< 日本のピラミッド 1 >
葦嶽山 その1
日本には 太古より独自の文化が発祥しており、その存在の証として「ピラミッド」が この日本にも存在する―――と 酒井は主張していたのです。
語学が堪能であったことから、外国武官接待係として 日露戦争に従軍しています。
その後、シベリア出兵の通訳として従軍して、その際 悪書「シオン賢者の議定書」と出会い、反ユダヤ主義を知り、それを日本に紹介しています。
酒井の視点では、ユダヤ人とフリーメーソンの暗躍も、最終的には「神選の君主」たる皇室の栄光につながるという証拠文書となり、シオニズム(パレスチナの故郷にユダヤを再建するという運動)も 日本回帰運動として解釈されてしまうようです。
そのとき 酒井はギザのピラミッドなどの研究をしたようなのです。
その知識が 後の「太古日本のピラミッド」の出版に繋がったようです。
なぜ 酒井が日本の太古の時代にピラミッドが造られたのか、どこに造られたのかなどは、ある文献との出会いがありました。
それは―――
知る人ぞ知る太古日本の歴史を綴った『竹内文献(竹内古文書)』です。
竹内文献とは―――
しかし、竹内文献では、このとき、平群真鳥は没しておらず、実は、新興の勢力から日本古来の伝承を伝える文献を守るために、武烈天皇は平群真鳥を殺したと見せて、ひそかに越中へ落ちのびさせたとされているのです。
内容は超古代の歴史が記されており、日本だけでなく、世界全体を対象とした地球規模の壮大な文明の存在が綴られているのです。
つまり―――過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていたのです。
「竹内文献」が世に出てきた所以は、竹内家66代目にあたる竹内巨磨が、明治・大正時代に宗教結社「天津教」を設立して普及活動を始めてからのことです。
このー竹内文献の中に、問題の「巨石遺構」に係わる記述があったのです。
それは、竹内文献に伝わった「御神宝」の中の御神体石(ごしんたいせき)に神代文字で彫り込まれていました。
『イヤヨ月円(まど)六日、 吉備常根本国
大綱手彦命天皇霊廟 亦ノ名メシヤ
日ノ神月ノ神 造主神日来神宮』
要約すると、
三月十六日に吉備津根本国(きびつね もとつくにー備前・備後の国をさす)に、大綱手彦天皇(おつなてひこ すめらみこと)の霊廟(れいびょう)を造ったと云うのだがー、
この文章の最後の一節に「日来神宮」という言葉が登場したのです。
なんと読むのかー?発音は、ヒラミットです。
つまり、ピラミッドとなるのです。
天之浮船
竹内文献によれば、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であったというのです。
そこには、すべての人類の元宮として建立された「天神人祖一神宮(てんじんじそ いちじんぐう」という壮大なパンテオンがあったといわれておいります。
世界の人々は、こぞって、この元宮にお参りに来たといいます。
と云っても、現在、私たちが神社にお参りするという感覚ではないようです。
つまり―――ここに世界の統治本部があったといい、それがある場所を「高天原」と呼んだというのです。
竹内文献をたどると、その中に浮かぶ世界がいかに驚くべきものかが分かるといいます。
太古の神々は天空を超高速で駆ける「天浮之船(あめのうきふね)」と呼ばれる飛行艇に乗って 世界を巡行したというのです。
『ケサリ月円五日、詔(しょうー召して)して万国巡行、
大力勇神通力にて一日八千里、天空浮舟乗行給ふ。
又一日一万一千里行給ふ。時に万国五色人王、又尊者貴く、天神の御来光と云ふ拝礼す』
この記述が登場するのは、上古十八代・大斗能地王天皇(おおとのちおう・すめらみこと)の時代のことです。
二月十五日に天皇が世界の巡行にお出かけになった。
一日に八千里、つまり、三万二千キロ、あるいは、一万二千キロを、天之浮船に乗って行かれた。
そして、世界の各地を訪れて礼拝された、というのです。
一方で、あそこまで詳細な偽書はありえない、やはり真実が相当数含まれている―――と解釈すべきものである、との見解もあります。
そのため、『竹内文献』に関わるものは、ことごとく管警の処罰の対象となってきた歴史があります。
『竹内文献』については、さらに論を進めていきますが、まず酒井の『太古日本のピラミッド』にていて 触れていきたいと思います。
つづく
2015年2月13日記