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写真分析から裏の歴史を考える 7 フルベッキ写真を分析する その5

≪ 写真分析から裏の歴史を考える 7≫
フルベッキ写真を分析する  その5
西郷隆盛について、もう少し分析します。
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フルベッキ写真での西郷隆盛
 
幕末という時代において、井伊直弼大老により行われた「安政の大獄」ほど、あたら多くの有志を亡くす結果となった凄惨な事件はないでしょう。

吉田松陰(よしだしょういん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)等、死罪になった者が七名、その他遠島、謹慎、追放等の処罰を受けた者がおよそ六十名。
 
これらの結果を見れば、いかにこの事件が未曾有の大獄であったのかが分かります。
安政の大獄で、西郷が最もその死を悼み悲しんだのが、越前福井藩士の橋本左内です。
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橋本佐内

西郷が左内の刑死を知ったのは、西郷自身が安政の大獄の影響で、奄美大島に身を隠して生活している時でした。

西郷は、万延元(1860)228日付けで誠忠組の同志である大久保利通税所篤有村俊斎吉井幸輔の四名に宛てた手紙の中で、左内の死について次のように書いています。

「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」

この手紙の文面を読めば、いかに西郷が橋本の死を惜しみ、そして悲しんだのかが分かるのではないかと思います。

西郷の画像からは、橋本佐内については
 
「ひじょうに有能な人物である。このような男と、幕政の改革を実行していきたいと、思っていた」―――このように反応しています。

橋本左内は 若い頃に、大坂で緒方洪庵(おがたこうあん)が主催する「適々斎塾(適塾)」に蘭学修行に出かけたことは 有名な話です。
 
この蘭学修行中、左内は横井小楠(よこいしょうなん)や梅田雲浜(うめだうんびん)といった当時一流の学者とも交流しています。
 
このことが、後年左内が国事運動に関わるきっかけとなったかもしれません。

安政2(1855)年、左内は医員から 士分に列せられました。
左内は、同年11月に江戸出府を命じられます。藩主・松平春獄から、その洋学の才を 大いに買われたためでした。

そして、左内はその江戸出府中に西郷と初めて対面したのです。
左内の活躍は、この頃から始まったと言えるようです。

西郷と左内が共に手を携え、最も活躍したのが「将軍継嗣問題」です。
江戸幕府13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)の世継ぎに関することです。

家定は心身共に虚弱な体質の人物で、一説では言語すらもままならなかったとまで伝えられています。
 
家定が将軍に就任した当時は、欧米列強の諸外国が 次々と日本に開国を求めるなど、江戸幕府開幕以来の重要問題が山積していました。
 
心身共に虚弱な家定に、それら外交問題を解決出来るはずもなく、そのため志ある諸大名・幕閣らは、リーダーシップを十分に発揮出来る優秀な人物を世継ぎ、つまり将軍にすることで、この国難を乗り切ろうと考えたのです。

薩摩藩主・島津斉彬、越前福井藩主・松平春獄ら当時賢侯と呼ばれた大名らは、御三家に次ぐ身分の御三卿(ごさんきょう)である一橋家の当主・一橋慶喜ひとつばしよしのぶ・後の徳川慶喜)に白羽の矢を立て、彼に家定の跡を継がせるべく、運動を始めました。

しかし、それに対抗し、当時まだ10代半ばであった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ:後の家茂)を跡継ぎに据えようとする運動が、紀州藩の付家老・水野忠央(みずのただなか)を中心に開始されたのです。

慶喜を擁立する一橋派と慶福(家茂)を擁立する紀州派は、互いに各方面で激しい運動を始めました。
 
一橋派の中心人物であった春獄は左内を、斉彬は西郷を懐刀として使い、「将軍継嗣問題」に奔走させました。

特に左内は、幕閣対策や朝廷工作にも携わり、広範多岐に渡って懸命な運動を続けました。
 
また、西郷とは互いに連絡を取り合い、互いの藩主の命に従い、慶喜擁立に努力したのですが、二人の運動は、一人の巨人の登場により、大きく阻まれることとなったのです。

それは彦根藩主で 大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)です。

安政5(1858)4月に大老に就任した井伊は、独断で紀州藩の慶福(家茂)を家定の世継ぎに決定し、慶喜擁立に動いた諸大名や藩士達を一斉に処罰し始めました。

これが世に言う「安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。

薩摩藩では藩主・斉彬が急死し、西郷は安政の大獄の影響で僧・月照と共に京都から脱出しますが、最後は鹿児島で入水自殺を計ることになります。

一方の福井藩では、藩主・・松平春獄が隠居謹慎を申し付けられました。
 
そして左内はと言うと、安政6(1859)107日、「公儀憚らざるいたし方、右始末不届付」との理由で死罪を命ぜられ、江戸伝馬町の獄で 斬刑に処せられたのです。

橋本左内、享年26歳。若き天才の早過ぎる死でした。

明治10(1877)924日、西郷隆盛は故郷鹿児島の地において、その生涯を終えました。

自刃した西郷が携帯していた革文庫の中に、一通の手紙が収められていました。
それは、西郷と左内が「将軍継嗣問題」に奔走していた頃に書かれた 左内からの西郷宛の手紙でした。
 
西郷は、左内の手紙を亡くなるその瞬間まで 肌身離さず持っていたのです。
西郷にとって橋本左内という人物は、一生忘れることの出来ない同志であり、永遠の友人でもあったのです。
 

そういう師や旧友や心友を次々に失うなか、時代の歯車のほうはさらに狂ったように加速しました。
 
西郷の2度目の島流しは、奄美大島よりさらに南の徳之島と沖永良部島でした。今度の天命の事情は、こういうものです。

まず、井伊直弼桜田門外に暗殺されたことで、一橋慶喜を担ぎ出す賽の目がまた出てきたのです。
 
久光はこの機に乗じて、薩摩の権勢を中央に見せたかったのです。しかし藩内の意見がいっこうにまとまりません。
 
そこで、ここはやっぱり西郷の出番だろうという内外の進言で、西郷は文久2年1月に奄美大島から呼び戻されたのです。

呼び戻されたはいいが、西郷は久光の言うことなど聞きたくはない。大久保がしきりに仲をとりなすのだが、一人勝手に温泉に籠ってしまったといいます。
 
執拗に西郷は出番を要求されました。
藩命であればやむをえないし、薩摩のためには働かなければならないと決めたのです。

西郷は、幕府と朝廷の両方に圧力をかけるために久光が大軍を率いて上京するという仕事を、結局は先発隊として引き受けました。
 
このとき久光は、西郷に下関で準備をして、自分が行くまで待っていろと厳重に命じたのです。

西郷は村田新八と鹿児島を出て、下関では白石正一郎の屋敷に入ったのです。
 
ところが久々に天下の街道を動いてみると、事態がただならない雰囲気であることがすぐ見てとれました。
 
討幕の兵を挙げようとする志士たちが隠密裡に続々と京都に集まっているのです。
西郷は久光との約束を破って大坂に入り、これらが暴挙とならないための手を打ち始めたのです。

久光は激怒しました。
 
自分の命令に背くとは何事かと怒り、藩主の命に背いたことで、打ち首にしたいのはやまやまだが、大久保の制止もあって流罪を下したのです。
 
こうして西郷は6月に徳之島に送られ、そこで2カ月滞在させられ、さらに南の沖永良部島に流島されたのです。
 
西郷隆盛36歳のときです。
若い村田新八のほうは鬼界ヶ島に流されました。

イカナが2歳半の菊次郎と生まれたばかりの菊草(女児)を連れてやってきたというものの、絶海の孤島での日々は壮絶でした。
 
わずか2坪の牢格子で囲った部屋でした。台風が直撃するところでした。

西郷はこの孤島で、久光が奈良原喜八郎らに命じて 有馬新七らの過激派を伏見寺田屋に襲わせたことを知ったのです。
 
また、寺田屋事件連座した田中河内介が、薩摩に船送りされる途中で 親子ともども惨殺されたとも聞きました。
 
 
藩内における権力拡大の過程では、藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーに、小松帯刀や大久保利通などを登用しました。
 
ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは 久光は終生反りが合わず、藩内有志の嘆願により元治元年(1864)に西郷を赦免する際も、
 
苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に 歯形を残したなどの逸話があるように、のちのちまで両者のあいだには確執があったと いわれています。
 
このことについて⇒ 敬愛していた島津斉彬を殺していた首謀者の一人としてみていたようで、西郷もまた終生許していなかった、と西郷の画像は 答えています。
 
さて、西郷隆盛の「書」を通して、その人物の分析をしてみます。
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この「書」には、ひじょうに良好なエナジーが溢れています。
西郷隆盛という人物の偉大さが、この「書」から伝わってきます。
 
この書から、書き手(西郷隆盛)の霊体を分析しました。
  肉体は強壮。内臓諸器官に異常は見られません。
  身体の歪みは、「メンタル・ストレス」が原因で、このメンタル・ストレスを消去しますと、ひじょうに軸の取れた肉体が出現します。
しかし―――
 
  月照に思いを馳せると、強烈に身体が歪みます。彼と共に死ねなかったことを、かなり悔いているようです。
 
  島津正光を反映させますと、「胆嚢」にストレスがかかります。胆嚢とは「怒り」などに関わるメンタル・ストレスに反応する部位です。
 
  主君の島津斉彬を反映させますと、「すい臓」にストレスがかかります。
すい臓とは「深い悲しみ」に反映する器官です。
 
  「日本」という言葉では反応しませんが、「朝廷」では 「腎臓」にストレスが関わります。
 
この書をしたためた当時は、朝廷は「不安」「心配」に関わる「腎臓」が反応していたようです。「日本」という概念はまだなかったのかもしれません。
 
西郷隆盛については、もう少し稿をすすめます。
 
             2014年9月15日記