに「本宮(また本社)」があります。
私が以前行ったところは「本宮」でした。
その「本宮」の「麻賀多神社」が、今回の目的地でしたが、まずは初めて来た「奥宮」を探索します。
後日調べて解りましたが、麻賀多神社は近隣の「小麻賀多神社」を含めて、全部で18社もあるようです。
「麻賀多神社」は二社あることが示されています。
つまり―――
私が以前に行ったことのある本宮は、稚産霊(わかむすび)神を祀ります。
ここの奥宮は、稚日霊(わかひるめ)神を祀ります。
ここには、「印波国造伊都許利命(いんばくにのみやつこいつこりのみこと)」の墳墓があります。
「印波国造伊都許利命(いんばくにのみやつこいつこりのみこと)」の墳墓の表示です。
ここが墳墓の石室の入り口です。
ここの石室の前で、タッキーが騒いでいました。
このことが、超過敏なゾネスに悲劇を貰らしました。
ここは聖域です。
聖域に立ち入るには、静かにしていることが暗黙の了解事項です。
この聖域を守護する天狗界系のエナジー体が、それを嫌がったようなのです。
過敏なゾネスは、タッキーの騒ぐ声を聴きながら、少し不安感に包まれていました。
そして―――不安は的中します。
古墳の頂の手前で転倒して、脛を強打しました。
何もない所での転倒でしたので、天狗界系の眷属の影響を受けていたようなのです。
ゾネスの脛は、痛々しく腫れあがりました。
チェックすると―――確かに・・・・天狗界系の眷属が、聖域で騒いでいた集団の代表として、超過敏なゾネスに罰を与えた―――このような反応を示しました。
「印波国造伊都許利命墓」とあります。
以前のブログでも書きましたが、私が住む田園調布のエリアには、隣の多摩川駅の前に、大きな古墳があります。
そこの石室には何もなく、誰もが立ち入ることができます。
公園となっていますが、このエリアの近隣の住居はマイナス波動です。
この影響が、近隣の住居にも何らかの影響があるかもしれません。
しかしながら―――
田園調布が開発された当初は、一般のサラリーマンでも購入できる価格帯で設定されていました。
ところが、大正時代の関東大震災のとき、東京の大多数は潰滅しましたが、田園調布一帯はほぼ無傷でした。
そのために、セレブが田園調布に集まってきて、現在の高級住宅地といわれるエリアになりました(私が住むエリアは高級住宅街ではありません)。
このとき、関東大震災でこのエリアを守ったのは、多摩川駅前の「古墳」が大地を守護したと思われます。
日本最大の「仁徳天皇陵」は、戦後になって日本の強さの秘密を徹底的に解明する
今でもここは聖域で、一般人の立ち入りは制限されています。
自由に立ち入れるようになると、その近隣はマイナス波動に陥る可能性があるかもしれません。
しかし、この近隣は高波動に守られています。
そもそも「古墳」は、地場の良好な地に造られたようです。
そのために、「古墳」のエリアは聖域であるところが多く、そこに埋葬された昔の人は、死してなお 土地の波動を守り通していたのかもしれません。
「印波国造伊都許利命墓」は、高波動です。
そのために、我々は持参のブレスレットにその高波動を吸引しました。
この石碑の前で、我々は「天地結合の印」を結び、地球の大地と天の太陽からのエナジーを身体に吸引して、体内波動を高めました。
「伊都許利命碑誌」です。
この解説文が彫られています。元文2年とあります。
古墳の先にある「麻賀多神社」の奥宮を目指します。
ここが「麻賀多神社奥宮」の鳥居です。
鳥居には、「麻賀多神社」の扁額があります。
この鳥居は、「結界」となっています。
身体が汚染された人は、ここでも浄化されます。
「麻賀多神社奥宮」です。
ここの奥宮は、稚日霊(わかひるめ)神を祀ります。
良好な波動が伝わってきます。
「香取神社」の祠です。
ここは、特に波動は高くはありません。
「麻賀多神社奥宮」の「本殿」です。
ここには―――本当に「稚日霊(わかひるめ)神」が反応します。
ここに御神木の「大杉」があります。
御神木ですので、良好な波動です。
奥宮の近隣は、心地よい波動に包まれています。
ここの空間も良好です。
こうして―――いよいよ今回の旅の目的地となる「麻賀多神社」を目指しました。
ここで我々は、格段の高波動に包まれる体験をすることになります。
つづく
2023年8月8日記