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写真分析から裏の歴史を考える 4 フルベッキ写真を分析する その2

≪ 写真分析から裏の歴史を考える 4≫
フルベッキ写真を分析する その2
 
そもそもフルベッキとは何者なのか―――
 
以下、ウキペディアより概略転載
 
1830年にオランダ、8人兄弟の6番目の子供として生まれた。フルベッキ家は代々モラヴィア派に属していたので、フルベッキはモラヴィア派の学校に通い、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。また、同派で洗礼を受けた。
 
少年時代、中国宣教師のカール・ギュッツラカールにより東洋宣教の話を聞き、海外伝道に興味を持っていた。モラヴィア派の学校を卒業後、ユトレヒト工業学校に進学し、工学を学んだ。
 
185292日、22歳のフルベッキはニューヨーク州オーバン市にいた義理の兄弟の招きでアメリに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働くようになる。
1年後にニューヨークに移動、更にアーカーソン州でエンジニアとして働くことを選び、橋や機械類をデザインした。同じ時期に南部の奴隷たちの状態を見て心を痛めていた。
 
1855年にニューヨーク市にある長老派のオーバン神学校に入学した。
神学生の時に、サミュエル・ロビンス・ブラウンの牧会するサンド・ビーチ教会で奉仕をした。これをきっかけに、ブラウンと共に日本に宣教することになる。
 
1859年オーバン神学校を卒業する時に、ブラウン、シモンズと一緒に米国のオランダ改革派教会の宣教師に選ばれた。
 
直後の322日長老教会で按手礼を受けるが、翌日改革派教会に転籍して、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命された。
 
418日にマリア・マンヨンと結婚し、57日にサプライズ号で、ブラウン、シモンズと共に日本へ向けてニューヨーク港より出版した。
 
上海一時寄港した後、ブラウンとシモンズは先に神奈川に渡り、上海に妻マリアを残して117日に、日本語習得のために長崎に一人で上陸した。
フルベッキは長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。
 
長崎では聖公会のジョン・リギンズチャイニング・ウイリアムに迎えられ、崇徳寺徳庵に同居した。その後、1219日に妻マリアを上海より呼び寄せた。
 
長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていた。1862年には、自宅でバイブルクラスを開いた。
 
また1861年から1862年にかけては佐賀藩大隈重信副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けている。
 
1863年(文久3年)の生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年に長崎に戻った。
 
また大隈重信副島種臣はこの頃から、フルベッキから英語の個人授業を受けている。大隈はフルベッキの授業によってキリスト教に興味を抱いたと述懐している。
 
1864年(元治元年)には、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所、済美館、広運館などと呼ばれた)の英語講師への招聘があり、フルベッキはお雇い教師として幕府に雇われることになった。
 
済美館の教え子には何礼之、平井希昌がおり、また大山巌も塾生の一人であったといわれている。
 
なお、上野彦馬が撮影したフルベッキの写真(済美館の生徒と共に写る集合写真)が長崎歴史文化博物館に残されている。
 
何礼之はその後私塾を開き、前島密陸奥宗光山口尚芳らを輩出した。何礼之私塾の塾生はフルベッキのアドバイスや援助も受けていた。
 
慶応311月、佐賀藩前藩主の鍋島直正等と親交があった関係で、佐賀藩がフルベッキを雇用することになった。
 
しかし佐賀藩が外国人の立ち入りを認めなかったため、フルベッキのために長崎に藩校「蕃学稽古所(慶応4825日以降は致遠館)」が設立された。英語、政治、経済などについて講義をしている。
 
伊藤博文フルベッキの門弟だったといわれることもあるが、伊藤は長崎に長期滞在したこともなく、直接の関わり合いを示す文書は残っていない。
 
しかし伊藤はフルベッキが滞在していた大徳寺に宿泊したことがあり、フルベッキの弟子である何礼之の弟子大徳寺に呼び寄せて、英語を学んでいたことから、両者の間に何らかの接触があったと見られている。
 
慶応3年から4年にかけては薩摩藩土佐藩によるフルベッキの引き抜きが行われようとしたが、大隈らが1000両の給金を支払うよう藩にかけあったことで決着している。
 
明治元年には岩倉具視の子、岩倉具定と岩倉具経が門弟となり、致遠館で学んだ。
 
このフルベッキ写真は昭和48年に島田高資によって、幕末の志士たちの集合写真であるという説が唱えられるようになったが、明治元年から明治二年に撮影されたと見られている
 
1869年(明治2年)213日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師に伝道を引き継ぎ、江戸に向かった。江戸では、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事だった。
 
1868年に復興した開成学校(旧幕府開成所)の教師を務めながら、学校の整備を行い、186912月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)。
 
187010月から1873年まで大学南校の教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めた。1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウイリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて、化学の教授をさせた。
 
ダビット・モルレーが文部省より督務館として召還されたときには大変信頼し、高橋是清に家を探させた。
 
18686月にフルベッキは大隈重信に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、187111月に欧米視察のために使節団を派遣することになった岩倉使節団)。
直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。1877年には、日本政府より勲三等旭日章を授与された。
 
1874年(明治7年)にはラトガーズ大学より神学博士の学位を授与された。この頃に文部省との契約が切れて、明治政府の太政官の法律顧問と正院の翻訳局に勤めていた。
 
しかし、宣教師としての活動に意欲を見せるようになり、1877年(明治10年)9月に官職を退き、学習院の講師を務めた。18787月には一時アメリカに帰国するが、翌1879年には宣教師として再来日する。
 
1886年(明治19年)明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学の教授を務めている。1888年には明治学院理事長を務める。
 
1884年には高崎や高知に、1885年には板垣退助と共に高知市に渡り、伝道活動をした。また、長崎にもたびたび伝道旅行をした。
 
18834月大阪で開かれた宣教師会議で「日本におけるプロテスタント宣教の歴史」について講演した。1878年には日本基督一致教会中会で旧約聖書翻訳委員に選ばれ、文語訳聖書詩篇などの翻訳に携わった。
 
1898年(明治31年)310日昼頃、フルベッキは赤坂の自宅で心臓麻痺のために急死した。68歳であった。
 
葬儀は、313日に芝日本基督教会で行われ、遺体は青山墓地に埋葬されている