生命体エナジー浄化の会ブログ

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ダ・ヴィンチの絵画 その6

≪ ダ・ヴィンチの絵画 その6 ≫
 
11-11-24
 
 
ダ・ヴィンチは 「マグダラのマリア」崇拝者であり、「聖ヨハネ」崇拝者です。
それは 同時に  「女神」崇拝が その根本にあるようです。
 
なぜ―――そう言い切ることができるのか
 
◆ ダ・ヴィンチの描く 「すべての聖人」は、男性を描いたものであっても 「女性のエネルギー循環」を示す―――からなのです。
 
それだけでは ありません。
 
◆ ダ・ヴィンチの描く人物(聖人以外の人物)は、 「男性のエネルギー循環」と「女性のエネルギー循環」の、両者を内在している―――からなのです。
 
私の知る限り、ダ・ヴィンチの絵画に示される「すべて」に、このことは当てはまります。
 
驚くべきことに―――
 
≪ ダ・ヴィンチの絵画 その1≫で示した「手のデッサン」にすら、 
女性と男性の 両性のエネルギー循環が 描き込まれています。感知し得るのです。
 
 
 
◆ 男性が女性よりも優るとした 近代の宗教思想に賛同しなかったようなのです。
 
◆ 男女は原初において一体であり、むしろ女性こそが「聖なる存在である」とする女神信仰を信奉していた―――という説があります。
 
それは確かに、マグダラのマリア崇拝につながる主張を、裏付けるものです。
 

このことは、ダ・ヴィンチの すべての絵画に共通することなのですが、
 
◆ ダ・ヴィンチの描く「すべての人物」には、ダ・ヴィンチ本人の霊体(エネルギー体)が 写し込まれています。
 
◆ 聖人でも 聖人以外の人物であっても―――また、デッサン画でさえも、このことは 感知され得るのです。
 
※ これについては、「モナリザ」を検証するときに、その詳細に触れたいと思います。
 
 
世間・一般に「霊魂」といわれる「本質生命体」は―――
 
神道でいう「直霊(なほひ)」、あるいは「真我(しんが)」「内在神」・・・・など 様々な表現をされていますが、
 
この「霊魂」には、本質的には性別は存在しない―――と、いわれています。
 
 
このことを前提として、ダ・ヴィンチの絵画を検証すると―――次のことが見出されていきます。
 
ダ・ヴィンチは、「人物」を描くにあたって、必ず
◆ 「男性の肉体」 と 「女性の肉体」の 両者を内在させています。
 
もう少し 具体的に表現すると―――
 
◆ 男性の人物像は、男性としての「生体エネルギー循環」を示します。
◆ 女性の人物像は、女性としての「生体エネルギー循環」を示します。
 
ですが―――
◆ その描かれた「人物」が 男性であっても女性であっても、必ず「不可思議な男女の生殖器」の存在を、内在させているのです。
 
そして―――
 
◆ 「神」を内在させる人物を描くときには、「女性(女神)」を 内在させているのです。 「男性神」ではありません。 「女性神(女神)」です。
 
これが―――ダ・ヴィンチの絵画に秘められた「本質的な表現方法」なのです。
 
この視点でダ・ヴィンチの絵画を分析すると、「モナリザ」をはじめとして、その絵の中に書き込まれた・・・・ダ・ヴィンチの人物像が 浮かび上がってくるのです。
 
 
もうひとつ―――
 
性神(女神)を描くときには、(秘密結社シオン修道会の長として)「マグマダのマリア」として、その人物像に「女神」を内在させています。
 
『最後の晩餐』に描かれたイエスを、霊的な観点から診ると―――「洗礼者聖ヨハネ」として描いているように思われるのは、 その当時の背景を理解する必要があるようです。
 
◆ ローマ・カトリック教会支配下における「神」は、「イエス・キリスト」に限定されていました。
 
 しかし ダ・ヴィンチは、 ローマ・カトリックの背後に在る「魔界のエネルギー(その当時)」を 嫌悪していたようなのです。
 
それ故 ダ・ヴィンチは―――
 
魔界に在る(カトリックが信奉する)イエスを、神とみなしていなかった・・・・・このように反応しているのです(註: あくまでも、「その当時」としての反応です)。
 
◆ ダ・ヴィンチの原稿が「鏡文字」を用いていたのは、カトリックに知られてしまう危険性を回避するため―――とされています。
 
◆ ダ・ヴィンチが追及する科学的見識は、ことごとく その当時のカトリックの見解とは異なるものであり、異端者の烙印を押されると、「火あぶりの刑」すら 覚悟しなくてはならない社会情勢でした。
 
それ故、
 
◆ 男性神―――つまり、イエス・キリストを描くことを 依頼者からもたらされたとしても、そのイエスの像には 「女性神(女神)を内在させた聖ヨハネ」として、描き込んでいます。
 
―――これが、ダ・ヴィンチの絵画の中に示される「本質的な秘密」である、と 私には解釈されるのです。
 
 
つづく